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『観光客の哲学』から考えるレビューの極意(後編)

「レビューを書くまでがシラス」。前回自分が書いた言葉にとらわれて、最近は本当にレビューを書くまではシラスを見た気がしない。3000字くらい書いても、「これだけではあまりにも少なすぎるから、それなら投稿しないほうがマシではないか」と考えたりもする。3日も書いていないと禁断症状で手が震えてくる。これがレビュー中毒というものだ。
書いているといろんなことが思い浮かんできて、自分はこんなにいろんなこと考えてるんだ、と不思議な気持ちになる。自分のなかからこんな言葉が出てくるなんて、と嬉しくなる。ニヤニヤ。これがレビュー中毒者の姿だ。

レビューを書く。それは自分を超えていく営みである——。

改めて、「観光客」とは

ありがたいことに、前回の記事は予想外の反響をいただいている。これほど多くの人が上手く文章を書きたいと思っていることに驚いている。書くということにはやはり独特の魅力があるのだろう。まあ、noteというものがそもそも何か書きたい人のためのプラットフォームみたいなものなので、その意味ではそれほど驚くべきことでもないのかもしれない。
もしかしたら、「観光客」と「文章」という組み合わせが意外で興味を持ってくれた方もいらっしゃるだろうか。あるいは「観光」そのものに関心を方お持ちの方もおられるかもしれない。いずれにせよ、自分の文章を読んでもらえることは素直に嬉しい。引き続き、観光気分で読んでいってください。
それから、そもそも「シラス」って何?と少しでも興味を持たれた方は、ぜひ私のレビューなども参考にして、一度動画を覗いてみてほしい。論破ゲームに明け暮れ「言論」という言葉そのものが死語になりつつあるこの世界において、生きた言葉が飛び交う奇跡の現場を目撃してほしい。

さてさて。ここまで私は「観光客」という言葉を次のような定義のもとで使ってきた。すなわち、「目的もなく行き当たりばったりで旅行してみたら、結果的にいろんなことを知った、学べた」。それが観光客である。そんな観光客がレビューを書くとは、「目的もなくとりあえず書いてみたら、自分でも思ってもみなかったことが書けた。自分の考えがわかった」ということである。ここまでは良いだろう。

しかし、この「観光客」という概念、知っている人は知っているように、私独自の概念ではない。東浩紀という哲学者が提起した概念である。それほどズレた解釈はしていないはずだが、私が使いやすいように多少意味を変形して使わせていただいた。

とはいえ、借りパクは良くないので、そろそろ持ち主のもとに返そう。東自身はこの言葉をどのような意味で使っているのだろうか。意味のコアとなる部分を取り出してみよう。

東浩紀は『観光客の哲学』のなかで、現代社会における人間の主体性のあり方を「観光客」にたとえている。それは、近代の政治哲学が前提としてきた理性的で合理的な主体に対置される、もっと感情的で非合理的な、軽薄な主体である。

もしこれが難しく聞こえるなら、さしあたりの理解としては、「意識低いヤツ」ぐらいで十分だ。修学旅行で「バナナはおやつに入りますか」と聞いてしまうような意識高い系の真面目くんではない(いや、これはむしろ意識低いのだろうか・・・?)。真に意識の低い観光客は、さしたるプランもなく、ただ物見遊山的にぷらんぷらん観光するのである。ね、こういうクソ寒いこと言ってるヤツこそ、真に意識の低い観光客である。

ここで重要なことは、観光客は、観光先では常に第三者的な立場に置かれているということである。観光客は、そこの住人ではない。もしかしたらそこの住人は、様々な地域的な問題に取り囲まれているかもしれない。観光客など来てもらっても迷惑なだけかもしれない。しかし観光客はそんなことはお構いなしに、無責任に、グルメを楽しむなりショッピングを楽しむなりする。

しかし、観光客はそのこ住人ではないからこそ、言い換えれば当事者ではないからこそ、そこにある魅力を発見する可能性をもっている。海外からの観光客を日本で案内したことのある人なら、このことは実感としてわかるだろう。私たちから見れば当たり前すぎてなんでもないことを、彼らは面白がる。それをオリエンタリズムと呼ぼうとエキゾチシズムと呼ぼうと、観光客にしか見えないことはたしかにあるのだ。

適当に書く

観光客の概念からは他にも様々な含意を引き出すことができるのだが、今はとりあえずこのくらいの理解で良いだろう。では、それはレビューを書くこととどう関係するのか。

観光客の可能性は、その第三者性にある。言い換えれば、観光客としてのレビュワーは軽薄であれということである。

なぜそんなことを言うのか。私は多くの人に気軽にレビューを書いてもらいたいと思っているからである。レビューの楽しさを知ってもらいたいと思っているからである。

レビューを書くと言うと、なかには何か配信内容に沿った真剣なことを書かないといけないのかと身構えてしまう人が、もしかしたらいるかもしれない。

ナンセンス!

適当に書けば良いのである。

とはいえ、その「適当」が一番難しいのだ、という人もいるだろう。ごもっともである。実際、私のレビューを読んでもらえれば気づくと思うが、私のレビューは適当に見えて、実は真剣そのものである。真剣すぎて浮いていると自分でも思う。

しかし、この真剣さは、ほとんどの場合、適当に書き始めた結果そうなっているのである。逆に、最初からやる気満々で肩肘張ってガチガチの物を書こうとしたら、本当にガチガチに凝り固まったものができる。そう言う文章は、暑苦しくて読みにくい。狙いすぎて滑っているイタい文章にもなりかねない。

作詞家・松本隆の自伝に『微熱少年』というのがある。私は読んでいないのだが、いい題名だなと思う。私にとっては松本隆ははっぴーえんどのドラマーとして認識されていて、はっぴーえんどの感じはまさに「微熱」である。「はっぴーえんど」って、バンド名ですよ。ハッピーエンドでもなくHappy Endでもなく、ぱっぴーえんど。
すでに微熱感に溢れてるじゃないですか。微熱感に溢れるというのもヘンだけど。ともかく、ヴォーカルが熱唱するわけでもないし、ギターがヘッドバンギングするわけでもない。だけど、静かに熱い。暑苦しいのではなく、アツい。ちょっと不穏な感じもある。微熱なんです。

もう一つ別の例を。
加藤典洋。この人は日本の戦後の問題、特に9条の問題についてずっと考えていた素晴らしい批評家だが、彼もやはり、9条問題を考えるとき、熱くなりすぎると良くない(そういう表現は使っていなかったと思うけど)みたいなことを言っている。この場合「熱い」とは、専門的になりすぎることを指している。9条問題は憲法の問題であり民主主義の根幹にかかわる問題なのであるから、国民目線で見てわかる議論をしなければ意味がない。それを専門家たちだけによるマニアックな解釈論争の対象にしてはいけないのだ。平熱で、「今日ご飯何食べようかな」ぐらいの気分で「9条どうしようかな」と考えることができれば一番良いのである。

私が「適当に書く」と言っているのは、こういうことである。ガリガリ勉強して書く必要などまったくない。

このことはいろいろな場面に応用可能だ。たとえば、質疑応答に関しても同様のことが言えるだろう。イベントのためにものすごく頑張って勉強してひねり出した質問というのは、必ずしも良い質問にならない。質問の良し悪しは結果としてしか判断できない。つまり、良い答えを引き出せたなら、それは良い質問だったのだ。あまりにもマニアックで研ぎ澄まされた質問は回答者を困らせてしまうだけだし、他の観客も置いてけぼりにしてしまう。それよりも、一見トンチンカンな質問のほうが案外話を面白い方向へと展開させるものだ。

レビューも同じで、「え、そこにつながるの?」みたいなレビューが読んでいて面白いのだ。つまりは「誤配」である。「観光客の哲学とは誤配の哲学なのだ」と東自身も言っている(『ゲンロン0 観光客の哲学』198頁)。「誤配」とは郵便物が誤った宛先に届けられてしまうこと。一見すると単なる手違いだが、逆に言えばそこには新たな出会いがある。それが新たなアイディアを創出することにもなる。「観光」と「文章」が出会うことで今こうやって私が記事を書けているように。しかし、この組み合わせにしたって、「観光とは何か」「文章とは何か」について脳筋でゴリゴリ考えてしまったら生まれなかったはずだ。

私の場合は、熱くなりすぎたなと思ったら、ヘンな悪ふざけの文章とかを紛れ込ませちゃう。これはいわゆる「自己ツッコミ」というやつで、「ちょっと熱くなりすぎちゃう?」とどこからか聞こえてくるのである。聞こえてくるだけまだマシなのだろうが、要は自分で照れくさくなってくるのである。「なんでレビューごときでオレはこんなに真剣になっているんだ笑笑」みたいな。悪ノリが過ぎたかなと反省することも多々あるのだけれど。

無知の知

ちょっと視点を変えてみよう。「適当に書く」とは、配信内容を完全に理解していなくても良い、ということでもある。私はたぶん根がマジメな人間なのだろう、レビューを書く以上、配信内容をちゃんと理解してからでないといけない、などと考えてしまいがちである。もちろんそれはそれで大事なことなのだが、では理解できなかった場合はレビューを書いてはいけないのか。

そんなことはない。理解できなかったら、理解できなかったと書けば良いだけだ。「無知の知」ではないが、そういうある種のメタな認識は大事だ。理解できなかったことを理解している、ということは立派な理解なのである。

とはいえ、「理解できませんでした」だけのレビューというのも、あまり面白いとは言えない。そこで、理解できなかったことを理解したあとは、「なぜ理解できなかったのだろう」と考えてみると良い。あるいは、面白くないと思う配信もたまにはあると思う。そのときは「なぜ私にとって面白くなかったのか」を考えると面白い。

こういう考え方を、私は学校の授業を受けていて自然に身につけた。学校の授業って、本当に面白くない。いや、もちろん全部がそうだというわけではない。すごく尊敬できる先生もいた。私は性格上、めちゃくちゃ熱中するか、死ぬほど退屈と感じるか、どちらかなのだ。でも退屈で死ぬのは命の無駄だ。だから、退屈しないようにするにはどうすれば良いかと考えた結果、「この授業はなぜ退屈なのか」を考えることにしたわけである。

それでも、なぜ退屈かがわかってしまうような授業は究極に退屈な授業なので、もうどうしようもない、寝るしかないわけだが、まあちょっとした思考の訓練ぐらいにはなるのではないか。「ここをこうしたらこの授業はもっと面白くなるのにな」とか、「こういう下手なサービスをするからこの先生は生徒に嫌われるんだな」とか。残酷なことを言っているようだけど、性悪の私はどうしてもそういうことを考えてしまう。

要するに、メタな視点を持つことが大事だということだ。大事というか、それを持てると強いと思う。レビューを書くためには、まずは「このイベントは面白い!」「この番組はアツい!」もしくは「面白くない」「シケてる」と感想を持つことが最低限必要だが、「面白かったです!」だけでは面白いレビューにはならない。そこで、さらにつっこんで、なぜ面白いと思ったのかが書けると、読んでいる方も面白いし、何より書いている本人にとって楽しい経験になるはずである。理解がより深まるはずである。

知の無知

しかし、書いているうちに、あなたはある重要な真実に気づくと思う。それは「知の無知」である。
さきほど私は「無知の知」が大事だと言った。これは古代ギリシアの哲学者ソクラテスが言った言葉である。含蓄のある言葉だ。しかし、どこか胡散臭くはないか?ソクラテスが言っているのは、つまりはこういうことだ。「あんたは何でも知ってるようなふりしてるけど、オレの質問に全然答えられなかったじゃん。知ったかぶりじゃん。むろん、オレだってあんたと同じように知らないことばっかりだよ。だけどさ、オレは自分は何も知らないということを知ってるんだよ。その点で、オレはあんたよりは上なんだ」。
はいウザい!これがマウンティングでなくて何だというのか。もちろん、ソクラテスは偉い哲学者だと思う。自分は何も知らないということを知ることが、何かを学ぶときの第一歩である。それは本当に大切なことだと思う。

しかし、私は逆もまた真であると思っている。つまり、人は本当に何も知らないということはあり得ない。ある事柄に関して何も知らないと思っていても、実際には少しぐらい何かを知っているはずだ。本当に何も知らないということはめったにない。「何も知りません」というのはむしろ知らないふりをするときに言うセリフではないだろうか。「記憶にございません」というのと同じで、何か隠していたり逃げたりするときのセリフではないだろうか。

ピエール・バイヤールというフランス人が書いた『読んでいない本について堂々と語る方法』という面白い本がある。この本の趣旨はまさに、ある本について本当にまったく何も知らないということはありえない、ということである。例えば『資本論』について考えてみよう。誰もが名前は知っているが誰も読んでいない本、しかし読んでいないというのはあまりにも恥ずかしい本、したがって誰もが読んだふりをする本ランキングNo.1のこの本について、あなたはどう評価している?こう聞かれたら、あなたはもし全然これを読んだことがなくても、何か語らざるを得ない。さあどうしよう。「まったく知らない」というのは嘘である。たとえばそれをマルクスが書いたことぐらいは知っているだろうし、それが資本について書いたものであることぐらいは題名からわかるだろうし、資本主義社会の矛盾について解明した本であるということぐらいは誰かから聞いたことがあるだろう。ほら、あなたはこの本のことを知っているのだ。あとはそれを適当に組み合わせて喋ればよい。

このことは、読むということがどういうことかということを考えさせる。ある一冊の本について、何の前知識もなしに読むということはない。多くの場合、誰か人から勧められたり、新聞の書評欄に載っていたり、本屋で平積みにされていて帯文が気になったりという理由で読み始める。単に本屋で平積みになっているという事実からだけでも、「ああこの本は今売れてるんだな」ぐらいの前知識はついてしまう。そのときあなたは、「この本は売れている本」という前提で読み始めることになる。逆に言えば、読むということはただ文章を情報として取り入れるということではない。本を読むとき、その周辺あるいは背景にある無限の知識・情報も、同時に読んでいるのである。

このように、「何も知らない」ということはありえない。もっといえば、自分は無知だなどというのはある意味で傲慢でもある。なぜなら、今述べたことを勘案するなら、本当の本当に無知であるというのは、実はかなりラディカルなことだからである。無知であることのラディカルさについては、おそらく別の議論を立てて哲学的に深く考えてみる価値があるくらいである。しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。重要なことは、私たちはすでにいろいろなことを知っている、知ってしまっているということである。レビューを書くときも、この「知ってしまっていた」ことに気づくことが大事だ。それは、意識的にか無意識的にか、自分は知らないことにされていたことである。つまり、思い出したくないので抑圧されてしまった記憶とか、知らないふりをしているほうが都合がいいものとかである。しかし、それをあえて掘り起こしてみよう。そうすると、それがレビューを書くときのとっかかりになる。そしてそれが、あなた独自の番組の見方になる。あなただけの切り口になる。

おわりに

私がこの記事で書いたことには、新しいことは何もない。たぶん、あなたがすでに知っていたことばかりだと思う。私にできることは、せいぜいその知っていたことを思い出させることぐらいだろう。

前回の記事で私は冒頭、もっとたくさんの人にレビューを書いてほしい、と書いた。それは、裏返して言えば、私はあなたのレビューを読みたいということである。

新着レビュー欄でお待ちしております。



レビューシリーズの今後について。
いや、別にシリーズ化するつもりもないのだが、いつか「レビューの極意:実践編」という記事を書こうかと思っている。これは自分のレビューを自己解説する企画になる。具体的には、「このレビューのここが難しかった」とか「この言い回しはこうやって思いついた」とか、裏話的なものになるだろう。
とはいえ、かなり気恥ずかしい企画でもあるし、「お前何様?」という感じがしないでもないので、今回の記事の反響など様子を見ながら、いつかそのうち機会があれば、ぐらいの気持ちでいる。
何かご意見等あれば、コメントをお寄せください。

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