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【読書日記】渡辺憲司『江戸の岡場所』

渡辺憲司(2023):『江戸の岡場所――非合法〈穏売女〉の世界』星海社,302p.,1,400円.
 
ある書店でふと見つけ,買わずにいられなかった。私は研究者を志した30年前から「場所」なる概念にこだわってきた。英語圏の地理学でplaceなる概念に関する議論が展開されていて,そこに関心を持っていたからである。しかし,その訳語としての「場所」という概念が思ったよりも厄介であるという思いをずっと抱いていた。その地理学によるplace論の一部は,日本語の「居場所」という概念に対応するように思うが,この概念はplaceが地理学以外にも拡大している典型のようなもので,サード・プレイス論なども含め,なんでもありような感じもする。
そこで,私はこの「場所」という言葉自体がどう使われるのか,というところに敏感になりたいと思っている。それにはやはり語源を辿ることが重要なのだが,日本語の場合,語源を辿る作業はそう簡単ではない。ということで,古い「場所」の用法として,「場所請負制」に注目している。また,相撲の「場所」という用法についても,相撲の歴史をそのうち学びたいと思っている。そして,本書によって私が初めて知った言葉である「岡場所」,これについて本書で学んでいきたい。
ちなみにこの出版社,星海社って初めて知ったけど,本書は「次世代による次世代のための武器としての教養」と銘打って2011年から始められた星海社新書の一冊。一般的な新書よりも横幅があるが,なかなか素敵な大きさで装丁も素敵。他にどんな本があるのか,書店で気にかけてみよう。

はじめに
第一章 岡場所とは
第二章 岡場所黙認の時代
第三章 岡場所禁圧の時代
第四章 岡場所活況の時代 その一
第五章 岡場所活況の時代 その二
第六章 深川雑考
第七章 遊里品川
第八章 北関東の玄関千住
第九章 岡場所根津盛衰史
第十章 夜鷹哀史――岡場所壊滅
さて,まずは岡場所の説明から。端的にいうと江戸時代の都市には遊郭と呼ばれる場所があった。私は観ていないが『鬼滅の刃』にも「遊郭編」とあるので,最近は有名な概念かもしれない。本書の序文(はじめに)は「吉原中心の遊郭史は,権力者側からの視点だ。」(p.3)という文章から始まり,本文ではあまり「遊郭」という言葉は使われない。本書は出たばかりの新刊であり,新刊を読んだら私の所属する学会の雑誌に書評を投稿したがるのが私だが,本書は私の立場では書けないなと思った。それは,後半をうまく咀嚼できていないと思ったからでもあるが,地理学内にも遊郭研究があり,それらをしっかり読まないと,気軽に本書について分かったようには書けないなと思った次第。ということで,遊郭とは何かという説明についても簡単にはできない。大雑把にいえば日本にも古くから買売春の文化はあり,公的に認めながらも,都市の一角に閉じ込めることで多くの人の眼には触れないような措置がとられていた。その一角を一般的に遊郭といい,江戸(東京)におけるその代表格が吉原ということになるが,本書において吉原とは「管理売春総師の名を権力に与えられた」(p.3)とされ,「ことに太夫とよばれた高位の遊女との交際は,高級社交場としての多くの人々の憧憬の対象となった。」(pp.3-4)とされる。それに対して,「江戸の盛り場の至る所に根を張り庶民の支持を受け,独特の文化土壌を育んだのが,吉原以外の買売春地域〈岡場所〉である。」(p.4)と端的に説明されている。端的にいえば,吉原は公的に認可された遊女である公娼が働く場であり,岡場所は認可されていない私娼が売春行為を行う場所である。5年前に読んだアラン・コルバン『娼婦』にも同じような議論があったと思い,自身の読書日記を辿ってみたが,ろくに本の中身を書いていない,あまり優れた読書日記ではないな。いずれにせよ,フランスでも売春を管理するために娼婦を登録制にするわけだが,そうなるといろいろとお金がかかり,買春する利用者の方も価格が上がる。登録者も無期限に増やすわけにもいかないため,登録をせずに安価で売春する私娼が増え,公娼と私娼,それは当人たちだけでなく,それをとりまく業者同士の軋轢の原因にもなる,そんな議論があったような気もする。

さて,本書は帯に「江戸遊女史研究の第一人者がひもとく本邦初の岡場所入門の決定版!」とあるように,前半はとても丁寧で,私の知りたいことは大抵説明されている。「岡場所は,幕府後任,官許の吉原に対して吉原以外の非公認・黙認の遊里のすべてをいう。品川・千住・内藤新宿・板橋の四宿は,準官許で飯盛女を置くことが許されたので,岡場所から除くといった考え方もあるが,そこにいた遊女の多くは,黙認の形が多く生活実態も岡場所と同様であったと考える場合が多い。本書でも,四宿は岡場所として扱った。」(p.19)とある。最終的には「岡場所」という表記が一般的になるが,「岡」とは吉原の「外(ほか)」「他(ほか)」であるとか,「岡目八目の岡と同じく局外の意である。」(p.18)と説明される。そして「傍(おか)」という「わきの意味から転じたという節もある。」(p.18)という。実際の表記の実例も挙げられ,1779(安永8)年刊の『深川新話』に「岡場所の公界しらず」といった表現があり,「公界しらず」という表現については,1623(元和9)年刊の『醒酔笑』に「汝がやうなる公界知らずには,ちと仕付を教へん」という語例もあるという(p.19)。「岡場所」という言葉の定着についてもしっかりと書かれている。1756(宝暦6)年刊の『風俗八色談』に「言葉遣も吉原と踊り子と岡場所といりまじり,半分づつ物をいふを粋と覚へ,座つきこころばへまで野鄙に成しなり」(p.24)という記述を引用している。他にもいくつも用法を列記し,18世紀中ごろには「岡場所」という言葉が上記の定義の語義として定着していたという。
そうした,時代背景と本書のテーマである岡場所という事象と言葉の成立とを確認した上で,その岡場所の変遷を時代区分して話を展開していく。
岡場所黙認の時代:16世紀後半から17世紀前半までの約70年間。散娼から集娼への進展
岡場所禁圧の時代:17世紀後半から18世紀初頭までの約60年間。新吉原の開設(1657年)
岡場所活況の時代:18世紀初頭から18世紀末までの約70年間
岡場所壊滅と放縦の幕末の時代:18世紀末から19世紀後半の明治維新までの約80年間
ということで,目次はこの区分に沿っていて,古いところから始まります。
ここで,新吉原と書いたように,それ以前にあったものを旧吉原と呼んでいる。本書によれば,通説では1605(慶長10)年に庄司甚内なる人物が幕府に遊郭の設置を願い出て,1618(元和4)年に日本橋葺屋町の東隣に遊郭を開業したとされている(p.34)。これは,その当時から江戸に遊女屋が散在していたことから,「江戸の風俗の乱れを正す」(p.36)という目的から,管理売春を目的としたことから設置された遊郭が吉原ということになる。買売春の管理という話は人身売買という話に展開していく。そこで,なかなか興味深い記述がある。「17世紀の東アジアのグローバル化はすさまじいものがあった。その仲介的な役割を果たしたのがキリシタン商法である。キリシタン弾圧という非人道的な宗教政策を念頭に置かなければならないが,きわめて多くの女性たちがキリシタン商人の手によって奴隷として海外に流失したともいわれている。」(p.40)吉原は当初「葭原」と表記されていたようだが,営業時の1618(元和4)年に吉原と改名されたとのこと。「吉原の歴史の始まりは,新たな私娼史,岡場所史の始まりを告げるものであった。」(p.42)
あまり詳しく解説してもきりがないので,後は大まかに紹介することにするが,上記の時代区分に従う岡場所の変遷も常に吉原との関係とともにある。吉原という公式な遊郭がありながら,高価でそこには行けない買春する男たち,そして公娼にはなれないが売春をする私娼たち,そうした需要と供給の原理で吉原以外に買売春する場が生まれたということだ。自然発生であれば,「場所」として集まる必要はないのだろうが,現代でも映画館や演劇場,本屋などが自然に集まって立地するように,やはり売り手にとっても買い手にとっても,ある程度ここに立地すれば商売が成り立つ,といったような「場所イメージ」とも呼べるようなものがメディアの発達以前にもあったのかもしれない。本書では「湯女」という存在が説明されている。現代に続く銭湯のようなものではないようだが,有料の風呂で,「髪をすいたり垢をかいたりするなまめいた女性が,2,30人もならんで居た」(p.43)とされるようだ。現代のソープランド(行ったことはないので,実際にどんなサービスなのかは知らないが)に近いのだろうか。やはり現代の性風俗産業にもさまざまな形態があるように,吉原というフルサービスの買売春以外のさまざまなローコストサービスを提供する性風俗産業は成立していたというのは納得できる。しかし,そうした役割分担はいつでもお互いに干渉せずにすみ分けられるわけではない。特に,買売春を管理するために吉原を設置した幕府としては,そうした岡場所を黙認し続けられるわけでもない。とはいえ,その取り締まり方も面白い。端的にいえば,岡場所の私娼や業者を罰してやめさせるというのではなく,吉原に抱え込むのだ。そんなことをして,吉原が娼婦や業者で混み合ったりサービスが低下しないのかと気になるが,その辺りはさほど説明されていなかったように思う。ただ,上の時代区分で書いたように,禁圧の時代の後に活況の時代が来るわけで,そういう意味では岡場所への取り締まりというのは成功しなかったといえる。
とはいえ,岡場所活況の時代は18世紀に入り,江戸という都市自体が膨張していく時代であったことも大きいのかもしれない。第四章の冒頭では,内藤新宿という現在の新宿一丁目から三丁目に開発された宿場町の様子が語られる。なお,伊勢丹のある交差点が「追分」であると説明されていて,確かそこには「追分だんご」の店舗があったよなと思い出す。そういえば,時代劇などでも必ず宿場にはだんごやがあり,なんて想像をしてみたり。ともかく,「江戸の繁栄は拡散していた。江戸の庶民の郊外への行楽,レジャー文化は確実に広がりをみせていたのだ。新宿は,新興のレジャー基地の役割を果たしていた。」(p.93)という。活況時代の「その二」である第五章の前半は,この時代の飢饉を語り,1787(天明7)年の打ちこわしにも言及する。その影響で吉原も衰微の一途をたどったとされ,客層も遊女も格差が広がったという。1968年に出された岡田甫という人物の「江戸娼婦雑話」という文章では,江戸時代の娼婦の数は吉原に3,000,60箇所の岡場所に3,000人,夜鷹など4,000人,合計1万人と概算している。その詳細については著者が意義を申し立てているが,120万人ほどの人口の1%,1万人程度の売春婦が江戸のいたということは「あながち的を外れた数ではない。」(p.131)といっている。第五章の後半では,岡場所一覧として,19ページを使って,99箇所の岡場所について,過去の資料に基づいてそのランクも含めて丁寧に記載されている。そんな総論を踏まえ,第六章では深川,第七章では品川,第八章では千住,第九章では根津と,各論として各場所の事情を説明している。
上に出てきた江戸時代に4,000人いたという夜鷹については,『日本国語大辞典』を引用して,「特に,夜間に街頭に出て客を引く低級な売春婦」(p.270)と説明されている。個々人の売春婦かと思いきや,「吉五郎は夜鷹の差配の主人といった存在である。夜鷹の売価は,24文というのが通例である。そこから4文をピンハネして大儲けして獄門になったという話である。」(p.275)という人物もいたようだ。そして,「夜鷹とは組織的隠売女であった。本拠を本所・鮫ヶ橋などあるきまった場所に置き,夜店に出張として出向いたのである。」(p.276)とも説明されている。幕末に吉原も衰退し,「新政府は公認遊郭をさらに拡大し,疑似吉原は,全国に広がる。遊女たちはさらに深い闇の近代社会に閉じ込められていったのだ。」とし,「吉原の変質とともに岡場所の歴史もまた閉じた。近代の公界は暴力的に岡場所を取り込み〈苦界〉を広げたのである。」(p.295)と本書は結ばれている。

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