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さだまさし「黄昏迄」を独自解釈

さだまさしの「黄昏迄」は、私の中で屈指の名曲のひとつです。

https://open.spotify.com/track/0XfhulDW19Ykntm6e8X7Gk?si=aU66KI7SS7e5nI75WSotvw

CDで聴いていてもいいし、ライブで聴いてもいい、カラオケでも歌いたいし、演奏もしてみたい、受動的にも能動的にも存分に味わえる名曲です。

特に間奏とエンディングの、エレクトリックギターのカッコよさ。ここにやられてしまうのです(弾けませんが)。

ただ、このエレクトリックギターのサウンドがインパクト強すぎて、私はその前後の詩の解釈を歪めてしまったようなのです。

その昔、さだファン仲間と「黄昏迄」の話題になったとき、仲間の一人が「ああ、あれは彼女が死んじゃったんだよね」と言うのを聞いて、「えっ…?」と言葉にならない驚きを感じたのでした。

私は長いこと繰り返しこの歌を聴いてきて、彼女すなわち「君」が、すでにこの世にいない存在として考えたことがありませんでした。

間奏前のサビの部分の歌詞はこうです。

昔君と約束していた
二人して年老いたならば
世界中を船で廻ろうと
飽きる程一緒に居ようと

ここでエレクトリックギターが、鮮烈なソロを聴かせます。その後に詩がこう続きます。

突然に海に帰った君を
追いかけて僕の心が鴎になって舞い上がる

ここを私は、「君」がいったん「僕」と別れ、しばらく離れ離れになっていたが、突然「君」が戻ってきた、と解釈していたのです。

問題なのは「突然に海に帰った君」をどう解釈したかですね。

確かに「君」は海で突然死んだとも読めます。というか、音楽なしで詩を最初から最後まで続けて読むと、そうとしか解釈できなくなります。

特に、前半にある「君」の愛犬の描写がそれを証拠だてています。

君が愛していた仔犬は
あれから大きく育って
今僕の側で一緒に海鳴りを聴いてる

「君」は愛犬を残して死んだ。「僕」はその犬を引き取って育てた。そう考えたほうが自然です。

水難事故あるいはその他の事故で愛する人を突然亡くす、というシチュエーションは、さだまさしの作品に少なくありません。今ちょっと思い出せるだけでも「精霊流し」「椎の実のママへ」「極光」「みるくは風になった」など。「償い」も含まれるかな…。

「黄昏迄」もそんな作品群に属するのかもしれません。

しかし、私にはそういう悲しい発想はありませんでした。

「君」が死んだ、と信じるには、間奏のエレクトリックギターのサウンドがあまりにも希望に満ち溢れていると感じるからです。

また、この間奏には、歌の中の世界での、時間の経過を感じさせます。

長い時間がたった後に「突然に海に帰った」と詩が始まるので、その時に、どこかから「君」が帰ってきた、と感じるのです。

再会の喜び、高鳴る心の中のうねりが、カモメの飛翔にたとえられて一気に高揚します。

突然に海に帰った君を
追いかけて僕の心が鴎になって舞い上がる

更に旋律も、半音高く転調して盛り上がります。

そこに死や別離の悲しみは感じ取れません。そこにあるのは、生きる喜び、共にこの海辺での時を過ごす未来への希望です。

そんなわけで、おそらく多くのさだまさしファンは、「黄昏迄」の「君」は既に亡き人という解釈が普通なのだと思いますが、私にはどうしても死んだとは思えない、という話でした。

最後に、さだまさしさんの名番組の中でおなじみの文言を若干アレンジしたものを記して、この記事を終わりたいと思います。

解釈には個人差があります

#さだまさし #うつろひ #黄昏迄 #解釈 #個人差

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