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不気味な鉄塔のまなざし: 小津安二郎『風の中の牝雞』について(映画レビュー)

(現在、同作品はU-NextとHulu、Amazonプライムで視聴可能)

 ちょうど音楽における通奏低音のように、小津安二郎監督の1948年の映画『風の中の牝雞』には作品全体に一貫して登場するショットがある。それはこの映画で何よりも先に映像として登場する巨大な鉄塔であり、結論から言えばこの映画はこの鉄塔が象徴する他者によって「見られている」という感覚を主題とした映画として見ることができると言える。

 鉄塔の格子状の金網が持つ幾何学的な規則性は、やがて鉄塔に続いて映し出される家屋の外壁の板と瓦、玄関の引き戸の格子といった、それ自体は日本の都市を舞台として撮影された映画ならば何の変哲もない一連の素材にさえも、その外観の類似性を通じて自らと同様の「まなざし」を与えていき。それはちょうど、つげ義春の「ねじ式」における目医者ばかりの通りのような不気味ささえ帯びている。そして映画の最後に至って、あたかもオープニングを逆さに再生するかのように例の鉄塔が映し出されることによって映画に幕が降ろされる。

 鉄塔が映し出されるショットは、作品全編を通して10回以上ある。最も単純な意味として、空き地に置かれた土管とともに鉄塔が映し出されるシーンなどは第二次世界大戦終戦直後という状況における東京の荒廃を視覚的に説明していると言えるだろう。

 また作品全編を通してこれらの鉄塔は共通してシーンとシーンとの間の転換を示す符号としても機能している。菓子を食べ病気になった我が子を田中絹代演じる時子が病院へ運ぶシーンと医者の診療の結果を待つシーンとの間にある鉄塔を映したショットなどがその例である。

 あるいは、自らの留守中に子供が病気にかかり、その治療代の出所を夫である佐野周二演じる修一が時子に詰問するシーンの直後には、鉄塔に映画における場面転換の機能が担わされているからこそ成り立つ省略があるといえる。

 このシーンにおいては、妻が子供の治療代の出所である売春行為を夫に打ち明ける様子自体は映されない。ただ、答えに窮して床に泣き伏す妻と、妻に注がれる夫の眼差しが連続して映されたのち、鉄塔が画面に映されるのみなのだ。ここにおいて、鉄塔が現れることによって観客は時子の告白を直接目撃しなくとも、何らかの重要な事件が生じたということを理解することができる。


 この修一の時子への詰問のシーンは、鉄塔が持つ場面転換の機能を示しているほか、まさに夫が妻へ向ける鋭い眼差しと鉄塔とが映像として連続して映し出されることによって、この鉄塔が象徴する眼差しの存在をも示唆している。

 吉田喜重は『東京物語』における空気枕や東京の街並みを例に挙げながら小津安二郎の監督作品の特徴として事物が人間へ向ける眼差しを指摘しているが、吉田が論じているよりももっと説話的な次元においても、やはりこの鉄塔は眼差すという行為と強く結びついているといえる。すでに触れた告白のシーンに見られるように、夫が妻の過去へ向ける眼差しがその筆頭であろう。この告白のシーン以外にも、どんな男に身を売ったのかを妻に詰問し、答えない彼女に苛立ちを見せた夫が家を飛び出すシーンが夫の妻の過去へ向けられた眼差しと結びついたものとして挙げられる。

 また夫以外が妻へ向ける眼差しと結びついた鉄塔のショットも存在する。たとえば子供が無事退院し、医院を去る時子を看護婦2人が2階の窓から見送るシーンの直後がそうである。

 この看護婦2人は時子について年齢の情報を交換し、「地味」、「割と綺麗」、「男好きのする顔」という風に風貌に批評を加え、続いて病気にかかり通院する学生と入院する患者についても噂話をし、陰口をたたく。

 あるいは、時子が衣服を売りに訪れた家屋の二階から旧友と街を眺めながら過去の思い出について回想するシーンにおいても鉄塔が映し出されているし、そもそも本作において最初に鉄塔が映し出されたシーンは先に述べたように冒頭なのだが、ここでは巡査が時子が間借りする家の大家に対し家族の状況や夫の復員、チフスの注射などに関する質問を加えているのだ。

 「「生きるという現実」が人々の重大な関心事となり、それに関わる知が産出され、国家の在り方にも大きな変化が及ぶこととなった。すなわち、誕生、死亡率、健康水準、寿命、公衆衛生、住居、移住など人間の生物学的プロセスに関わる身体を中心とした知識が政治的テクノロジーにおいて大きな比重を占めるようになる」(55)と関良徳はミシェル・フーコーの生-政治の概念について述べているが、まさに冒頭の巡査の訪問はこうした権力がその臣民に向ける眼差しを暗示している。


 そもそも高所にある鉄塔は、「物見の塔」(watchtower)といった存在を想起させるようにそれ自体で眼差しを象徴しているが、このように登場人物の様々な眼差しと連続することによって、この映画内部の文脈によっても鉄塔は眼差すことと強く関連づけられている。そしてはじめに述べたように冒頭において鉄塔から連続して家屋の外壁や玄関の引き戸が映し出されているが、鉄塔と連続して映し出されることによって、こうした日本家屋にありふれた格子状の特徴にも鉄塔の眼差しが付与されているといえる。

 したがって、これまでも述べたように本作品は鉄塔を中心に「眼差し」が遍在することによって特徴づけられているともいえる。アーヴィング・ゴフマンはスティグマについての社会学的な研究の中で、不評・醜聞について「個人的には面識もない特定の個人の醜聞を知っている人がある範囲にわたって存在する」(ゴフマン 122)ことをその特徴の一つとして挙げているが、夫が妻へ向けるもののように眼差しの主体と客体が明瞭であるものに留まらず、主体も客体も不明瞭な—ゴフマンの表現を借りるのならば面識のない存在から「見られている」という感覚が伴う眼差しを、鉄塔を中心にした一連の家屋の外壁や引き戸、窓の格子は暗示している。

 売春を行なったということが一つのスティグマとみなされ、そのことに関して夫や同性の友人から厳しい視線が注がれ詰問されるだけでなく、実際にそうした視線が存在し、かつ時子に注がれているかどうかに関わらず、時子が周囲から自らのスティグマへ注がれているとを感じ、あるいは予期することで内面化している眼差しを、この作品に遍在する不気味な鉄塔とそれに付随した格子のショット群は象徴しているといえる。


 最後に触れておきたいのは、フーコーが論じたパノプティコンを持ち出すまでもなく、眼差すという行為に備わっている非対称性という特徴である。

 眼差された人間が眼差し返すのであれば、それは見つめ合うという全く別の行為あるいは状態に移行する。たとえば本作では復員した夜に夫に詰問されながら見つめられた際、妻は自らの顔を覆って床に伏している。眼差し返すことができなかった、つまり二人は対等に見つめ合うことができなかったのである。そして時子は、友人に夫に売春の事実を伝えたことを詰問された際に「これまで私とあの人の間に一つも隠し事はなかった」こと、そしてその状況を維持するために事実の告白を行なったと語る。だが、夫はたとえば戦争中にどのような任務に従事し、どのような行為を行ったのか、また妻が売春を行なったという宿を訪れたということとそこでなにを経験しどのような会話を行なったかということについて、少なくとも作品の中では妻に語っていない。

 このことからも、眼差すことが本作品の一つのモードを作り上げているうえに、眼差しに特有の非対称性が作品の中で眼差し、眼差される夫と妻の関係にもあてはまっていると考えられる。


参考文献
ゴフマン、アーヴィング『スティグマの社会学: 烙印を押されたアイデンティ
ティ』石黒毅訳、せりか書房、2001
関良徳『フーコーの権力論と自由論: その政治哲学的構成』勁草書房、2001
吉田喜重『小津安二郎の反映画』岩波書店、2011

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