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モネのあしあと #4

アカデミーの呪縛

美術の世界では長らく、画家とは「職人」的な要素が強い存在でした。王侯貴族のお抱えだったり、裕福な人々の注文を受けて制作したりするのが普通で、自分自身を「表現」することは決してありませんでした。これが一九世紀になって大きく変わります。

産業革命以降、いろいろな技術が出てきて、絵画を「表現」に向かわせる大きな事件が起きました。それが一九世紀初頭の「写真の誕生」です。写真が生まれることにより、画家はいかにも理想的な風景をそっくりそのまま描く必要がなくなりました。写真の技術はみるみる改良を重ね、一九世紀後半には珍しいものではなくなり、普及していきます。そうすると、これまで風景や肖像画を描いていた画家たちは、仕事を失いました。

フランス美術画壇のアカデミーのお偉方は、新しい時代の到来を恐れ、既得権益や立場を守るために、さらに保守的な作品を描くことに頑なになります。

一方で、画家たちは自分だけの表現を求めて模索をはじめました。その急先鋒になったのが、マネやモネ、ドガ(一八三四~一九一七)といった印象派の画家たちでした。その模索の過程は、芸術家たちがいかに古い因習の呪縛から解き放たれ、革新的な作品をつくり出すかのプロセスでもありました。

アカデミーの画家たちは、面白いことをやっている若者たちの芽を摘んでしまおうと、どんどんサロンに落選させました。けれども世の中のスピードの変化の方が早すぎて、新しい表現を止めることはできませんでした。

未知の国・日本の美術工芸

一九世紀の最後の三〇年間は、世の中が新しいものへとうねりをつくった時代で、その風潮がアヴァンギャルドなアーティストへの追い風になりました。

日本の同時代は、ほぼ江戸時代が終焉し、まもなく明治時代がはじまるという頃。一八六二年に日本の使節団が第二回ロンドン万国博覧会を視察し、つぎの一八六七年の第二回パリ万国博覧会に、日本から初の出展をしています(「日本」として公式に参加したのは、一八七三年のウィーン万国博覧会)。

世界に対して開国、門戸を開いていく目的で、日本の優れた産業や文化を紹介しようと考えたものの、長らく日本は鎖国していたので、世界と張り合える産業がなく、何を見せればよいのだろうかと考え尽くした結果、漆工、金工、陶磁、七宝、染織などの、非常に精巧な技術でできた工芸品を出品しました。

日本美術は世界の眼に驚きをもって迎えられました。鎖国していたため、日本の情報はヨーロッパに多くは伝わっていませんでした。はじめて日本の美術や工芸を目にして、ヨーロッパの人々は驚いたわけですね。何に驚いたのかというと、生まれてこの方まったく見たことがない、○○風とも形容できないような、未知の国・日本から届いた不思議な物体がそこにあるわけです。

パリで大人気の浮世絵

もう一つ、大きな影響を与えたのが浮世絵です。当時パリにはトレンド・セッターがいて、「これ面白い」ということで、いち早く日本の浮世絵を売りさばく画商たちがいました。当時、浮世絵は日本では「美術」として認められておらず、ヨーロッパに運ばれる陶磁器を包むなど、古新聞のように使われていました。いまの私たちからすれば、雑誌のアイドル写真のページの切り抜きぐらいのもので、それがアートだといわれても、「えー、何で?」って思いますよね。それを彼らはタダ同然で購入し、パリにもってきたら大人気。「お安くしておきますよ」と二万円で売ったら、それは大きな利益ですよね。

そのトレンド・セッターの中に、林忠正(一八五三~一九〇六)という日本人の画商がいたということをご存じでしょうか。第二回のパリ万国博覧会のときに日本からの通訳として送り込まれた富山県出身の語学に堪能な人物です。日本から大量に日本美術を輸出し、それをパリの多くのコレクターに販売した伝説の画商です。

新しいものが大好きな印象派の画家たちは浮世絵や日本美術を収集していきました。一八七一年に、ロンドンでターナー(一七七五~一八五一)の作品と出会い、その後立ち寄ったオランダで、モネは浮世絵に出会い、その魅力に取り憑かれます。モネも三〇〇点近い浮世絵を所蔵しており、ゴッホも画廊に勤める弟のテオを通して日本美術を集めていました。私は『たゆたえども沈まず』という小説で、ゴッホ、そして林忠正について書きました。林忠正は、まだ日本人が気づいていない浮世絵の魅力に目をつけ、日本人が浮世絵に価値があると思った瞬間に、手をひくぐらいの感覚で、ビジネスとしてシビアに商いを行いました。結果、浮世絵は国内外で大きく価値を上げたわけですから、林忠正は日本美術の大プロモーターでもありました。

未知の国の不思議な作品が紹介され、そこに新しいもの好きの新興ブルジョアジーが飛びつく。アカデミーの画家の作品に比べれば、浮世絵ははるかに面白いし価格も安い。しかもヨーロッパから遠い、中国のまだ先にある、未知の国日本から来たというのだから驚きです。地中海からインド洋に抜けるスエズ運河の開通が一八六九年ですから、それ以前の人たちは、喜望峰を通って南回りで日本に行くしかない。よくぞまあ、何度も行き来していたものだと感心します。

浮世絵からのエッセンス

浮世絵が大量にヨーロッパに紹介され、大ブームが巻き起こると、時代に敏感で、新しい表現に飢えていたアーティストたちがすぐに反応します。その中の幾つかの例を挙げてみましょう。

歌川広重(一七九七~一八五八)の《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》は、江戸の夕立の風景を描いています。この絵にアーティストたちは衝撃を受けました。いちばんの典型例として、ゴッホの作品を見てみましょう。全部コピーです。この絵には二つの驚きがあって、それをゴッホは真似しようとしたのではないかと思います。

まず、橋が斜めに入る構図。風景がズーッと向こうまでつながっているように見えます。私たちが偶然、石につまずいた瞬間にシャッターを押してしまい、パシャッと写真が撮れてしまったとき、こんなふうに写ることがありませんか? 実は私たちにとって親しみのある構図です。

二つめは雨の表現です。斜めの線として描いています。サーッと雨の降る音が聞こえてきそうですね。雨を線で描くのは、日本人の独特の感性です。ヨーロッパの絵画の中で、雨を線で描く表現は見たことがなく、雨自体を描くこともほとんどありませんでした。ヨーロッパの雨は極端に降るか、もしくは霧の延長ぐらいのポショポショとした雨で、生まれた国の背景によって見え方が変わってくるようです。

次はアメリカ人の画家・ホイッスラー(一八三四~一九〇三)の《陶器の国の姫》という作品です。見るからに浮世絵の影響を受けており、縦長の構図で美人絵を描いています。

トゥルーズ=ロートレック(一八六四~一九〇一)の《喜びの女王》のポスターは、どのように浮世絵に影響を受けているかわかりますか?

まず、画面に対してテーブルの線が斜めに描かれています。アカデミーの画家たちであれば、画面の中にモチーフをすっぽり収めるのが原則で、水平、垂直も保ち、中心を必ず取ります。しかしロートレックの絵では、大胆にテーブルも人も切っています。

このアングル、私たちの眼には自然なことのように映ります。なぜかというとカメラに親しんでいるからです。ファインダーをのぞいて、あるいは写真をプリントすると、対象物が切れて見えることがよくあります。浮世絵の不思議なところは、写真が登場する以前から、このズーム・イン、ズーム・アウト、そして大胆なカット・アウトを先取りしていたところです。これに一九世紀パリの画家たちは驚いたのです。

ついでにいいますと、ルソーもアカデミーの画法を踏襲しているのですが、前掲の《幸福な四重奏》の絵をご覧になっていただけますか。ルソーは一生懸命、アカデミーの画法を真似しているのに、かなりの天然っぷりを発揮しています(笑)。

「余白の美」「アシンメトリー」「抽象化」

空間を大きくとる「余白の美」、そして「アシンメトリー」といって左右非対称の構図、この二つの感性は、日本人特有であると聞いたことがあります。人類学的に見ると、人間は左右対称に構成されていますから、自分の身体を起点にすると、見るものも左右対称の方が安心するというのです。絵画のバランスもそこからきており、構図を見たときに、必ずしもぴったり左右対称である必要はないけれども、左右のバランスがうまくとれている方が落ち着くのだそうです。なぜ日本人が「余白」「アシンメトリー」に美を見出したのかが不思議ですが、空白の中に、ぽつんと一輪花があっても美しいと感じる。それは印象派の画家たちにとって衝撃だったと思います。

極端な「抽象化」も、特徴としてよく挙げられます。例えば金屏風に鷺が一羽だけ描かれている絵があるとします。この金色は何を意味しているかといえば、そこに空があったり、海があったりすることを、見る人の想像力に委ねているのです。私たち日本人は、かなり早い段階から抽象化を推し進めてきました。《源氏物語絵巻》(平安時代末期)なども、登場人物の表情は抽象化されています。そもそも、あそこまでお多福、細目、おちょぼ口の顔は存在せず、かなりデフォルメしないとキャラクター化できないことから、「漫画の原点」とも呼ばれています。

モネの睡蓮画も、部分を大きくクローズ・アップして、大胆に切り取っています。特に晩年、白内障になってからのモネの絵を、抽象絵画の先駆けと位置づける人もいます。

一方、モネの絵に、《ラ・ジャポネーズ》という、妻のカミーユに着物を着せて扇をもたせ、複数の団扇(うちわ)を背景に描き込んだ絵があります。「ジャポネズリ」といって、日本趣味のオブジェクトを画中に取り込み、同様のことをゴッホも行いました。これは当時の流行りですが、日本趣味のモチーフを描き込むにとどまり、本格的に日本美術の斬新な技法を作風に取り込み、モネが自家薬籠中のものにしたのは、もう少し後のことです。

モネは浮世絵だけでなく、日本の屏風絵や障壁画、襖絵などにも影響を受けています。

「印象派」という呼称の誕生

ここまで申し上げますと、モネの《印象─日の出》という作品が登場した必然性を感じていただけるのではないかと思います。この絵は、一八七四年、「第一回印象派展」に出品されました。このときすでにパリ万国博覧会で日本美術が紹介されており、モネも大きな影響を受けていたことがわかります。

のちに「印象派」と呼ばれるアーティストが集まって開いた「第一回印象派展」で、この絵を見たある評論家が、「何だ、これは。まるで落書きのようじゃないか。自分が見た『印象』のままに描いた作品だ」と揶揄しました。その後にモネたちは、その言葉をあえて受け止め、自分たちは自身の印象を大切にして描いているのだと宣言する形で、自ら「印象派」という名前を名乗りました。

この《印象─日の出》の作品が、アカデミーの画家たちの絵とどう違うのか、おわかりでしょうか。

アカデミーの画家たちが海と日の出を描くのであれば、まず水平線を描き、手前に岸辺を入れて人を描くでしょう。この絵には水平線がなく、船と人物に至っては、シルエットしか描かれておらず、かなり抽象化されています。モネは、彼の「印象」に基づき、大きな風景から部分をカット・アウト──切り抜いています。このカット・アウトがもたらす効果は、清々しい海や空が絵の外にも広がっていることを感じさせ、奥行きのある作品に仕上がっています。ですから私たちはモネとともに、この風景の前に立っているような気持ちになります。モネが絵の中に表そうと狙ったのは、その点です。

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モネのあしあと 原田マハ

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