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モネのあしあと #1

はじめに

ふと気がつくと、大好きな画家の足跡をたどっている。旅を重ねるうちに、そう気がついた。

作家になるまえから、そうだった。旅が好きで、日本国内、世界各国をいつも旅して回っていた。おいしいものを食べに、あるいは、温泉でのんびり。そんな旅もあったけれど、いつも、どんなときも、旅の中心にあったのは、ただ一つ。「アートに会いに」いくことだった。

私は、かつて、アートの世界に身を置いていた。アートコンサルタントやキュレーターを務め、生活の中心にアートがあった。いや、むしろあの頃は、アートの中心に生活を置いていた、といった方がいい。仕事だから密に付き合う必要があったし、アートとの付き合いはいつしか「義務」に変わっていった。力が入りすぎてぎくしゃくしていたかもしれない。出張で美術館に行ったり、アートイベントを訪れたりしても、どう仕事につなげていくか、そればかりが気になって、アーティストの気持ちに寄り添い切れていなかったようにも思う。

作家になってからは、旅をするときに、ふらりと友だちに会いにいくように美術館に行くようになった。もう、アートを見ることは仕事ではないのだ。気楽に、肩の力を抜いて、アートに「会いに」出かけよう。そんな気持ちで接するうちに、私の暮らしの中心にアートがやってきた。椅子に座り、コーヒーをいれて、やあ、元気でやってる? 最近どうだい? と話しかけてくれるようになった。

世界のどこであれ、美術館のある都市に行けば、友だちの家を訪ねるような心持ちがした。モネが待っていてくれる、今度はゴッホに会いにいこう。そう思いながら旅をした。だから、ひとり旅でもちっともさびしくはなかった。

そしていつしか、大好きな画家の足跡をたどるようになった。モネのあしあとを追いかけて、ノルマンディ地方へ、ジヴェルニーへ。ゴッホのあしあとを追いかけて、アルルへ、サン・レミへ。画家たちがたどった道を通り、彼らが暮らした場所を訪れて、その創作の瞬間に思いを馳せた。旅のあいだじゅう、画家たちの声が風に乗って届けられ、彼らの魂が私とともにあった。

大好きな画家を追いかけ、アートのあしあとをたどる。それは、心やすい友と一緒に旅をするのに似ている。何も語らなくても通じ合える、何ものにも代えがたい豊かな時間。その幸福を、本書を手にとってくださったあなたと、分かち合えれば本当にうれしい。そして、あなたが本書をもって、いつの日かアートのあしあとをたどってくれたら、もっとうれしい。

二〇一六年 秋 パリにて

原田マハ

強烈なモネ体験

最初に私の個人的なモネ体験について、お話ししたいと思います。

ずっとアートに興味をもってきましたが、一〇代の頃はもう少しモダンな、ルソー(一八四四~一九一〇)やピカソ(一八八一~一九七三)、そして二〇世紀の現代アートの方に関心が向き、若気の至りとでもいいますか、コンテンポラリーな作品でなければ「格好悪い」と思っていました。モネ(一八四〇~一九二六)やゴッホ(一八五三~九〇)に心惹かれる一方で、マダムたちに爆発的な人気があり、当時は値段も高くて資産的価値のあるものとされていた印象派の作品を素直に見ることができず、ちょっと斜(はす)に構えて、あえて自分から遠ざけていました。

深くモネの作品に関心を抱いたのは、二〇代後半です。信じられないような体験があり、そのことが明らかに自分の中のある種のターニング・ポイントになりました。

アートの仕事をはじめた最初の頃、私は原宿にあった馬里邑美術館という小さなプライベート・ミュージアムに勤めていました。いまはもう移転してしまいましたが、田園調布に本社があったアパレル企業が経営しており、創業者の方が一代で苦労して会社を築きあげ、アート好きが高じて小さな美術館をつくられました。特にモネ、ゴッホ、セザンヌ(一八三九~一九〇六)を好み、いま思い出しても「えっ?」というほどの素晴らしい作品を所有するコレクターでした。

バブルの時代に印象派の作品がどっと日本に入ってきて、その頃に多くの名画を手に入れたようでした。アパレル企業ということもあり、ラウル・デュフィ(一八七七~一九五三)という、二〇世紀のモダン・アーティストのテキスタイルの原画のコレクションも見事でした。定期的にその作品を見せたり、現代アーティストの作品を展示したり、併設のギャラリーではプライベート・セールでゴヤ(一七四六~一八二八)の版画などの作品を販売していました。

あるとき、美術館をクローズして、モネの作品が二時間だけ展示されることになりました。そのとき私は、受付兼広報と一部の展示企画を担当していました。日がな一日受付に座っていましたが、モネの一件はギャラリーのスタッフたちが進行していたので、何が起きるのか知りませんでした。とてもいい作品をもっていると噂に聞いていたので、「えー、どんなのだろう?」とワクワクしていました。

倉庫から運ばれてギャラリーに搬入され、空調の利いた小ぎれいなビルの一階に展示されたその作品は、天地二メートルくらいの、ちょっとびっくりするような大きさの《睡蓮》でした。圧倒的で、空間を一変させる力があり、世界が変わってしまった感じがしたのです。「モネって、すごい画家なんだ」と否応なく思い知らされました。しかし、何のために展示されたのかがわからない。その日はセキュリティも兼ねて二一時くらいまでいてくれといわれて、大人しく受付に座りながらも何度もその《睡蓮》を観ました。

ギャラリーにはスタッフの控え室があり、一八時になったので、休憩を取りにいきました。当然、誰もいないと思って、ドアを開けて入ろうとしたら、そこに真っ白に顔を塗ったおじいさんがいたのです。「へっ? 誰?」って、「ああ、失礼しました」といって、すぐに扉を閉めて部屋を出たのですが、見えないはずのものを見てしまった、もしくは白昼夢に襲われたような、いても立ってもいられない気持ちになりました。美術館のマネージャーが通りかかったので、

「あの、すみません。いま、控え室に行ったら、見たことのない真っ白なおじいさんがいたんですけれど」

「あれ? 原田さん聞いてなかったの?」

「いや、何も聞いてないです」

「あれね、大野一雄さんだよ」

「えっ? 大野一雄って、あの舞踏家の大野一雄さんですか」

「そうだよ。何も聞いてなかったの?」

マネージャーは、オーナーが私に話をしたと思っていたのです。一夜限り、観客ゼロの非公開で、大野一雄(一九〇六~二〇一〇)がモネを舞い、それをビデオで撮る、という計画でした。大野さんとオーナーは知己の仲で、その睡蓮画の存在を知った大野さんが、「一度でいいから、本物の睡蓮画の前で、睡蓮の精になって舞いたい」と望んだそうです。作品を移動するにはお金もかかるし、セキュリティも大変だし、撮影するなら完璧な空間が必要だけれども、「大野さんがやりたいなら」というオーナーの決断でした。

前半は、大野さんの息子で舞踏家の大野慶人さんがコンテンポラリーなダンスを踊り、後半は、大野一雄さんが独自の世界を展開しました。オペラのような音楽がはじまり、睡蓮のようなドレスを着て出てこられた大野さんは、最初は少々怖いと思ったけれども、踊りはじめたら少女のようでした。

そのときの私は、フランスに行ったこともなく、モネもよく知らないけれど、あのジヴェルニーの庭の水面の輝きの中で、睡蓮の精が舞う、その美しさと多幸感に包まれました。「大野一雄も素晴らしいけれども、死ぬ前に一度は踊りたいと思わせたモネってどういう画家なんだろう?」という疑問に感動とともに包まれました。

モネの啓示

このように私のモネ体験は、大野一雄との衝撃の出会いからはじまりました。

実際に、そういう場面にたまたま私がい合わせたのも、後から思えば自分の人生を導くサイン、何かの啓示だったのかもしれません。それは後々思うようになりましたが、そのときはわからない。人生の節々で得る体験というのは、得てしてそういうものだとよく思います。よいことばかりではなく、辛いこと、乗り越えなければならない苦難もたくさんあります。でも、何か理由があるはず。それはおそらく、自分が元気で生きていれば、そのうちわかることなのではないかと、わりと若いうちから思っていました。一〇代、二〇代にいろいろな出来事があって、自分なりに身につけた処世術だと思います。

当時の印象派の画家たちは四〇代以降、社会的にも認められ、次第に大成し、アーティストとして不動の地位を築きますが、人生の前半の二〇代、三〇代は、絵が売れない、お金もない、生活も苦しい。恵まれない時期が長く、非常に苦労したといわれています。けれどもモネは、決してじたばたせず、自分の歩みを止めませんでした。苦しい時期を乗り越えて、目指した道を進んでいけば、いずれその理由がわかると思っていたのではないか。そういう姿を、自分の人生に重ね合わせていました。

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モネのあしあと 原田マハ

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