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いちばん苦しいときこそ笑うのよ…切なくて温かい「ゴンママ」とあなたの物語 #4 大事なことほど小声でささやく
身長2メートル超のマッチョなオカマ、ゴンママ。昼はジムで体を鍛え、夜はジム仲間が通うスナックを営む。いつもは明るいゴンママだったが、突如独りで生きる不安に襲われる。そのときゴンママを救ったのは、過去に人を励ました際の自分の言葉だった……。高倉健、最後の主演作として話題となった映画『あなたへ』などで知られる作家、森沢明夫さんの笑って泣ける人情小説『大事なことほど小声でささやく』。プロローグと、第一章の一部をご紹介します。
* * *
本田は、ゴンママの軽妙なトークに何度も噴き出しながら、ダンベルプレスというトレーニングを教えてもらった。ベンチに仰向けになり、両手にそれぞれ持ったダンベルを上げ下げするのだ。最初は軽めの五キロからスタートだ。
「そうよ。ウエイトはね、下ろすときがゆっくりなの。しっかりとフォームを確認しながらやってね」
しばらくして本田がフォームを覚えると、ゴンママはずっしりと重たいダンベルを持たせた。ひとつ十七・五キロもある。
「十回ギリギリ上げられるくらいのウエイトでトレーニングすると効率的なの。ちょっと、そのダンベルでやってみて。絶対にフォームは崩しちゃダメよ」
「はい、女王様」本田はノリのいい返事をして、十七・五キロのダンベルを上げ下げしはじめた。最初の五回目までは楽勝気分だったのだが、なぜか六回、七回目からぐぐぐっと急に重くなり、八回目の途中で力尽きてあきらめようとしたところで、ゴンママから叱咤されたのだった。
「ほら、これからが勝負よ。死ぬ気であと三回上げなさいっ!」
本田は「うっ」と息を止めて八回目を上げ、「うあっ!」と声を出しながらなんとか九回目を上げ、そして十回目を上げようとしたら、腕がぷるぷる震え出して、いよいよ本当に上がらなくなってしまった。
「はい、上げるっ! 上げるっ! これが上がらなかったら、いちばん大切な人が奪われちゃうと思って、火事場の馬鹿力を出すのよ!」
いちばん大事な人……。気張りすぎて白くなりかけた意識のなかに、朋子と彩夏の顔が浮かんだ。そして、携帯の待受画面の笑顔も。
「ウウッ……」
「ほら、上がるわよ!」
「ウウウハッ……。ウハハ、ハ、ハッ……」
「行けー!」
「ウハ、ハ、ハッ、ハハハッ」
まるで笑い声みたいな、奇妙な声が漏れてしまったけれど、なんとか十回目を上げることができた。
「よーし、OKよ。ダンベルを下ろして」
言われるままダンベルをゆっくりと下ろし、そして床にドンと落とした。息んでいたせいか、ハアハアと呼吸が激しく乱れている。
「あなた、初めてにしては、よくがんばったわよ。なかなか根性あるじゃない。このトレーニングを今日は三セットやってね。続けていれば、あなたも立派な動くおっぱいを作れるから」
ゴンママは乳首丸出しの胸をゴリゴリと動かしてみせた。
「は、はい」
本田はベンチの上に起き上がった。そして、「ああ、きつかったな~」とボヤいた。でも、ボヤきながら、自分の頬が緩んでいるのが分かった。なんというか、これまでに味わったことのないような、えも言われぬ達成感が、本田の内側からあふれ出していたのだ。
苦節、四十五年……、これまで自分は、こんなにも本気になって物事に挑戦したことはあっただろうか? いや、ないはずだ。死力をふりしぼって何かを達成すること。そして、その心地よさ。
本田は、大胸筋に熱っぽく残る筋肉の張りさえも、不思議なほど好ましく感じていた。
うん、トレーニングって、おもしろいかも知れないぞ。
なんだか少年みたいなわくわくした気分になってゴンママを見上げると、スキンヘッドの巨漢は意味ありげにニヤリと笑った。
「あなた、思いっ切り力んだときに出す声、かなり怪しいわね。まるでクスリで頭のイカれた人が笑ってるみたいだったわよ」
た、たしかに――。自分でもアレは怪しいと思う。
「というわけで、あなたの渾名、考えてあげたわ」
「渾名、ですか?」
「そうよ。ここではみんな渾名で呼び合ってるの」
「はあ……」
「あなたは今日からケラちゃん。笑いながらダンベルを上げるから、ケラよ。いいわね?」
ケラって……。四十五歳にして、まさか渾名をつけられるとは。しかも、今日、出会ったばかりのオカマに。
「あら、気に入らない? それとも何か、元々の渾名があったりするわけ?」
「いや、渾名って、人生で一度もつけられたことないんです」
言いながら本田は、あらためて自分の「渾名のない人生」を思い返した。取り柄も、特徴もなく、人に褒められもしなければ、けなされもしないという平々凡々な日々。もしかすると、これこそが「退屈な人生」というのではないか。
しかし、そんなことにはお構いなしに、ゴンママはしなを作って笑った。
「じゃあ、よかったじゃない。あなたの渾名ヴァージン、あたしが頂いちゃったワケね。ご馳走さま、ケ・ラ・ちゃん」
本田は、プッと噴き出した。
ゴンママも「うふふ」と笑った。
「あなた、言っとくけどね、いちばん苦しいときに笑うって、じつは人生の極意なのよ」
「なるほど……」たしかにそうかも知れない。
ケラちゃん――まあ、悪くないか。しかも、いちばん苦しいときに笑うなんて、なかなか粋じゃないか。
よしっ。
本田は、十七・五キロのダンベルを再び手にして、ベンチに仰向けに寝転がった。そして、トレーニングに入る前に、ゴンママに言ったのだ。
「ねえゴンママ。今夜のトレーニングが終わったら『ひばり』に飲みに行ってもいいですか?」
ゴンママは、はみ出た乳首をムキムキ動かしながら「いやん、もう、その台詞をさっきから待ってたのよぉ」と悪戯っぽく微笑んで、今度は五十キロの巨大なダンベルを手にした。
ようし。見てろよ彩夏。
ケラちゃんになったパパ、本気出すからな。
深呼吸をひとつして、本田はダンベルを上げはじめた。
今度は七回目から「ウハハハッ」と奇妙な声が出てしまった。
スポーツクラブSABを出て、駅の裏通りの飲食店がひしめく小さな繁華街に向かって歩き出した。
夜の十時を回ったベッドタウンの駅前ロータリーには、まだまだ仕事帰りのサラリーマンたちが行き交っている。
時折、艶かしい秋の夜風が吹いて、風呂上がりの首筋を冷ましてくれるのだが、その風のなかにキンモクセイの花の香りが溶けていた。毎年、この匂いをかぐと、本田はふと微笑みたくなる。
もうすぐ、彩夏の誕生日だな――。
十七年前の秋、本田はキンモクセイの香りのなかを歩いて産婦人科へと通っていた。出産後の入院をしている新米ママの朋子と、生まれたてほやほやの彩夏に会うために、パパになりたてほやほやの本田は会社帰りに通っていたのだ。毎日、幸せを嚙みしめながら。
想い出のキンモクセイが香る夜風。トレーニング後の心地よい疲労感。これで生ビールが飲めたら極楽だな。
「ねえ、ゴンママ」
本田は、となりを歩く巨漢のオカマに話しかけた。
「ん、なあに?」
「スナックひばりには、生ビールもありますか?」
「もちろんあるわよ。うちはジョッキもちゃんと冷やしてあるから、最高よ」
ゴンママは標高二メートルから本田を見下ろすようにして、バチンと迫力満点のウインクをぶつけてきた。
「それよりケラちゃん、初めての筋トレのご感想はいかが? けっこう大変だったんじゃない?」
「うん。きつかったけど、っていうか……きつかったからこそ、なのかな、すごく気持ちよかったです。すべて出し切って、ぐったりした脱力感も新鮮だし。とにかく、こんなにいいものだとは知らなかったです」
本田は、ついさっき味わったトレーニングの達成感を追懐しながら、しみじみと言ったのだが、すかさずゴンママはニヤリと笑ってこう返すのだ。
「ケラちゃんたら、もう、エッチなんだから」
「へ……?」
「あたしは童貞を喪失したときの感想なんて聞いてないわよ」
童貞って? 数秒間、ゴンママの言葉の意味を考えて――そして、自分の口にした台詞を反芻したとたん、思わず本田はくすっと笑ってしまった。この人はいったいどういう脳味噌をしているのだろう。
それから二人は軽口を叩き合いながら、繁華な駅前の脇から、ちょっと怪しげな細い路地へと入っていった。
すれ違う人たちは、みな一様にゴンママの巨体を見てギョッとした顔をする。それが本田にはおかしかった。なんだか用心棒を引き連れたマフィアの首領にでもなったような気分だ。
「はい、到着。このビルの階段を下りたところが、あたしのお店よ」
ふいにゴンママがフランクフルトのような指で、左手を指し示した。見ると、街灯に浮かび上がる路地の一角に、くたびれた印象のビルがひっそりと建っていた。どうやらそのビルは昭和の遺物らしく、本田は何ともいえない懐かしさを覚えた。一階は不動産屋で、二階から上は雑多な事務所が混在しているようだった。
「このビルの地下、ですよね?」
「そうよ」
「お店の看板とか、何もないんですか?」
「あるわよ。ここに、ほら」
なるほど、言われてよく見れば、地下へと続く階段の入口の壁に、葉書ほどのサイズのプラスチックの板が貼られていた。白地に黒い文字で「スナックひばり」と小さく書かれているのだが、それは看板というより表札と言いたくなるほど控えめなものだった。
「こんなに小さいと、お客さんに気づいてもらえないんじゃ……」
「いいのよ、これで。言葉ってのはね、大事なことほど小声でささやくものなの。その方が相手の心の奥にまでしっかり届くんだから。看板だって同じよ」
ゴンママの台詞には、なんだか妙な説得力を感じたのだが、よく考えると違うような気もするな……と、ぼんやり思っていたら、突然、足元から「みゃあ」と声がして、本田は思わず「うわぁ、びっくりした!」と言って、跳び上がりそうになった。声の主は、黒猫だった。長い尻尾を夜空に向かってピンと立てている。
「うふふ。この子は野良猫のチロっていうの。あたしのお店の番人なのよ。あ、猫だから、番人じゃなくて、番猫ね」
チロは本田をじっと見上げたまま、もう一度「みゃあ」と鳴くと、漆黒の身体を脛にすり付けてきた。
「あら、ケラちゃん、すごいじゃない。初日からチロに気に入られるなんて、とっても珍しいのよ」
「あ、そうなんですか。それは嬉しいな」
本田はしゃがんで、チロの首を撫でた。しっとりとして艶のある、きれいな毛並みをしていた。いわゆる「鴉の濡れ羽色」というやつだ。
「みゃあ」
「そうか、よしよし。俺のことが好きか。お前は見る目があるな」
「かなりケラちゃんのこと好きみたいね。あ、言っとくけど、チロはオス猫ちゃんよ」
「え……」
うふふふ、と愉快そうに笑いながら、ゴンママはビルの薄暗い階段を下りていった。せっかく懐いてくれたチロに、そこはかとない失望を覚えながら、本田も巨漢の背中に従った。
◇ ◇ ◇