莫大な借金を抱えて…いま最注目の時代小説作家が放つ新シリーズ、開幕! #4 うつけ屋敷の旗本大家
大矢家当主・小太郎は、堅物の朴念仁。甲府から五年ぶりに江戸へ帰ると、博打で借金を作った父・官兵衛が、返済のために邸内で貸家を始めていた。しかも住人は、借家で賭場を開くゴロツキや、倒幕思想を持つ国学者などくせもの揃い。そんなとき、老中から条件つきで、小太郎の出世を約束してもらうのだが……。
「三河雑兵心得」シリーズで、『この時代小説がすごい! 2022年版』文庫書き下ろしランキング第1位に輝いた井原忠政さん。『うつけ屋敷の旗本大家』は、そんな井原さんが放つ新シリーズです! ファン待望の本作、特別にためし読みをお届けします。
* * *
三
「だからそうじゃねェよ。全然違うよォ。誤解だよォ」
大矢官兵衛は露骨に嫌な顔をして、逃げ腰になった。
「父上、お待ち下さい」
小太郎は、立ち上がろうとする父の袖を必死で摑んだ。高級絹織物独特の厚みと滑らかな感触が指先に伝わった。滝縞の深い鼠の小袖――官兵衛は、高価な大島紬をゾロリと粋に着流していた。対する小太郎は旅装のままだ。肩の辺りが白々と陽に焼けた羽織に擦り切れた野袴、脚絆こそ式台で脱いだが、手甲はまだ外していない。着道楽の父と、己が身を飾ることには無頓着な倅であった。
「話はまだ終わっておりません」
最前から小太郎は、ゴロツキから「符丁がないなら、屋敷内に入れない」と門前で凄まれたことを父に伝え、説明を求めている。旗本家の当主が己が屋敷に入るのに、ゴロツキから許諾を受けねばならぬとしたら由々しき事態だ。倅の剣幕に、父は嘆息を漏らし、ようやく座り直した。
「これ、と約束があんだけどなァ」
と、自慢げに小指を立てて見せた。源治とかいうゴロツキには小指がなかった。
「どこぞの大店のお嬢らしいんだが、芝居小屋で声をかけたらホイホイついて来やがってよォ、ヘヘヘ」
「存じませんよ。ね、父上……なぜゴロツキを門番に? 奴等は何者ですか?」
「店子の身内だよ。ま、舎弟だな」
「た、店子ね」
大矢家は、三河以来の直参旗本である。付言すれば、名誉ある両番筋の家柄だ。裏長屋などに住む借家人を指す「店子」との言葉が、父の口から自然に出て、小太郎は若干の眩暈を覚えた。
「見ての通り敷地内に貸家を数軒建てた。お前ェに凄んだゴロツキは、貉の源治と呼ばれてな、相模屋藤六って貸元の代貸だァ」
ちなみに、貸元は博徒の親分を指し、代貸は貸元の一の子分で副親分といった位置付けか。
「その相模屋が、店子なのですね?」
「そうそう……気のいい野郎さァ」
父が笑顔で頷いた。
生活に困窮した武士が、広い拝領屋敷の敷地内に長屋や貸家を建て、そこから得た家賃収入を生活費に充てるのは決して珍しいことではない。ただ、それにしてもだ。貸家の数が多すぎる。敷地内に所狭しと立っている。さらには、博徒ときた。もう少し入居者を選ぶのが普通だろう。
「なぜ博徒なんぞに家を貸したのですか?」
「こら小太郎、お前ェの思想は間違ってる。職業に貴賤はねェはずだァ。それに、ああして門前に立たせておけば門番代わりにもならァな」
「御近所への外聞もございましょうに」
「他人の目を気にして『野糞ができるか』ってんだ。人間『嫌われる勇気を持て』って話だよ」
「な……」
無茶苦茶な理屈には腹がたったが、これでも一応は父である。小太郎、忠孝の観点から自らの怒気を抑え込んだ。
「ま、父上がやられたことですから、それも宜しいでしょう」
「有難ェ、分かってくれるかい……それじゃ、オイラァこれで」
と、立ち上がろうとするから、又復、小袖を摑んで制止した。
「父上、まだです」
「ま、まだなの?」
「まだです」
「あ、そう」
渋々、座り直した。
「そのゴロツキに貸した家はどれですか? ここから見えますか?」
「あの切妻の二階屋だァ」
「どれも二階屋で切妻ですが?」
「や、左隅の奴だ」
官兵衛は、開け放たれた障子から見える数軒のうちの一軒を指さした。元々は趣味の良い広大な庭園だったのに、今や町屋のように家が立ち並んでいる。
「随分と建てましたね……相模屋以外にも店子は入っているのですか?」
「おう、そこは抜かりねェわ。満員御礼。大した人気で、全戸満杯よォ」
官兵衛が自慢げに続けた。
「それにオイラは、誰でも店子にするわけじゃねェ。人を選んでるんだ。直参旗本の屋敷に住む資格があるのか、ねェのか……厳しく吟味してな。だから店子たちは、誰も彼も当代一流の人物ばかりだぜ」
「相模屋も当代一流ですか?」
「や、ま、あれは特別だァ。ちょいと事情が……あってなァ」
そう言って父は視線を畳に落とした。官兵衛は、思いがすぐ挙動や表情に表れる性質だ。根が余程馬鹿正直なのだろう――ただの馬鹿かも知れないが。
「どうせ、弱みでも握られたのでしょ?」
「ハハハ、まさか」
俯いて、首筋をポリポリと搔いた。
「博打で負けましたね?」
「え?」
驚いた様子で倅を見た。
「相模屋に借財をお作りになったのですね?」
「ど、どうして分かった? お前ェは八卦見か?」
ま、占い師でなくとも大概想像はつく。
「で、幾ら? 借財は幾らあるのですか?」
「大した額じゃねェ」
「だから、幾ら?」
「は、八百文(約一万二千円)」
さすがに、金額が小さかろう。
「嘘はよくありませんよ」
「八百……両(約四千八百万円)かな」
「父上……」
さすがに呆れた。父の借財ということは、いずれ小太郎自身が背負うことになる八百両だ。
ただ、幸い現在は家禄に加えて貸家からの副収入があるだろう。家賃から少しずつ返済することも可能なはずだ。まずは、収入を勘定してみることにした。
裏長屋の家賃が、月に坪当たり二百文(約三千円)の時代である。武家屋敷内の一軒家なら倍は吹っ掛けても大丈夫だろう。月に坪当たり四百文(約六千円)取ったとして、一階と二階を併せて二十坪の家なら家賃は八千文――ざっくり二両(約十二万円)となる。
月に二両を支払えるのだから、それ相応の名士であるはずだ。博徒の相模屋藤六の他の面子は――国学者、歌舞伎役者、蘭方医、絵師などであるそうな。
「ほう、相模屋以外は、なかなかの顔ぶれですね」
「だろう。安心したかい。オイラの人徳って奴よ」
幕府は、幕臣が拝領屋敷に貸家を建てることを大目に見ている。背に腹は代えられないのだ。しかし、もし店子が不祥事でも起こせば「家主としての責任」を厳しく問われかねない。その点、各界の名士であれば犯罪や醜聞とも無縁であろうし「一応は安全」ということだ。
「何軒建てたのですか、貸家」
「五、六軒かな」
「五軒ですか、六軒ですか?」
「……六軒」
「銭はどうされました? 六軒も家を建てたら相当な物入りだったでしょう」
「そりゃ、山吹屋から借りたよ。『はい』と二つ返事ですぐ貸してくれたね」
山吹屋は蔵前の札差だ。すでに大矢家は多額の銭を借りており、五年先の年貢米まで担保に押さえられていた。ちなみに、札差とは米の仲介業者である。本来は武家の蔵米を米問屋におろし、わずかな手数料を取っていた。それがいつの間にか、米を担保に銭を貸すようになり、今や武士相手の高利貸しとして莫大な利益をあげている。
小太郎は首を伸ばし、庭に立ち並ぶ貸家群を品定めした。首を伸ばした時、銃撃されたとき傷めた首の筋が微かに痛んだ。
(見る限り、六軒全棟が二階建てか……豪奢なものよ)
小太郎は、素早く建築費を暗算してみた。
それぞれの貸家の延床が二十坪とし、坪当たりの建築費が五両(約三十万円)と見積もれば、一軒建てるのに百両(約六百万円)かかる。六軒なら六百両(約三千六百万円)ほどか――
「山吹屋から、六百両もお借りになられたのですか?」
「ど、どうして分かった? お前ェは陰陽師か? 金額がピタリだァ……甲府で妖術でも覚えたか?」
官兵衛が目を剥いたが、小太郎は一々反応せず、話を前に進めた。
「博徒に八百両、札差に六百両……父上、首が回りませんな」
「なに、銭は天下の回り物だから」
「はあ?」
あまりの無責任な発言に、思わず父の目を覗き込んだ。官兵衛が目を逸らし、父子の間には冷ややかな沈黙が流れた。
その時急に――貸家のどこかから、男の罵声が流れてきた。「お前の何処に、才能があるというんだい」と吐き捨てるように怒鳴った。
「あれは?」
声の方を指さして父に訊ねた。
「歌舞伎役者の中村円之助だァ。絵師の歌川偕楽とは飲み仲間だが、酔うとよく喧嘩するんだ。ま、気にするこたァねェよ」
「昼間から飲んでいるのですか?」
「二人とも飲み助だ。普通だよ」
家の中から「下手糞」「素人」「三流」など、相手を貶める怒声が響いてきた。
「それにしても激しい口論ですね……」
まさに罵り合いだ。
「お前なんぞ馬の足役がお似合いだ馬鹿。このヘッポコ役者がァ!」
今、言い返したのが絵師なのだそうな。
「腐れ絵師に言われたかねェや!」
「なんだと、この大根役者」
ガタン。ゴトン。
今度は騒音と振動が伝わってきた。いよいよ事態は口喧嘩から殴り合いか摑み合いに発展したようだ。
「うるせェ馬鹿! 声がでけェ! 家壊したら殴り殺すぞ!」
辛抱堪らず、官兵衛が庭に向かって吼えた。物音と振動はピタリと止んだ。
「ふん、どうだい、一発だろ」
官兵衛が自慢げに、小太郎を見た。
父の貸家経営の一端を垣間見る思いがした。父子はしばらく睨み合っていたが、やがてどちらからともなく噴き出した。
「父上らしい」
「へ、大事な貸家を壊されてたまるかい。そもそも、大家が店子になめられたらしめェだァ」
「確かに、ハハハ」
こういう悪ガキがそのまま大人になったようなところが、なんとも官兵衛の憎めないところである。事実小太郎自身も、色々と腹がたつことも多いが、この父のことは決して嫌いではない。
「ま、それにしても、六百両もの大金を、山吹屋はよく貸してくれましたね」
「おう、快く貸してくれた」
「なんぞ、魂胆があってのことでしょう。山吹屋は腹黒い。気を付けた方がいいですよ」
「そんなこたァねェ。あれでなかなかいい漢だよ……なんでも年頃の娘がいて、大層な別嬪らしいぜ」
「別嬪って……まさか父上、今回の借財、妙な条件がついておるのではありますまいな?」
「ど、どうだったかなァ?」
父が露骨に視線を逸らすのを見て、小太郎は確信した。山吹屋は「銭を貸す代わりに娘を小太郎の嫁に」と条件をつけたのだ。以前からそういう気配はあった。そしておそらく、その話を父は即決で快諾したはずだ。
(まったく……銭のためなら息子の嫁なんて「女なら上等、なんでもいいよ」とでも思っておられるのだろうなァ)
山吹屋は札差業で莫大な富を成した。後は名誉と身分だけだ。そこで、銭こそないが三河以来の名門旗本家に己が娘を嫁がせ、あわよくば娘が産んだ孫を直参旗本に据える。その野望を遂げるためなら、六百両ぐらいは彼にとって極めて安い投資だったはずだ。
(ま、私もこのまま終わる積りはない。いずれは幕臣として、江戸城本丸御殿内で勝負がしてみたい。その場合、札差の財力を背景に持てるというのは、存外悪い話ではないかもなァ)
理想と現実は違う。出世は賂の金額次第だ。このことは甲府勤番の五年間で身に染みている。
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