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イタリア人女性が年を取っても輝いている理由…『テルマエ・ロマエ』作者が綴る〈新ニッポン論〉 #5 望遠ニッポン見聞録

巨乳とアイドルをこよなく愛し、世界一お尻を清潔に保ち、とにかく争いが嫌いで我慢強い、幸せな民が暮らす小さな島国、ニッポン。『望遠ニッポン見聞録』は、長年、海外で暮らしている漫画家、ヤマザキマリさんが、近くて遠い故郷をあふれんばかりの愛と驚くべき冷静さでツッコミまくる、目からウロコの「新ニッポン論」です。本書の中から、一部を抜粋してご紹介しましょう。

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ナチュラルに着飾れない、みすぼらしい東洋人の悲哀

シカゴ近郊に日系の本屋さんがある。そこで何となく雑誌を物色し、綺麗な写真が目についた、とある一冊を選んでレジへ持っていこうとすると一緒に来ていた旦那が怪訝そうな顔で私と雑誌を見比べ、「なんでその雑誌を選んだの?」と問いかけてきた。

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私が選んだのは恐らく20代から30代の女性をターゲットにしたモード誌で、金髪のスラブ系と思しき美しいモデルが表紙になっているものだった。

「どうして日本人じゃなくて欧米人がモデルになっている雑誌を選ぶの?」と彼は私にかなり真剣に問いただそうとする。「写真が綺麗だし服も私好み」と答えると、後ろの本棚から日本の女優が表紙になっている立派な雑誌を持ってきて「こういう方がいいんじゃないの」と意味不明の提案をしてくるのだ。

はっきりと理由は言わないのだが、私にはわかった。日本人が欧米人の美を追求するのは見当違いじゃないかと潜在意識下で思っていたのだろうと思う。

夫が「これにしなよ」と持ってきた分厚い高級志向のその雑誌をさらっと捲ってみると、確かに写真は綺麗だし、日本の古都や料亭の美味しそうな食べ物の写真などが満載で読みごたえはありそうなのだ。ただ、そこに取り上げられている高級で清楚な洋服やスタイルも含めて、私は誌面全体から妙な圧迫感を感じた。

一応年齢的には私世代が読む雑誌らしいが、これはちょっといらないと夫に返すと、なぜなのか理由を知りたいという。「私がこういう雑誌を熱心に読む人になったら、うちは確実に破産するわ」と一言言うと、黙って元の場所にその雑誌を戻しに行った。

海外暮らしが長いので、モードの視点が日本ではなく周辺に見る欧米の人達に置かれてしまっている部分は確かに自分の中にあると思う。だからといって意図的に何もかも欧米人の真似をしているつもりはないし、日本のスタイルというものにも意識は向けていたい。

ただ、海外版の雑誌も含めて欧米人をモデルにしている雑誌の場合だと日本のような具体的な美意識の年齢的差異を強いられないので気が楽なのだ。もう40代も半ばになるのだから、そろそろそんなだらしのない格好は止めてエレガントな装いで人様の前に出るべきでは? という暗黙の圧迫感が私は苦手なのである。

イタリアの夫の実家がある小さな街をぶらぶら歩いていると、はっとするようなかっこいい中年女性を見かけることがある。そういう女性は必要以上に自分を美しく見せようとすることが時として醜さを招いてしまうこともわかっている。

だから過剰な雰囲気は一切ない。顔には夏のバカンス中にできたシミもあるし、小皺も沢山できているけど、その日焼けした肌から醸される年齢なんか気にしない彼女の精神的ゆとりもまた、彼女の美しさの大きな一部分になっている。

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©ヤマザキマリ/幻冬舎

私が今最も素敵だと思っている女性はフェルナンダ・モンテネグロという80代のブラジル人の女優なのだが、私はかつてリオのイパネマビーチでたまたま彼女とすれ違ったことがあった。気候や社会的事情上、ブラジルはイタリアよりも装いで自分を演出するのが難しい国なので、その人が美しいかどうかはその人自身の醸すオーラ次第。

私が出会ったそのおばさん女優は、簡素なワンピースを一枚纏っただけの本当にラフな格好だったが、屈託のない笑顔で孫をあやしながら歩く彼女の、人生を賛美するような優雅なオーラはどんなドレスを纏うよりも美しいものだった。彼女を見て、女性はどんなに年を重ねても、どんなに野暮ったい服を着ていても、若い人の何倍も輝けるものなのだとその時実感した。

海外に暮らしていると日本で見かけるのとはまたちょっと違ったこういう女性の美の構造に気付いてしまうので、なおさら装いに対する意識が軽くなっていく。

しかし、この装いに依存しないシンプルな美しさの演出というのは実は容易なことではない。

かつてフィレンツェで貧乏画学生をしていた頃、私は本当に着るものには無頓着だった。絵を描いていればそれだけで充足できていたので、それ以上の何かで自分を満たす必然性を感じていなかったのだ。こう表現すると当時の私が貧乏であっても何気に輝いていたような雰囲気になるし、自分でも充分に輝いているつもりになっていた。私は好きな絵を描いていられることで、自分万歳な気分に酔いしれていたのだろう。

そんなある日、我が家にジプシーの物乞いがやってきた。私はうっかり誰かを確認せずにドアを開けてしまい、「しまった!」と思ったのだが、そのドアに向かって右手を差し出した格好で突っ立っていたボロボロのジプシーのオヤジは私を見るなり、表情を強張らせた。そして、私の姿とドアを数回見比べてから「悪かった!」といきなり私に謝罪した。

「あんた、ここに雇われているんだろ? 本当に悪かったっ!」

オヤジは思いやりたっぷりにそう言うと「がんばれよ!」とエールを残してその場から立ち去っていったのだが、その直後ジプシーのオヤジに謝罪されるくらいみすぼらしかった自分のナリについて私は暫く考え込んでしまった。

東洋人というのは恐らくその骨格や容姿的にも、内面の充足感だけでゴージャスドレスを纏ったかのような雰囲気を演出するのは難しいのかもしれない。それとまず何よりも、私が持っていたような変な自負心や無頓着さというのが曲者なのだ。

あの時、あのジプシーオヤジに謝罪されなかったら、私はどんどん裸の王様ミスボラシバージョン道を突き進んでいた可能性がある。そう考えると、40代以降をターゲットにした日本の高級婦人雑誌は有難い注意を促してくれる座標とも言える。

私は考えを改め、夫が本棚に戻したその雑誌を取り戻してきて結局2冊購入した。それを見た夫は私に、「……それはいいけどさ、破産は勘弁してくれよ」と小さく不安げに囁いたのだった。

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『望遠ニッポン見聞録』ヤマザキマリ

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