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ゴッホのあしあと#1


「狂気と情熱の画家」というフレーズ

 私は、印象派、後期印象派の絵画が大好きで、これまでも印象派を題材にした小説を書いてきました。
 ゴッホは心惹かれる画家でしたが、実は題材として少々敬遠していました。小説の題材として扱うために、相当自分の思いをコントロールしていかないと、搦からめ捕られてしまいそうな激しさをもっているからです。彼の絵を詳しく研究してきたわけではありませんが、ゴッホの激動の人生は本で読んだり、映画で見たりして知っていました。物語にするにしても、彼の人生がドラマ以上にドラマチック、強烈すぎてつくり込めない。創作の中に落とし込むのは難しい画家だと思っていました。
 ある芸術家の人生を小説として描くとき、あまり知られていないエピソードを物語の中に取り入れると、新しい事実を読者の方々にお伝えすることができます。これがアート小説の醍醐味です。例えば、パブロ・ピカソ(一八八一~一九七三年)がアンリ・ルソー(一八四四~一九一〇年)の絵に強く惹かれ、生涯四点の絵画を手元に置いていた事実は、読者を小説の世界に引き込んでくれます。
 しかしゴッホについては、アートにそこまで詳しくない人でも、「自ら耳を切った画家ですね」くらいのことは、すでに知っていると思います。生前は評価されなかったけれども、今になって、作品が天文学的な値段で売買されていることは、衆知の事実になっています。
 それにゴッホのことを書くのは、非常に危険な感じがしました。つねに枕詞のようについてまわるのが「狂気と情熱の画家」というフレーズです。そればかりが前面に出てしまい、ゴッホのもっている誠実さ、繊細さはあまりフィーチャーされていません。絵そのものよりも、「心を病んで耳を切って自殺した人だよね」という、とても短絡的なイメージが先行しています。
 題材として難しい対象で、一筋縄ではいかない。とりわけ日本にはゴッホのファンが多いので、下手なことを書くわけにもいきません。
 ですから自分が小説の中で描きたい画家のターゲットリストから、一〇年くらいは外れていました。ルソーについては二五年間考え続けて二〇一二年に『楽園のカンヴァス』(新潮文庫)を書き、ピカソも三〇年間考え続けて二〇一六年に『暗幕のゲルニカ』(新潮社)を書きましたが、ゴッホのことはそこまで意識していませんでした。一種の偏愛とは異なり、書こうとして書いたわけではない。突発的だった。それが正直なところです。
 けれども、目を背けていながら実は心惹かれている。そういうふうに思う日本のファンが実はたくさんいるのではないかな、とも思っていました。

子どもの頃に感じた「怖い絵」

 子どもの頃、パブロ・ピカソの絵は大好きで、「私の友だち」であると身近に感じていました。それに比べてゴッホの絵が教科書や美術全集に出てくると、「怖い!」という恐怖心すら抱きました。あまりにも表現が激しくて、また感情的に見えて、絵が下手なのではないかとまで思っていました。
 印象派や後期印象派の画家たちは、あえて絶妙に均衡をズラし、セザンヌ(一八三九~一九〇六年)はゆがんだリンゴを描いているのですが、私から見たら、「リンゴすら、ちゃんと描けない。何て下手なんだ。あたしの方がずっと上手い!」と。いま考えると、とんでもない子どもですが。
 当然、ピカソの絵だって下手だと思い続けてきました。大人になってから、「いやいや、違う。上手いじゃないか」と、多様性をもった画家の才能に気づき、自分から近づいていきましたが、ゴッホにはそういう機会がありませんでした。
 ですからゴッホの絵は、美術館や展覧会で並んでいても、ずっと眺めていたいと思うような類たぐいの絵ではなく、立ち止まりたくない、近寄るのも怖いと思っていました。迫力、パッションが、ガンガン迫ってくる。その存在感を、ストレートに受け止めていたのだと思います。

高価な絵と実際とのギャップ

 それにバブルの頃、オークションを通して高値で取引されたことが、よくニュースに取り上げられていました。
 一九八七年、ゴッホの《ひまわり》を、安田火災海上保険(現損保ジャパン日本興亜)が、一枚の絵の取引価格としては史上最高の、日本円にして約五三億円で落札したことが大きく報道されました。同年には《アイリス》(一八八九年)がサザビーズで売りに出されて約七二億円で落札され、あっという間に記録を塗り替えました。
 そして一九九〇年には、日本のある実業家でコレクターが、ゴッホが死の一カ月前に描いた《医師ガシェの肖像》(一八九〇年)を、日本円にして約一二五億円で落札し、さらに更新しました。その際、「自分が死んだら棺桶に入れて一緒に焼いてくれ」とうそぶいて、世間を賑わせました。後日発言は撤回され、ゴッホの絵が棺桶に入れられることはありませんでしたが。
 そこで感じたのは、「そこまで大枚はたいて、自分のものにしたい気持ちって何だろう?」という素朴な疑問でした。それだけ巨額のお金を動かしてでも、我が物にしたいと思った人がいる。その事実がショッキングでもありました。「何でそこまでゴッホが好きなの?」と。そこまで熱狂する理由がわからなかったのです。オークションでの天文学的な落札価格が頭にこびりついてしまい、まっすぐに向き合うことができませんでした。
 生前に絵が売れず不遇だったにもかかわらず、死後に作品が高騰し、巨額で取引され、マーケットも盛り上がり、大きなニュースにもなる。そういうゴシップ的な煽あおられ方の中で、画家が翻弄されているようにも見えました。もし私がゴッホだったら、この事態を喜んだだろうかと。ゴッホその人や、彼の作品を評価する以前に、それを取り巻く環境がうるさすぎて嫌だ。周辺のノイズが喧やかましくて惑わされる。だから敬して遠ざけていたのだと思います。

日本とゴッホは相思相愛

 そもそも、何故日本人はゴッホが好きなのか。何故そこまで印象派や後期印象派、一九世紀末から二〇世紀初頭のモダンアートの黎れい明めい期の作品に、心惹かれるのか。昔から私の中で大きな疑問でした。それが、私が小説『たゆたえども沈まず』を書こうと思った原点です。
 当時の画家たちの絵は世界中の人たちから愛されているけれど、特に日本人は大好きですね。私自身も好きだから、モネ(一八四〇~一九二六年)やセザンヌについても、ピカソやルソーについても、小説に書いてきました。そこまで好きな理由を掘り下げてみたい。その源流に何があるのか。そこから小説を書いてみたいと思ったのです。
 浮世絵を含む日本美術が、印象派や後期印象派の画家たちに大きな影響を与え、やがて現代アート誕生の源になったことは、よく知られています。つまり日本美術のDNAを、画家たちが受け継ぎ、作品へと昇華したのです。同じものが体内に流れているのですから、なるほど好きにならずにはいられないわけです。
 二〇一七年一〇月、『たゆたえども沈まず』の小説が書き上がり、私はもう一度ゴッホの巡礼の旅に出かけました。ゆかりの土地をあちこち歩き、ゴッホ兄弟と林忠正(一八五三~一九〇六年)の魂に、「小説ができましたよ!」と話しかけながら。
 本が出版される前の見本を手に持ち歩き、行った先々で一人朗読しました。周りの人たちは「何を読んでいるんだろう?」と、きっと不思議に思ったことでしょう。私としては至って真面目で、「一人の日本人が小説を書いて、ここまで来ました」という思いで、ゴッホの魂に向かって私の書いた物語を読ませていただきました。
 そうしてようやく一冊の本が、同年一〇月二五日に、この世に生を享けました。この本がゴッホの魂、林忠正の魂に届いたらいいな、と思いました。
 ゴッホ関係の論文や原稿を書いている人は、誰もが背後にゴッホがいて、乗り移られそうになりながら書いていると思います。そのくらいグイグイ引き込む力のある画家です。
 私も、絶えず対話しながら作品を見てきて、ゴッホが辿った足跡を資料で追いかけ、実際に現地を歩いて旅をしてきました。そうすると、作品一点一点が納得できるようになりました。もう、いろいろなことが手に取るようにわかる。とりわけパリ時代以降のものは、どの作品を見ても、
「ああ、ゴッホは、こういう気持ちだったんじゃないかな」
 と、推測できるようになりました。
 日本人が、こんなにゴッホの絵を愛し、彼の人生が物語になり、映画や演劇や小説になって、私たちの心の中に入り込んでいる事実を、きっと、ゴッホは喜んでいることでしょう。
 日本とゴッホは相思相愛です。日本に、そしてパリに憧れ続けたゴッホ。誰にも受け入れられずに失意のうちに亡くなった。孤独と戦い苦労の絶えない人生だったかもしれないけれど、結果的に、あなたはこれほどパリにも日本にも受け入れられている。片思いではないのです。「私たちは両思いなんだよ」ということを、ゴッホに伝えたい。
 そして後世の画家たちに影響を与え、彼のDNAが今もって地球のあちこちで受け継がれていることが、最大の贈り物だと思います。
 だから私は幸せな結末だとあえていいたい。死んでしまったのだから終わりだとは思いたくない。彼は死んだのではなく、むしろ永遠の命を与えられたのです。傑作は永遠の命を生きるもの。それがアートの力だと思います。

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ゴッホのあしあと 原田マハ

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