母からの電話…生と死の現場をリアルに描いた人気シリーズ第2弾! #1 逃げるな新人外科医
雨野隆治は27歳、研修医生活を終えたばかりの新人外科医。2人のがん患者の主治医となり、後輩に振り回され、食事をする間もない。責任ある仕事を任されるようになったぶんだけ、自分の「できなさ」も身にしみる。そんなある日、鹿児島の実家から父が緊急入院したという電話が……。
『泣くな研修医』に続く中山祐次郎さんの人気シリーズ第2弾、『逃げるな新人外科医 泣くな研修医2』。現役外科医でもある著者が、生と死の現場をリアルに描いた本作から、冒頭部分をご紹介します。
* * *
プロローグ
ポッ……ポッ……ポッ……ポッ……
「うん、そう……左手、もっと強く引っ張って……」
「はい」
「お、結構上手いじゃん」
指導医の岩井が指示をする。言われているのは医師歴七年目、若手外科医の佐藤玲だ。
医者になって三年目、二七歳の雨野隆治は、この日「カメラ持ち」の助手をやっていた。
腹腔鏡手術という、お腹にあけた五つの小さい創から、細長いカメラや手術器具を入れて行う手術で、「カメラ持ち」は、このカメラを持って操作する役目だ。
佐藤は隆治の四学年上の先輩で、一年ほど前から本格的に腹腔鏡手術の執刀を始めたところだった。
「うん、じゃあ血管クリップして」
「はい。ヘモロック」
佐藤が言うと、道具を出す専門である器械出し看護師が間髪を容れずに渡した。
「いいねえ、さすがだね」
佐藤がマスクの下でにっこり笑う。
「またご飯行こうね」
佐藤とこの看護師は女性同士、仲が良いらしい。目元しか見えないが、隆治からすると看護師は三〇を少し過ぎたところ、つまり佐藤と同じくらいの歳の頃合いに見えた。
――よし、これで血管を処理したらあとはだいたい終わりだな。
隆治がそう一息ついた次の瞬間、みなが見ていたモニターの画面が真っ赤になった。
「バカ! 何やってんだ!!」
岩井の怒号が手術室に響く。
「すいません!」
佐藤は珍しく取り乱した声を出した。
――えっ? 何が起きたんだ?
「出血してんだ! はやくカメラ抜いてきれいにしろ!」
「は、はい!」
固まってしまった隆治に、岩井が大きな声を出した。体が大きく、声も大きいので迫力がある。隆治は慌ててカメラを抜くと、看護師に渡した。
「モタモタすんな!」
この間にも、お腹の中では出血が続いている。はやくカメラを入れ直さなければ……。
再びカメラを入れモニターを見ると、お腹の中は一面血の赤で占められていた。画面の下のほうには、びゅう、びゅう、と噴水のように血が吹き出るところがある。
――ここ?
隆治がそう思うとほぼ同時に、岩井の持つ細長い鉗子が噴水のところをつまんで血を止めていた。さっきの噴水はもうなくなっていた。
――なんてスピード……。血が溜まっていて出血点がどこか見えなかったのに……。
「吸引!」
佐藤がそう言い、細長い吸引の器械を腹の中に入れる。ジュボボボ、ズボボボという音とともに、赤い血の海が吸われていき、肌色の腸や脂肪が再び見えてきた。
「血管裂いたか、引っこ抜いたかだな。いまはコントロールできてるけど、ダメそうだったらすぐ開腹するよ」
岩井がいつもの声で言う。もう冷静さを取り戻しているようだ。
「開腹もできる準備しておいて!」
佐藤が大きな声で、外回りと呼ばれる看護師に伝える。
「麻酔科の先生、ちょっといま血出てますんで、で、まだ出ると思いますんで、アレだったら赤いの入れちゃってください」
ごめんね、と言ってニコッと笑う。岩井は若い女性麻酔科医だからか、今日は終始こんな上機嫌だった。「赤いの」とは濃厚赤血球のことで、赤いのを入れるとは輸血をすることを意味する。輸血バッグが赤いことから、こんなふうに呼ばれる。
隆治はただカメラを血で汚さないよう、体を固くしながら視野を確保していた。後頭部から首にかけて、汗が吹き出る。
一分ほどそうして佐藤が血を吸引すると、だいたいの状況が見えてきた。クリップをつけようとしていた血管が、なぜか根元からちぎれてしまっていたのだ。
「先生、開腹しますか」佐藤が言う。
「このままだとキツいかと」
「いまいくつ?」
岩井は佐藤の問いには答えず、大声で言った。
「いま合計600です! あ、700になりました!」
外回りの看護師が、出血量を報告した。
「もうそんな? じゃあ開腹しよう! 麻酔科の先生、まだ出ますよー。じゃんじゃん入れといて!」
隆治は何もできなかった。手が完全に止まってしまっていた。何かをしたいし、何かをせねばならない。しかし何をすればいいかまったくわからない。緊急事態ということはわかったが、大出血して大急ぎで開腹するという初めての経験で、目の前で起きていることが、まるで現実ではないように感じられた。だんだん視界が遠ざかっていく。浮き上がりそうになる体を、慌てて押さえつけた。
「マップ6単位! 新鮮凍結血漿ももらっといてー!」
「開腹用の器械、カウント終了!」
いつの間にか麻酔科医や看護師が増え、手術室は騒然としていた。
予定より二時間も延長して、手術は終わった。汗で変色した手術着を男子更衣室で脱ぐと、隆治はパンツ一丁のまま顔を洗った。がさがさと硬いペーパータオルを三枚とり顔を拭くと、鏡に映った時計が午後三時を示しているのが見えた。
――もうこんな時間か……。
考えてみれば、サケのおにぎりを一つ朝六時に食べたきり、飲まず食わずだった。しかし空腹は感じなかった。
白衣に着替えると、ポケットの携帯電話に着信履歴があった。鹿児島の実家からの電話だった。
――なんだろう……こんな時間に……。
実家の親が隆治に電話をかけてくることはめったにない。用事があるときにしか電話してこないのだ。忙しいだろうと遠慮しているのだろうか。もうちょっとかけてくれてもいいのに、と隆治は自分からはかけない割に思っていた。
少し気にはなったが、手術後の患者さんを診なければならない。昼ご飯を食べる時間もなさそうだし、仕事が終わったあと夜にでも電話してみよう。そう思った。
*
「もしもし、隆治だけど」
「おお、お昼に電話しちょったけど」
久しぶりに聞く母の声は、懐かしかった。母が懐かしいのか、鹿児島弁が懐かしいのか。
「うん、ごめん。手術で出られなかった」
「そうね、手術ね。外科の先生は大変ね」
「うん、いや、そんな大変でもないけど」
今日はすごく大変だったよ、と言いそうになったがやめておいた。
「そうね」
それだけ言うと、母は黙った。
隙間を埋めるように、隆治は言った。
「そっちはどう? さつま揚げ売れてる?」
「うん、潰れもせんが儲かりもせんね。最近はチーズのが売れちょっと」
「そうね」
鹿児島弁がうつった。いや、蘇ったと言うべきか。
再び間が空いた。
夜の医局は静かだった。
医学部を卒業して医師国家試験に合格後、内科、外科などいろいろな科を数カ月ごとに研修して回る二年間の初期研修を終え、隆治は外科医になることを選んだ。勤務先は引き続き、東京の下町にある総合病院、牛之町病院だ。
今後数年は、「後期研修」と呼ばれる期間が続くが、デスクは、初期研修医の頃とは別の医局の部屋に移動していた。後期研修に入れば、もう「研修医」とは呼ばれない。
三月の終わりで辞める医師たちはすでに去り、四月から新任の医師はまだ来ていなかった。
「実は、父ちゃんのことなんだけど」
母が言った。
「ちょっと体調が良くなくて、お腹が痛いんだって」
「あ、そうなの? いつから? どのへんが?」
思わず医者っぽい口調になるのを自覚しつつ、隆治は尋ねた。
「おいはしたん、病院行ったら精密検査しましょうって言われたっち」
「そうなんだ、なんて言われたの?」
「いやなんも、精密検査しましょうって」
「いや他にも言われたでしょ?」
「母ちゃんそういうのわからんから」
「わからんって……そういうの大事だから覚えといてよ」
――話にならない……。
「メモするとかさあ……」
母は黙ってしまった。
「とにかく、検査の結果出たらすぐ教えてね」
電話を切ってから、隆治はすぐに反省した。医療のいの字もわからない母を、なぜあんなふうに責めてしまったのか。いつの間にか医者の感覚でしかものを考えられなくなっているのかもしれない。
心配だけれど、とにかく待つしかない。
◇ ◇ ◇