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ゴッホのあしあと#3

迷いを感じる初期作品

 初期のゴッホの作品が、実は日本にもあります。新潟県立近代美術館の寄託作品で、一八八五年に描かれた《長い棒を持つ農婦》の絵です。暗い色調で、「これ、ゴッホの絵なの?」と誰もが見紛うような、ミレーの影響が色濃い作品です。
 二〇一六年の夏、「モネ展」が開催され、講演会で美術館を訪れました。その講演のときに、
「実は、この美術館には、ゴッホの素晴らしい絵があります」
 とお伝えしたら、
「えー? どこに?」
 と、会場からどよめきが起こりました。
 同時開催で美術館のコレクション展が組まれ、「モデルになった、はたらく人々」をテーマに、労働者や農民画を描く日本の画家たちの絵と並んで、ゴッホの《長い棒を持つ農婦》が展示されていました。
 日本では明治以降、バルビゾン派の影響を大きく受けた作家が多く活躍しています。黒田清輝(一八六六~一九二四年)、久米桂一郎(一八六六~一九三四年)、河北道介(一八五〇~一九〇七年)、浅井忠(一八五六~一九〇七年)らはフォンテーヌブローに滞在。バルビゾン派の後継者を自任しつつ、印象派の影響も受けながら独自の画風をつくり出しました。
 そして大正期の日本では、ミレーは労働への賛美を描く画家として、社会主義やプロレタリア文学とも深く関係し、岩波書店の商標にも使われていますね。
 新潟県立近代美術館の常設展では、ミレーの影響を受けたゴッホと日本人画家の絵が一堂に並び、自然と響き合っている様子が印象的でした。
 この頃のゴッホの絵を見ていると、画家としての迷いを感じます。自分が何を、どういう方法で描くべきなのかを模索していた時代です。そして「画家になるための道」という長いトンネルに入り、頭でっかちになって描いている印象を受けます。社会的な主義主張を貫いてリアリズム絵画を描くほどでもない。聖書と燭台を配した《開かれた聖書のある静物》(一八八五年)などを見ても、若さゆえにどこか背伸びをしている。この時期の作品は、きっと後世に伝えられずに失われたものも多々あったと思います。
 このように、自分のイメージをあれこれ描いてみようと、トライアル・アンド・エラーを繰り返す時代が五~六年続きます。ただしゴッホの非凡な点は、何一つとして無駄にはせず、彼なりに学習を重ねている点です。さまざまな要素を糧として完全に吸収し、種いものように土の中で力を蓄えていたのです。
 発芽には、起爆剤となるものが必要でした。
 それは太陽と水。ゴッホの場合、太陽はパリで、水は日本美術、つまり浮世絵だったのです。
 この二つの起爆剤を得て一気に開花したのが、一八八六年のパリ進出以降のゴッホです。もし、テオに迷惑をかけるからといって躊躇して弟の住むパリに出てこなかったら、そのまま何ごともなく終わっていたかもしれません。
 一八八六年二月、何故、ゴッホが突然パリにやってきたのか。その理由の詳細はわかりません。私の推測としては「機は熟せり」。それこそ「種」にしかわからない瞬間があったのではないでしょうか。本能としか呼べないような力で、彼はパリに引き寄せられ、そこで発芽の時期を迎えたのではないかと思います。

一八八六年、ゴッホ、パリへ出る

 美術史の中では、ゴッホは、ポール・ゴーギャン(一八四八~一九〇三年)やセザンヌと並んで「後期印象派」と呼ばれています。彼らは、印象派の影響を受け、そこを出発点としながらも批判的に継承しつつ、独自の画風を生み出しました。二〇世紀美術の先駆けになった画家、もしくは一九世紀の美術と、フォーヴィスム、表現主義、キュビスムなどの二〇世紀美術との橋渡しをした存在として位置付けられています。
 ゴッホの初期の作品には、そのような力はまだ備わっていません。
 ところが、この絵がガラッと変わります。その変化には、パリ、そして日本美術が影響を与えました。
 ゴッホがいかにして日本を受容してきたかについて、お話ししたいと思います。
 ゴッホがパリに来る以前から、日本の浮世絵は少しずつ知られていましたので、どこかで接触していた可能性は否めません。しかし、ゴッホが本格的に日本美術を受容するに至ったのは、一八八六年二月、ゴッホ三二歳。画商をしていた弟のテオを頼ってパリへ来たのがきっかけでした。
 一八八六年は決定的な年です。
 ゴッホは画塾にも一時期、籍を置き、いろいろなアーティストたちと出会い、画材屋兼画商を営んでいたタンギー爺さんの店(第五章の『①パリ』参照)にも出入りして、多くの刺激を受けて変わっていきました。とにかく学びたいという気持ちが強かったのではないでしょうか。彼にとってパリは運命的な街でした。
 一八八六年当時のパリでは、ルノワール、モネ、ピサロといったそれまでの印象派の画家とは異なり、純色の微細な点を敷き詰めて表現するスーラ(一八五九~九一年)、シニャック(一八六三~一九三五年)などの新印象派や、分割主義と呼ばれる一派が台頭していました。この年開かれた第八回印象派展は、こういった新印象派の画家たちで彩られ、この回をもって終了したのです。
 新しいものをどんどん取り入れようとする印象派、新印象派の画家たちに交じって、ゴッホ兄弟は今までに見たこともない浮世絵という日本美術に夢中になります。浮世絵は、その頃まだ買えないほどの高値ではありませんでした。テオはグーピル商会からもらった給料で、浮世絵を多少集めたそうですが、そのうちだんだん価格が高騰し、買えなくなってきたのではないかと思います。
 浮世絵をコレクションした結果、ゴッホの作風に大きな変化が訪れます。日本美術に影響を受けた作品が現れ、ジャポニスム(日本趣味)の作風が前面に出てきます。
 どのくらい変わったのか、お見せしたいと思います。
 本当に「何があったんですか?」と聞きたくなるくらいの変貌ぶりです。

浮世絵の花魁を模写する

 その代表ともいうべき作品が、一八八七年に描かれた《花魁おいらん》です。
 模写したオリジナルの作品を並べてみましょう。溪齋英泉(一七九〇~一八四八年)という浮世絵師の《雲龍打掛の花魁》です。
 中央に花魁の絵が色鮮やかに描かれています。さらに模写だけでなく、オリジナルで竹林や睡蓮の池、鶴など、日本のイメージを集めて描いています。当時としてはアバンギャルド、コラージュ的で、まさに現代アート。無謀なことをやってのけている感じが伝わってきます。色もビビッドで、ゴッホが心から楽しんで描いたことが想像できる一点です。
「何で、花魁が反転しているの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
 雑誌『パリ・イリュストレ』一八八六年五月号の日本特集の表紙を見てみると、溪齋英泉《雲龍打掛の花魁》の作品が掲載されていて、すでに反転しています。ゴッホは恐らくオリジナルの版画ではなく、この『パリ・イリュストレ』の表紙を見て模写したのではないかと思います。
『パリ・イリュストレ』の表紙は、おそらくリトグラフか、それに類する版画的な技術で印刷されています。リトグラフは、石版の上に油性の素材で絵を描き、特殊な薬品を塗ると、油性部分のみにインクが載るようになり、紙を置いて印刷すると、図案が反転します。パリに知人のリトグラフ工房があり、そこで自分の原稿をリトグラフ化しようと試みたところ、文字が反転してしまい、かなりの苦戦を強いられました。この経験から、ゴッホは反転した方の雑誌の表紙を模写したのだと思うに至りました。
 小説では、「若井・林商会」の表通りに面したショーウィンドウの向かい側の壁に掛けられた《雲龍打掛の花魁》にゴッホが見入っていた、と書いたのですが、それは私のフィクションです。実際は本物を見ていない可能性の方が高いと思っています。

ヨーロッパでのジャポニスムの大流行

 一九世紀後半は、二〇世紀に向かって、新しい表現を求め世界全体が動きはじめた時代です。消費活動が活発になり、都市文化が花開き、多くの芸術家たちが「花の都」パリに集いました。その華やかなパリに来て、目から鱗うろこが落ちるほどの驚きと発見があり、ゴッホは活力を与えられました。
 新しい表現を求める彼の目に飛び込んできたのが、日本の浮世絵でした。
 私も子どもの頃は、永谷園のお茶づけ海苔の袋の中にオマケとして入っているカードを集めていたものです。浮世絵はポスターをはじめさまざまなモチーフやアイコンにも使われ、東京の神保町には浮世絵専門店が複数あり、目にする機会の多い日本美術です。今の私たち日本人が見ても、別段に変わった絵だとも思いません。「ああ、北斎だ」「写楽だね」と思うくらいです。
 しかし一八七〇年代の、西洋のアカデミズムの美術ルールに則った作品に慣れ親しんだヨーロッパの人たちにとって、浮世絵は驚きに満ちていました。全く見たことのないものを見たわけですから、さぞかし驚いたのではないかと思います。
 画家たちは、新しいもの、誰も見たことがないもの、ブームになっているものを探し出し、果敢に自分たちの作風に取り入れていきます。特に日本美術の新しさに敏感に反応しました。
 例えばモネは、初期作品《ラ・ジャポネーズ》(一八七六年)の中で、着物を身にまとい、扇を持ってポーズをとるモデルの女性を描いています。この頃「ジャポニスム・ファッション」という名称で、パリの女性たちは日本風の装いを好み、デザイナーたちも和装のニュアンスを取り入れ、着物風コートなどをデザインし、大流行します。オペラ座に行くと、ご婦人たちが和装に似たドレスを着て、扇子で優雅に扇いでいる姿が見られました。
 少し時代が下がって、皆さんよくご存知のオーストリアの画家、グスタフ・クリムト(一八六二~一九一八年)の《接吻》(一九〇七~〇八年)。日本美術の影響を受けており、金箔の使い方、艶あでやかな着物は、日本の能装束からインスピレーションを得たといわれています。男女が一体化した平面的な構成も、いかにも日本的です。

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ゴッホのあしあと 原田マハ

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