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逃げたい娘 諦めない母 2┃朝倉真弓/信田さよ子

ワインのグラスを重ねたのち、母はこちらをじろじろと見ながら言った。

「仕事は忙しいの?」

私は一口ごくりとワインを飲み下すと、慎重に答えを探す。

本当は、今日コンペで勝ち取ったプロモーションの話をして、一緒に喜んでほしい。肉親だからこそ話したい、認めてもらいたいという気持ちがムクムクとわきあがってきた。

ただし、忙しくも楽しく、仕事が充実している様子を語ってしまうと、母はとたんに機嫌が悪くなる。「そんなことだから婚期が遅れる」「男以上に働く女は可愛げがない」というのが理由だ。

かといって、あまり忙しくない風を装えば、「暇なら週末には家に帰ってこい」など、面倒な方向に話が進んでいくのは目に見えている。

母にとって娘は、そこそこ賢くて自分の言うことを聞く、ペットのような存在がちょうどいいらしい。自分の同級生や近所の子供たちよりも優秀であってほしいが、自分の影響の及ぶ範囲からは独り立ちさせたくないというのが、母の本音なのだろう。見知らぬウェイターに向かってペット自慢ならぬ娘自慢ができる程度が理想であって、本物のキャリアウーマンになってほしいなどとは、露ほども思っていないのだ。

そこまで分かっているのに、今日の私はどうかしていた。

自分たちのチームのプレゼンテーションが認められ、会社にとっても画期的な分野の案件が取れたことに舞い上がっていたのかもしれない。

母の「仕事は忙しいの?」という問いに対して、いつものように、

「それほど忙しいわけでもないよ」

と、あいまいな答えを発したのち、私はうっかり付け加えてしまった。

「でも、今日は大きな仕事を決めることができて、ちょっといい気分なんだ」

気分が良過ぎたのか、渇いたのどをうるおすワインが効き過ぎたのか。

母の心の地雷を踏む発言だった。

私は、瞬時に自分の言葉を後悔しつつ、混乱のあまりさらにワインを一口含んだ。

そんな私に向かって、母はやさしく尋ねた。

「そう、それは良かったじゃない。どんなお仕事なの?」

私は、前菜の季節野菜のゼリー寄せをつつきながら、話すべきことを整理した。そして、クライアントが日本初上陸であるファッションブランドの案件であることや、自分はその案件を担当するチームリーダーであることなどを、なるべくおおごとに聞こえないよう、細心の注意を払いながら説明した。

説明を聞いていた母は、案外穏やかな顔をしていた。これまでの仕事の話とは違い、ファッションブランドの案件であるということに満足しているようだ。

確かに母としても、スマートフォンの中に使われている微細なバネのトップメーカーと仕事をしていると聞かされるよりも、日本初上陸のファッションブランドと仕事をしていると聞かされたほうが嬉しいらしい。他人に娘自慢をする際にも聞こえがいいはずだ。

母の表情にちょっぴりホッとしながら、私は、続いて運ばれてきたスープに取りかかった。

スープを持ってきたウェイターに笑顔で礼を言った母は、表情を一変させて、言った。

「それにしても、あなた、その服は何なの? お母さん、女性は女性らしい格好をしなさいって、いつも言っているじゃない? 前はあなたもコンサバな服が好きだったはずなのに」

私が着ていたのは、今日のプレゼンのためにわざわざアメリカから取り寄せた“グリングレイ”のワイドパンツに、同じく“グリングレイ”の、ショート丈のカーディガンジャケットだ。確かに母が好きなAラインのワンピースや、女性らしさを強調するようなタイトスカートといった装いではない。

そもそも、私がコンサバなスタイルを好んで着ていたというのは、母の幻想にすぎない。スカートをメインに、きちんとした格好をしないと母が不機嫌になるから、母の前では努めてそういう服を着ていただけだ。

母は背筋を伸ばして表情を引き締めると、私に向かって言った。

「お仕事で偉い人にも会うんでしょう? あなた、そんなだらしのない格好を平気でするなんて、以前と変わったわね」

確かに母から見れば、私は変わったのかもしれない。自分の言うことを素直に聞き、服装はもちろん、趣味や生き方も自分好みに育てあげた娘ではなくなってしまったことを憂えているのだろう。

でも、本当の私はこうなんだ!

母の価値観に合わせていた以前の私が無理をしていたのだ!

私は、心の中だけで叫ぶ。

私はすでに、この服がクライアントのブランドの服なのだという説明をする気も失せた。説明したところで、母の不満を解消することができるとは思えなかった。


「まあ、いいわ」

ため息交じりにそう言った母は、私のファッションの話を早々に切り上げ、実家の近くにできたパン屋の話を始めた。なんでも、都内の有名店で修業をしたオーナーがひとりで切り盛りしているらしい。

「でもね、パンは本当に美味しいんだけれど、お客様にお出しできるようなお菓子類は置いてなくて。あの、ラスクっていうの? 残り物のフランスパンを加工したようなものしか置いていないのよ」

そんな母の小さな愚痴に対し、私は珍しく心の中で賛同した。実は私も、ラスクはあまり好みではない。

話の相手が母でなければ、私はすぐに「分かる!」と答え、最近のラスク人気に関してしばし盛り上がったことだろう。けれど私は、

「ラスクって、専門店があるぐらい流行っているらしいよ」

などと答えるにとどめ、これ以上酔わないように、注意深く水を含んだ。

そして、とりとめもなく広がっていく流行の雑貨やインテリアの話、ご近所の噂話など、当たり障りのない会話のキャッチボールを繰り返した。

私はいつのころからか、なるべく母には自分のことを話さないように心がけていた。

母は、どんな話をしようと素直に喜ばない。仕事が楽しいと言えば、だから生意気な女になるのだと言われ、趣味のスポーツに打ち込んでいると言えば、スポーツのし過ぎの弊害をとくとくと説く。今の私が好きなことは、母にとってすべて面白くないらしい。

同時に私は、母との会話が昔話にならないように神経をとがらせていた。

一緒に住んでいた時代の話になると、決まって母は、「……それに比べて、今のあなたは変わってしまったわね」と嘆く。

母を悲しませないためだけに続けていた習いごとや、母のために学芸会でやりたくもない主役に立候補したこと、母が喜ぶからと柄に合わない優等生を演じていたことは、今の私にとっては葬り去りたい過去だ。できることなら、思い出したくもない。

けれど母の中では、時間が経てば経つほど思い出は美化され、昔の私は実際以上に“いい子”として記憶の中に生きているらしい。そして時に、母は昔の私の言動を引き合いに、今の私を責めたてる。

「子供を産んだら、お母さんみたいなママになる」

「お母さんを早く安心させてあげたい」

優等生だった私は、確かにそう言い、大人を喜ばせていた。その言葉が将来の自分を苦しめるなんて、思いもよらずに──。

けれど、いまさら変えられない過去の自分と比較されるのは、私にとって気分の良いものではなかった。

ふと、母と私の会話が途切れた。

どうしよう?

注意深く会話の方向をコントロールしていたつもりの私は、次の会話の端緒を探った。そして、店内に飾られていた調度品の感想でも……と考えたその瞬間、母はいきなり会話のテーマを変えてきた。

「そうそう。そういえば、お隣の近藤沙紀ちゃん、結婚して、もうすぐお母さんになるんですってよ」

母は無邪気に、私の地雷を踏んでくる。

私も無邪気を装い、

「そうなんだぁ。沙紀ちゃん、いいママになりそうだね」

とだけ答える。

そんな私に向かって聞えよがしのため息をつきながら、母は言う。

「本当にあなたは、私の手を離れてから変わってしまったわね。昔は素直ないい子で、早くお母さんみたいに結婚したいだなんて、可愛らしいことを言っていたのに。三三歳にもなって独身だなんて、恥ずかしいったらありゃしない。ご近所に顔向けできないわ」

……変わった?

そう、私は変わったのかもしれない。

確かに私は、母から離れて本来の自分の志向に気付き、ストレスのない生き方へと方向転換をし始めている。そんな私は、母にとってそれほどまでに「恥ずかしい」存在なのだろうか?

母は、私の生き方を理解しようとしない。親の顔色をうかがいながら生きてきた娘時代の私が、本当の姿だと信じている。

私は、何も言わずに料理をワインで流し込み、デザートとコーヒーの到着をじっと待つ。

一刻も早くこのディナーがお開きになればいいと、ただそれだけを願っていた。

*   *   *

続きは1月10日公開予定

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