運命を好転させる隠された教え チベット仏教入門 #2
第一章 悪業を浄化する
◆ 受けなければいけない苦しみを回避する ────◆
仏教では全ては因果応報の法則によると考えます。悪業を積めば苦しみがもたらされ、善業を積めば楽がもたらされると考えるのです。
また、業は善業であろうと、悪業であろうと、強力な方が先に果をもたらし、同程度の業なら、先に積んだものが先に果をもたらすとされます。
釈尊だけでなく過去仏も皆説いたとされる「七仏通誡の偈*1」に、「諸悪莫作 衆善奉行」とあります。「悪いことはするな。善いことをせよ」という意味です。
では、既に積んでしまった悪業はどうすればよいのでしょうか。大乗仏教では、次の四つの力が揃えば、悪業は浄化できるとします。
(1)懺悔
(2)所依の力
(3)二度としない誓い
(4)行力
仏教の原則は因果応報です。しかし、ツォンカパの後にゲルク派を継承したギャルツァプ・ジェは、この四力が揃うなら、享受しなくてはいけない悪業も浄化され、受けなければいけない苦しみを回避できるとしています。また、全て揃えて正しく観想(思い巡らすこと)しなければ、悪業は浄化されず、必ず苦しみを享受しなければならないとも述べています。
では、この四つの力について具体的に説明していきましょう。
(1)懺悔
これは自分のなした悪行を悪業として認識し、それを悔恨して懺悔することです。無論、過去世の悪業は覚えていないので、とりあえず、今生の自分の悪業を思い出します。
私の師の一人、ロサン・デレ師は、幼い頃、父親にきれいな羽根を拾って来て褒められた経験から、弱っている一羽の鳥に何度も石をぶつけて殺したことがあったそうです。幼き日の彼は、その鳥から多くの羽根を取り、家に戻って父親に見せたところ、「お前、鳥を殺したろう」とひどく叱られました。
「死んでいた鳥から取った」と言い訳をしましたが、父親は取り合わず、母親が「死んだ鳥だと言っているではないですか」と取りなしても、「これだけ大量のきれいな羽根が死んだ鳥から取れるわけがない。嘘をついている」と言って、デレ師をますます責め立てたそうです。
デレ師は、「この時、父親が自分を褒めていたら、自分は動物を殺すことを繰り返しただろう。そうであったなら、別の人生を歩むことになったと思う」とおっしゃっていました。懺悔の時にはいつもこのことを思い出されるそうです。
自分の人生で一番印象に残っている悪行を思い出し、それが遥か前の前世、前々世の悪業をも代表していると考え、まずは懺悔する。これが四力の最初の「懺悔」の意味です。
(2)所依の力
所依の力とは、懺悔する対象のことです。
これもロサン・デレ師のエピソードですが、師が初来日され、京都の大覚寺で法要を勤修された後の昼食時に、ある女性から次のような相談がありました。
彼女の友人がカンボジアの首の無い仏像の絵を描いたところ、コンクールで入選したそうです。ですが、それから友人にはろくなことが無く、「首の無い仏像を描いたことと関係があるのでしょうか?」というものでした。
デレ師は即座に「それは関係が大ありだ! 首をつけて仏像を描かねばならない」とおっしゃいました。
法華経の方便品第二*2に「ある者が仏塔に向かって心乱れたまま、一度だけ“諸仏に帰依し奉る”と言っただけでも菩提に到達する」「童が遊びで楽しんで壁に爪や木片で仏の姿を描いたら、慈悲あるものとなり、菩提に向かわせる」などとあります。
無論、直ぐに功徳があるというよりは、幾世かを経て後のことと思われますが、いずれにせよ、心乱れた者の心に功徳があるわけではありませんし、遊んで壁に落書きしている童に功徳があるのでもありません。
あくまでも、「その対象側、仏自体の力による」というのです。これを「所依の力」といいます。
二〇一四年に種智院大学で実施されたダライ・ラマ法王密教講演会で、菅智潤善通寺宗務総長(現総本山善通寺第五十八世法主)が法王に次のような質問をされました。
「密教の修行者が頭頂にオン字、喉にア字、胸にフーン字を観想しますが、その意味は何でしょうか?」というものです。
法王のお答えは「オン・ア・フーンは仏の身口意*3を指す。仏は三阿僧祇劫*4といわれる計り知れない長期にわたり、衆生の利他のみを実現するために修行をして仏果を実現したため、その身口意には衆生救済の加持力*5が籠もっている。これを行者自身の身口意に重ね合わすとその加持力がいただける」ということだったと記憶しています。
この場合は、行者の側の働きかけの力、即ち修行の力が大いに関係すると思われますが、基本は仏自身の持つ力によるところのものと考えてよいでしょう。従って、懺悔するにしろ、祈願するにしろ、帰依する対象の側にそれに応え得るだけの力が必要だというわけです。
これを「帰依の力」といいます。
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