妻のいない夜…疲れた心にやさしさが染み入る感涙小説 #1 虹の岬の喫茶店
小さな岬の先端にある喫茶店。そこでは美味しいコーヒーとともに、お客さんの人生に寄り添う音楽を選曲してくれる。その店に引き寄せられるように集まる、心に傷を抱えた人々。彼らの人生は、その店との出逢いと女主人の言葉で、大きく変化し始める……。
『ふしぎな岬の物語』のタイトルで映画にもなった、森沢明夫さんの小説『虹の岬の喫茶店』。疲れた心にやさしさが染み入り、温かな感動で満たされる……。そんな本作から、第一章「《春》 アメイジング・グレイス」をお届けします。
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第一章 《春》 アメイジング・グレイス
寝室の窓が、ザアッと大きな音を立てた。
強い風にあおられた大粒の雨滴が、窓ガラスを叩いたのだ。
私はその音で目を覚ました。
羽毛布団のぬくもりのなか、薄く目を開ける。
遮光カーテンの隙間に覗くのは、まだ明け切らない春の夜の深い闇だった。
右手でごそごそと枕元の携帯を探り当て、時刻を確認すると、デジタル表示は午前三時三十四分を表示していた。
このところずっと眠りが浅く、夜中に何度もこうして目覚めてしまう。しかも、いったん目覚めたら最後、なかなか寝付けないのだ。四十歳になったばかりだというのに、まるで爺さんみたいだな……そう思いつつも、一方では眠りが浅くなる原因を自分なりに痛いほど理解してもいる。
私は携帯を元の位置に戻し、身体をごろんと横にして、傍らから聞こえてくる平和で愛くるしい寝息に向き直った。四歳の娘、希美は海老のように丸くなって眠っていた。いつものように掛け布団を蹴飛ばしていて、ほとんど身体にかかっていない。白と黒のウサギのキャラクターの絵をちりばめたお気に入りのパジャマもずり上がって、背中が丸出しだ。
やれやれ、風邪ひくなよ……。
希美のパジャマと掛け布団をそっと直してやり、自らも再び布団に潜り込んだ。そして、小さな電球の明かりに黄色く浮かび上がる和室の天井をぼんやりと眺めながら、ふいに持て余したこの暇な時間をどう使うべきかと考えた。小説でも読むか。携帯のゲームでもやってみるか。妻が残していった料理本でも読んで、今後のために勉強しておくか。あるいは、いっそのこと起きてしまって、ゆっくりと朝食の準備でもするべきか――。
また風が吹きつけて、窓ガラスがザアッと音を立てた。
昨夜テレビで観た天気予報によれば、今朝からは三日ぶりの晴天になるはずだったのだが……。
思えば、この三日間の暗然とした空は、私をひどく憂鬱にさせていた。鋭い銀糸のような冷雨が世界の隅々から優しい色彩をすべて洗い流してしまうような、そんな気さえした。濡れて鈍く光る灰色の風景もまた、いまの私にとっては心理的な錘りになるばかりで、たまに現れる小さな浮上のきっかけまでも、薄墨色のモノトーンに塗りつぶされてしまうように思われた。
空がすっきりと晴れてさえくれれば……そうすれば、この鬱々とした気分も少しは晴れるかも知れないのに――。
ため息をつき、しばらく仰向けのままじっとしていた。
どく、どく、どく……。
肋骨の内側に、自分の鼓動を感じた。
私の心臓は、この世のすべてに無関心な様子で、ひたすら平然と拍動を続けている。
誰も「動け」なんて命じていやしないのに。
私は、ただ、生きていた。自動的に。
これから先もずっと、私はこの心臓によって、意志とは無関係に生かされていくのだろう。
これから先? 私と希美は、どうなるのだ?
不透明な未来を憶ったら、見慣れたはずの天井が妙に高く感じられて、ふいに世界から取り残されたような気分になってしまう。このところ、何度もこういった嫌な感覚を味わっている。
また、ザアッと窓が鳴った。
外は嵐のような荒天なのだろう。
しだれ桜も散り切ったこの時期の荒天も「春嵐」と呼ぶのだろうか。「若葉雨」と呼ぶには、風が強過ぎはしないか……。
いや、そんなことはどうでもいい。
私は「ふぅ」とひとつ長い息を吐いてから身体を横にし、ふたたび無垢な希美の寝顔を眺めた。娘は、すぅ、すぅ、と一定のリズムで安らかな寝息を立てている。
つい最近までは、このささやかなマンションの和室に三組の布団を並べて敷き、家族三人で川の字になって寝ていた。そのときは八畳のこの部屋が少し窮屈にさえ感じていたというのに、たったひとつ布団が減っただけで、同じ部屋がこうもうそ寒いほどに広く感じてしまうとは思いもしなかった。
妻の小枝子が使っていた布団は、すでに押し入れの奥にしまい込んでいた。この先、二度と希美に「川の字」の幸福を味わわせてやることが出来ないかと思うと、また気分が滅入りそうになる。
私は、眠っている娘の前髪を、そっとかきあげるように撫でた。細くてやわらかい、子供らしい髪だった。そして、あらわになった額の形が、死んだ小枝子のそれとそっくりだということに、今更ながら気づいたのだった。
しばらくの間、娘の髪を一定のリズムで撫で続けた。
生暖かいしずくが、私の左右の頬をつるつると伝い落ちて、くたびれたシーツに吸い込まれていたが、放っておいた。ただ、唇をぎゅっと閉じて、ややもすれば喉の奥から漏れそうになる声を押し殺すことに心を砕いていた。
小枝子を亡くしてから流すはじめての涙は、自分でも不思議なくらいにとめどなく流れ続けた。
結局、私は布団を出ることにした。
眠ろうにも眠れず、喉も渇いていたのだ。
洗面所でコップ一杯の水を飲んで一息つくと、歯を磨き、顔を洗った。それからキッチンの隅で深煎り豆をコーヒーミルでゾリゾリと粗めに挽いた。挽いた豆をドリップ式のコーヒーメーカーにセットし、そのスイッチを押す。
小さな音量で、リビングのテレビを点けた。
夜明け前のこの時間は、どのチャンネルも似たような通販番組ばかりだった。それでも、一人きりで音のない寂寞を味わうよりはマシだと思い、私はテレビを点けたままリモコンをそっとテーブルの上に置いた。
テーブルの上には「大沢克彦様」と書かれた地味な封筒があった。葬儀屋の男が「打合せ」のときにくれたものだ。封筒のなかの用紙には、小枝子の葬儀の細かな流れと、喪主である私のするべきことがフローチャートになって分かりやすく書かれていた。この数日間で、何度このチャートを見返しただろうか。両親が健在な私にとって、喪主を務めるのは初めてのことで、それだけに、このフローチャートは葬儀の間の心強い道標だった。
急性骨髄性白血病に侵された小枝子が病院で息を引き取ってから、私の周囲は終始目まぐるしくて、正直、妻の死をじっくりと悼んでいる余裕などはなかった。むしろ、亡くなった小枝子と、小枝子の両親のために、きちんとした葬儀を滞りなく済ませてやらなければ、という責任を強く感じていたようにも思える。そして何よりも、幼くして母親を亡くしてしまった希美の心のケアはどうすればいいのか――そのことばかりが気になっていた。
葬儀の準備から終わりまでの間、希美は私の傍らから片時も離れようとはしなかった。不慣れな喪主という役割にあたふたしている私に気を遣ってくれた祖父母たちが、たびたび希美の手をとり、あやしながらどこかに連れて行ってはくれたのだが、しかし、一分とせずに希美は私の元に戻ってきてしまうのだ。そして、つやつやと濡れた黒目で私を見上げると、樟脳の臭いのついた喪服の裾をぎゅっと握るのだ。私は、そんな希美を抱き上げて頬ずりをしては、「大丈夫だよ」という不毛にも思える言葉を繰り返し口にしていた。そして、その言葉は、ほとんど自分に言い聞かせているのではないかと錯覚してしまう始末だった。
通夜と告別式を通して、私が泣かなかった分、希美が何度もすすり泣いた。四歳で母親を失った哀れな女児が流す涙は、参列者たちのしずくの呼び水となり、おかげで、さめざめと泣く人が続出する、温かな葬儀になった気がする。
そして、なんとか滞りなく喪主を務め上げ、ホッとしながら香典返しのリストに漏れがないかどうかをチェックしたのが昨夜のことだった。あとはそのリストを郵便ポストに投函すれば、ようやく喪主としての当面の「仕事」は完了する。香典返しの商品は、然るべき日にギフトショップが発送してくれることになっているのだ。次なる喪主の「仕事」は、四十九日の法要だが、それまでは、とりあえず一段落できるはず――だったよな? と思い、念のため私は地味な封筒のなかのフローチャートを引き出して確認した。
大丈夫だった。しばらくは喪主も休めることになっている。ほっとしてため息をついたら、リビングに香ばしい匂いが漂った。
私は、おそろいの二つのカップにコーヒーを注ぐと、ひとつをブラックのままサイドボードの上に置いた。仏壇のない我が家のために葬儀屋が持ってきてくれた金色の敷物をサイドボードの上に敷き、そこに小枝子の遺影と遺骨と位牌を置いているのだ。
無邪気に微笑みかけてくる小枝子の遺影の前に、ふくよかな香りのする湯気が立ちのぼった。線香の煙よりも、こちらの方が小枝子は喜んでくれる気がしていた。
私たちは、酒よりもコーヒーを好む夫婦だった。いつも新鮮なスペシャルティコーヒーを豆のまま購入し、その豆の個性に合わせた粗さに挽いて、ゆったりと風味を愉しんでいたのだ。小枝子はブラックを好み、私はミルクと少量の砂糖を入れたものを好んだ。
普通は、男がブラックだよね――。
小枝子はよくそんなことを言いながら、カップを片手に悪戯っぽく微笑んでいたものだ。
私は深煎り独特のしっかりした苦みのあるコーヒーを一口だけ啜ると、ぼんやりと遺影を眺めた。白黒写真の小枝子は、美味しいコーヒーを飲んだときのように口角をキュッと上げ、目を細めていて、なんだかとても幸せそうに見えた。
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