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#3 速まる鼓動、恋の予感

40歳の香澄は、ドラマの人気脚本家。夫への愛情を見失う私生活を送るなか、27歳のダンサーと出会う。夫にはない肉体美に魅せられて、一線を越える香澄。愛欲に溺れて女の喜びを初めて知るが、嫉妬に狂う夫の激しい抵抗にも遭い、仕事も金も失う……。新堂冬樹さんの『不倫純愛』は、エロス・ノワールの到達点ともいえる官能的作品。男性読者にも、女性読者にもオススメできる本書から、物語の冒頭をご紹介します。

*   *   *

現在脚本を書いている連続ドラマ、「永遠の蝶」にかのん役で出演している葉山ミナは「ダーツプロ」所属の期待の新人だった。かのんは、主役のトップモデル、ミレイを脅かす後輩モデルだった。

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「ダーツプロ」は業界でも力のある事務所なので、坂石の頼みもあり準ヒロインの配役にした。

正直、演技もろくにできない新人女優には荷が重過ぎる役だったが、芸能界のパワーバランスを考えれば仕方がなかった。

いまのドラマは、力を持つ事務所のタレントを各局で順番に使うみたいな流れが定番になっている。昔は、まずは物語ありきで配役を決めていたが、いまは逆だ。

大手芸能事務所のタレントが〇月クールのドラマの主役に決まったから、原作のプレゼンを行う、という感じだ。

つまり、そのタレントが引き立つ物語をチョイスするのだ。

ドラマがつまらなくなったと言われるのも、無理のない話だ。しかも、大手芸能事務所は少しでも所属タレントを目立たせようと脚本にまで口を出してくる。

プロデューサーは、大手芸能事務所の注文を脚本家に伝え、説得する「伝言役」にしか過ぎない。

「うん。マネージャーがいくつか案を出してきてさ。ひとつ目の案が、かのんの元彼が現われて、いろんな嫌がらせを受けるっていうもの。ふたつ目は、かのんの父親の会社が倒産して、娘のところにヤクザが取り立てに現われるというもの。三つ目が……」

「もう、いいわ。どれだけ聞いても、無理な相談ね。主役のミレイならわかるけど、二番手のかのんにサイドストーリーを作ったらおかしなことになるわ。本当はさ、葉山さんには準主役だって荷が重過ぎるのよ? 先月公開された、彼女が脇役で出演している映画を観たんだけど、ひどい棒読みだったわ。まだセリフが少ないからよかったようなものの、『永遠の蝶』じゃ毎回、十以上のセリフがあるんだから。それなのに、もっと出番を作ってほしいなんてありえないわ」

香澄は、これまでに堪っていた鬱憤を晴らすように言った。

脚本家は小説家とは違い、自分の好きなように物語を作ることはできない。多くの場合は、プロデューサーから用意された漫画や小説の原作を渡される。

それから、打ち合わせという名の「縛り」が告げられる。

原作ではこうなっているが、ドラマではこういうふうにいきたい。この役者のために、こういう役を作ってほしい。原作とは違って、主役の言葉遣いをこうしてほしい。

プロデューサーのリクエストは、そのほとんどがメインキャストの事務所に気を遣ったものだ。

いまのテレビ業界に求められているのは、独創性のある脚本家よりプロデューサーの指示通りに書ける脚本家だ。

もともとは小説家を夢みていた香澄にとって、脚本家という職業は我慢の連続だった。

「まあまあ、そう言わずに。『ダーツプロ』の中田一馬にはウチの局はいい思いさせてもらってるから、ある程度言うことを聞かなきゃならないんだよ。わかるだろう?」

坂石が、苦笑しつつ言った。中田一馬は若手ナンバーワンの人気俳優で、出演するドラマは軒並み二十パーセントを超え、各局で引っ張りだこだ。

「ダーツプロ」は、中田一馬をはじめとする視聴率を持っているタレントを出演させる代わりに、知名度のない新人を交換条件としてキャスティングするようプロデューサーに強要する。これを、業界用語でバーターという。

「わかるけど……彼女のエピソードを作ったら、主役が霞むわよ?」

「プロダクションのパワーバランスを考えたら、仕方ないね」

坂石が、肩を竦めた。

「永遠の蝶」の主役……小峯ほのかは清涼飲料水のCMでブレイクした人気女優だが、所属するのが父親の経営する個人事務所なので、業界における影響力は「ダーツプロ」に遠く及ばない。

しかも、「ダーツプロ」は中田一馬以外にも数多くの売れっ子タレントを抱えているので、怒らせて出演拒否になってしまえばテレビ局としては死活問題だ。だから、各局のプロデューサー達が「ダーツプロ」の顔色を窺うのも必然だった。

「わかったわ。前向きに、努力してみるから」

香澄は、ため息をつきながら言った。

「ありがとう。恩に着るよ。ところでさ、香澄ちゃん、旦那さんとはどうなってるの? 離婚したの?」

坂石が、思い出したように訊ねてきた。

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信一と別居したことは、坂石には話していた。本当は内緒にしておきたかったが、ゲラの送付先が変わるので話したのだ。執筆部屋を借りたとか適当な嘘も吐けたが、後々バレたときのことを考えると面倒だった。

「いいえ、まだよ」

「どうしてしないの? 縒りを戻すとか?」

坂石が好奇の色を宿らせた眼を香澄に向けた。

「それはないわ」

香澄は即答した。

何度生まれ変わっても、信一と結婚することはないだろう。もし、この世に信一とふたりきりになったとしても、絶対に男女関係にならないという自信がある。いまとなっては、どうしてあんな男性を愛してしまったのか、理解に苦しんでしまう。

出会った頃は、信一も優しく、なにかと香澄を気遣ってくれた。微笑みを絶やさず、物静かに話す男性だった。いわゆる体育会系の荒々しい男性が苦手だった香澄には、優男然とした信一が魅力的に映ったのだ。

だが、結婚生活を送るうちに、信一が理想の男性像からは程遠いタイプだということがわかった。優しいと感じたところは女々しさであり、信一は悪い意味で女性的な男性だった。

そんな夫に辟易してきた影響なのか、最近の香澄は理想の男性像に優しさというキーワードを求めなくなっていた。信一とは真逆のタイプ――逞しく、頼りがいがある、いわゆる男らしい男性を魅力的だと感じるようになっていた。

「もったいないな。香澄ちゃんみたいないい女がフリーだなんて。俺、立候補しようかな」

「こんなおばさん、そんなふうに思ってないくせによく言うわ」

「いやいや、香澄ちゃんは十分に現役だよ」

「はいはい、わかりました。仕事の話に戻りましょう」

香澄は軽くあしらった。十五年くらい前に言われていたなら、納得できただろう。

自分で言うのもなんだが、大学時代にミスコンで準ミスに選ばれたり、二十代の頃は美人脚本家としてマスコミに取り上げられたりと、男性にちやほやされる人生を送ってきた。それこそ、脚本家になりたての頃に、プロデューサーや映画監督から口説かれたことも数知れない。

だが、二十代後半からは、年を重ねるごとに口説かれる回数も減った。三十を過ぎた頃には、口説かれるどころか食事にさえ誘われなくなった。香澄が人妻になったことが一番の理由に違いないが、それでも男性という生き物が若い女性に弱いのは間違いない。

「チーター配送でーす。お荷物配達にきました!」

店内から聞こえてくる声に、香澄の聴覚が反応した。

ガラス越し――香澄の視線は、店員に荷物を渡す黄色いユニフォームに身を包んだ青年に釘づけになった。

「どうかした?」

坂石が、怪訝そうに訊ねてきた。

「いいえ……ちょっと、トイレに行ってくるわ」

曖昧に微笑み、香澄は席を立ち店内に向かった。

――トイレになんて、行きたくないでしょう? あなたは、なにをしてるの?

声がした。たしかに、自分はなにをしてるのだろう?

心とは裏腹に、香澄の足は青年……来夢のもとに向いていた。

「お荷物四点になります。こちらにサインをお願いします」

店員と向き合っている来夢は、歩み寄る香澄に気づいていない。というよりも、一度会っただけなので、顔を覚えていない可能性があった。

香澄が来夢の脇を通り過ぎるとき、汗の匂いが鼻腔に忍び入った。

信一の汗臭いワイシャツを洗濯するのはとても不快だったが、来夢の汗の匂いは気にならなかった。気にならないというより、むしろ、好んでいる自分がいた。

香澄は、レジの近くのショーウインドウの前で立ち止まり、ケーキを選んでいるふりをした。

――本当に、どうしたの? いま、そこでなにをしてるかわかってるの?

また、声がした。

もちろん、わかっていた。偶然を装い、来夢が気づくのを待っているのだ。

鼓動が、速まってきた。どうしてだろう? 相手は、まだ一度しか会っていない、おそらくひと回り近く年下の青年だ。

年の離れた弟のような来夢に、恋愛感情を抱いているわけではない。それなのに、思春期の学生のようにドキドキするのはなぜ? 坂石との打ち合わせを中断してまで、「偶然の出会い」を演出しようとするのはなぜ?

「ではまた、よろしくお願いしまーす」

来夢の声に、頭の中の自問自答が吹き飛んだ。台車を転がす音と、香澄の心音がリンクした。


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