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すり替えられた石版…美術修復士が謎を解くアート・ミステリ! #5 コンサバター

世界最古で最大の大英博物館。その膨大なコレクションを管理する修復士、ケント・スギモトのもとには、日々謎めいた美術品が持ち込まれる。すり替えられたパルテノン神殿の石板。なぜか動かない和時計。札束が詰めこまれたミイラの木棺……。一色さゆりさん『コンサバター 大英博物館の天才修復士』は、天才的な審美眼と修復技術を持つ主人公が、実在の美術品にまつわる謎を解くアート・ミステリ。物語の始まりを少しだけご紹介しましょう。

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いつもは正面玄関に面した通りまでタクシーが入れるが、博物館から数百メートル先の道まで大渋滞が起こっていた。身動きがとれなくなった車内で、ウーバーの運転手がバックミラー越しに言う。

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「お客さん、この先に行っても無駄ですよ」

「え?」

「ギリシャ彫刻が壊されて、大騒ぎしてるみたいですから。残念ですけど、今日はもう閉館になるみたいで」

「なぜ知ってるんです」

「みんな知ってますよ」

運転手は笑いながら、ツイッターの画面を掲げた。

驚いて自分のスマホで確認すると、来館者が事件現場を撮影したらしい複数の写真や動画が、【今世紀最大のヴァンダリズム】【博物館の作品って、こんなに簡単に壊れちゃうものなの?】【館内には爆弾が仕掛けられているらしい】といった大量のコメントとともに拡散されていた。

「スギモトさん、テロ予告じゃないかっていうコメントもありますよ」

「なんでもいいが、俺の休日を返してほしいもんだ」

いやはや、この人にはシニア・コンサバターとしての責任感がないのだろうか。

「どうします? こっから近いナショナル・ギャラリーとかに行きますか」

日本語で会話をしていたので、運転手から観光客だと思われたようだ。

「いえ、ここまでで大丈夫です。ありがとう」

二人はウーバーを降りて、人混みをかき分けながら博物館の入口に向かった。

普段なら、敷地の外周には、手荷物検査のために長蛇の列ができている。しかし臨時休館となった今、おそらく館内から退去させられた人々と、これから大英博物館を見学しようとしていた人々とで、見たこともない大混雑が起こっていた。

路地にはパトカーも何台か停まり、制服姿の警官が誘導を行なう。不安げな人々とやりとりをする黄色いベストを着た警備員に、二人はスタッフ証を見せ、敷地に入る。彼らのトランシーバーは鳴りっぱなしだった。

石畳と芝生の広場では、小雨のぱらつくなか、この日働いていたスタッフたちが館内の安全が確認されるのを待っていた。週末なので人数は少ないが、その分、臨機応変に動けるスタッフも限られているため、みな混乱している様子だ。

「ギャラリーに来いと言われたよ」

スマホの通話を切ると、スギモトは他人事のように言った。

騒然としたグレートコートを横切り、「パルテノン・ギャラリー」と記されたガラス扉に辿り着く。その前では、警察官や警備員が何人も立っていて、スタッフでさえも簡単には立ち入れない重々しい空気だった。

「殺人事件みたいだな」

物々しい厳戒態勢のなかで、スギモト一人だけ真剣味がない。なかに入ると、数名のスタッフが絶望的な顔で立ち尽くしていた。おしゃべり好きな彼らの沈黙は、事態の深刻さを雄弁に物語っていた。

晴香は改めて、ギャラリーを見渡す。

この空間には、紀元前五世紀頃にアクロポリスの丘に建てられたパルテノン神殿の彫刻群――通称パルテノン・マーブルの、およそ半数が展示されている。あとの半分はアテネに現存し、他にもいくつかはルーブル美術館、ウィーン美術史美術館など、欧州各地に点在する。

それらは大きく、三種類に分けられる。

ひとつ目は、神殿の破風部分にあった、等身の倍近い大きさの丸彫り彫刻だ。神々の姿を表し、パルテノン・マーブルのなかでももっとも神聖とされる。それらはI字形になったパルテノン・ギャラリーの、両端のスペースの中央に鎮座する。

ふたつ目は、メトープと呼ばれる、神殿の軒縁に並んでいた約百三十センチ四方の石板だ。ほとんど丸彫りに近い高浮彫で、人と神が入り乱れて戦う神話の世界を表す。ギャラリーの丸彫り彫刻を取り囲むように、両端のスペースの壁に掛けられている。

みっつ目は、フリーズと呼ばれる、神殿内側の列柱の外周を飾っていた約百センチ四方の石板だ。他の二種に比べると彫りは浅く、全長百六十メートルにわたって表現されたのは、自由を希求するアテネの人々の世界である。ギャラリーのうち、長い回廊になったスペースにずらりと整列する。

それら三種類に共通するのは、例外なく破損しているということだ。

なぜなら神殿は、六世紀にはキリスト教の聖堂に、十五世紀にはイスラム教のモスクに改造され、十七世紀には戦争によって爆破された。さらに異教徒たちは、偶像に満ちたその神殿に悲憤をおぼえ、嫌悪し、頭部を中心に破壊したのだ。

それでもパルテノン・マーブルは、ルネサンスや古典主義などで後世にくり返し、美術における人体表現の手本として、不死鳥のように価値が見直されつづけてきた。「人間とはなにか」という普遍的命題の、ひとつの答えを教えてくれるからだろう。

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「これは派手にやられたもんだ」とスギモトが呟いた。

破壊されたのは、高浮彫のメトープ《ラピタイ人とケンタウロスの戦い》だった。この石板には、半人半馬のケンタウロスが片腕にライオンの皮をかけ、人間に襲いかかる様子が模られている。

床に落ちた石板は、うつ伏せの状態で真っ二つに割れていた。さらにケンタウロスの肢体は砕け、周囲に散らばっている。

「信じられないですね」

晴香が呟くと、うしろから声がした。

「本当に、信じられないよ」

ふり返ると、ギリシャ彫刻専門のキュレーターであるイアンが立っていた。

ギリシャ系移民の両親を持つ四十代前半のイアンは、マークス&スペンサーで安く売っていそうなカジュアルな服装で、無精ひげを生やしている。なぜか彼の立ち振る舞いは、対外的な露出が多く自ずと態度も大きくなりがちなキュレーター陣よりも、縁の下の力持ち的にこつこつと地味な仕事をこなすコンサバター陣の方に近しい。だから晴香の周囲でも、異色のキュレーターとして評判だった。

「この子は?」

イアンは見慣れないアジア女性が居合わせていることを不審に思ったらしく、スギモトに訊ねた。ギリシャ美術には紙媒体の作品が少なく、彼と直接関わる機会は今までなかったのである。

「気にするな、こいつは俺の助手だ」

大英博物館の仕事も手伝うって話だったっけ、と晴香は内心戸惑いつつも、スギモトの強引さに押される。

「はじめまして、アシスタント・コンサバターの晴香です」

「よろしく、ハルカ」

イアンは穏やかな笑顔で、握手を求めた。そして無残な姿になった、生涯をかけた自らの研究対象であるパルテノン・マーブルを、うつろな目で見つめた。

「詳しい経緯を説明するよ。一時間ほど前、ギリシャ人の来館者が自撮りの最中に結界に躓き、作品に身体ごとぶつかった。たまたま今日出勤していて、最初に警備室から連絡を受け取った僕が、すぐにマニュアルに従い【レベルA】と判断し、君にも連絡が行ったわけだ」

「その来館者は?」

「幸い怪我もなく、今は警備室にいるよ。英語が不得手らしく、これから僕も立ち会ってひと通り事情を聞くけれど、ひどく動揺していて、政治的な動機はなさそうだ。本当にただの事故だったのかもしれない。ただしそうなると、博物館としては責任を問えなくなるから厄介だが」

スギモトはイアンの話に耳を傾けながら、床にしゃがみ込む。そして胸ポケットからペンライトを出し、散らばった欠片を手に取ると、青白い特殊な光を当てた。

「君はこれを見て、どう思う?」

スギモトはイアンを見上げ、その破片を手渡す。

「どうって……胸が痛むよ」

「いや、これはフェイクだ」

「なんだって!」

「大理石じゃなくて、石膏だってことさ」

晴香とイアンは顔を見合わせる。

「表面をよく見ると、大理石風に着色されているが、細かく飛び散っている様子は、明らかに石膏だ。先入観を持って眺めると騙されそうだが、あとできちんと分析すれば、ほぼ百パーセント石膏だと分かるだろうね」

「たしかによく見れば……」

イアンは開いた口が塞がらない様子だ。

スギモトは立ち上がり、膝についた埃を払うと、マイペースに展示室を歩き回りはじめた。

「どうやら、もうひとつ先入観が邪魔をしていたようだ。今までこの部屋をじっくり観察したことはなかったが、いくつかの彫刻は壁に金属のフックを差し込んでいるだけで、簡単に取り外せそうじゃないか」

「まさか!」

「おいおい、それはこっちの台詞さ。君はギリシャ専門の研究者のくせして、どうしてそんなことを把握していない?」

スギモトが訊ねると、イアンは目を逸らして自虐的に笑った。

「情けないけれど、キュレーターなんてそんなもんさ。作品のメイン担当者としてプロジェクトの指揮をとっていても、僕たちに与えられる権限は小さい。作品に直接触れられる君たちコンサバターの方が、いざという場面で頼りになるものさ」

晴香はそれを聞いて、仕方のないことかもしれないと思った。

日本の「学芸員」と英国の「キュレーター」は同義語ではない。日本の学芸員は企画、研究、教育、保存のすべてを担当することが博物館法で義務づけられている一方、欧米ではその仕事は分担され、キュレーターは研究と企画だけを担当すればよい。

「それにしても、君の言う通りパルテノン・マーブルが壁から外され、石膏にすり替えられたのだとしたら、本物はどこに行ってしまったんだ?」

イアンは言い、スギモトは冷静に答える。

「まさに解くべき謎はそこだな。来館者が偶然起こした事故をきっかけにして、掛かっていたのはむしろ偽物で、本物は行方不明だという事実が判明してしまったわけだ」

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コンサバター 大英博物館の天才修復士 一色さゆり

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