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〈あの絵〉のまえで #3

持ち合わせがあまりないことを思い出して、枝豆ひと皿だけ、注文した。それをつまみに、一杯限りの生ビールをちびりちびりと減らしていく。店内のテレビをぼんやりと眺めるうちに、はたと思い出した。

──明日、面接入ってたんじゃなかったっけ。

ここに入社できたらいいな、とかすかに期待を募らせていた広告プロダクションの面接。あわててバッグの中から手帳を取り出して、スケジュールを確認した。──八月七日、午前十時、赤坂見附で面接……!

「ああ、もうだめだぁっ」

思わず叫んで、自分で自分の頭をぽかぽか叩いた。もうだめだ、もうだめだ、だめだだめだだめだ、あたしのばかばかばかばか、ばかッ。ぽかぽかぽかぽかぽか、ぽかッ。

「あの……お冷、お持ちしました」

顔を上げると、私と同い年くらいのバイトらしき女の子が立っていた。彼女はにこっと笑いかけて、氷水のコップをテーブルに置いていった。私はそれを一気に飲み干して、息を放った。

──どうしよう。馬鹿じゃな、あたし。

やっと乾いた涙が、またもやじわりとこみ上げてきた。さっきの女の子が少し離れたところからこっちを見ているのを感じて、私はテーブルの上に視線を落とした。

閉じた手帳の表紙がぼんやりとにじんで見えた。表紙には有名な画家の絵がカラーで印刷されてあった。──フィンセント・ファン・ゴッホが描いた夏の庭の絵。

手帳は去年の冬休み直前、クリスマス・プレゼントにと亜季が贈ってくれたものだった。見返しの余白にはメッセージが書き込まれている。すんなりときれいな、亜季そのもののような字で。

〈メリー・クリスマス この手帳をみつけたとき、なんだか夏花っぽいなと思って買いました。就職活動手帳に使ってね。がんばって就職活動、乗り切ろう〉

「乗り切れないよ、もう……」

今度は声に出して、そうつぶやいた。ぽつんと涙のしずくが手帳の見返しの上に落ちた。そこに書かれていたのは、表紙の絵のクレジット。

〈ドービニーの庭〉フィンセント・ファン・ゴッホ 一八九〇年 ひろしま美術館所蔵

私は手の甲で涙をぬぐって、そのクレジットをみつめた。たった一行を、何度もなんども、繰り返し読んだ。

──ひろしま美術館。

広島県庁の近く、基町にある私立美術館だ。知ってはいたが、行ったことはなかった。

私は手帳を閉じて、表紙の絵をまじまじと見直した。

〈ドービニーの庭〉

こんもりと生い茂った木々、みずみずしい緑におおわれた庭。真ん中には白ばらの茂みがあり、さわやかな大輪の花が咲き誇っている。遠景にある洋館の屋根も緑色で、草木の色に呼応している。空は少しさびしげな水色をたたえて静まり返っている。

誰もいない真昼、けれど庭のそこここに生命の営みがある。力強くまばゆく、光に満ちた夏の庭の風景──。

「ラスト・オーダーになりますが、追加のご注文はよろしいでしょうか」

声をかけられて、はっと我に返った。

さっきの女の子が、さっきと同じように立っている。私は、「あ、大丈夫です。お勘定を」と急いで言った。

胸がどきどきしていた。まるで、〈ドービニーの庭〉に一瞬迷い込んでしまったような気がしていた。

こんな小さな印刷の絵に、しかもいつも見ていたはずの手帳の表紙絵なのに、いきなり引き込まれてしまった。ほんものを見たら、どれほど引きずり込まれるだろう──と思った。

財布を取り出し、開けてみて、ぎょっとした。千円くらい入っていると思ったのに、五百円も入っていなかった。勘定書を見ると、七百円だった。

「あの、公衆電話ありますか」

女の子に訊くと、「こちらへどうぞ」と、店の奥へ連れていかれた。そこには住居の茶の間のような雑然とした小部屋があった。女の子は少し照れくさそうな笑みを浮かべて、

「ここ、うちなんですけど。そこに電話があるけん、上がって、使うてください」

どうやらそこは店舗兼住居で、彼女はその店を経営する一家の一員のようだった。部屋の片隅の座布団の上に黒電話が鎮座していた。私はありがたくそれを使わせてもらった。ジーコ、ジーコとダイヤルを回す。トゥルル、トゥルルと呼び出し音。

『はぁい、こんばんは、広さんでーす』

すぐに母の声が響いてきた。私は一瞬、口ごもったが、

「お母さん、あたし。……いま、袋町らへんの居酒屋にいるんじゃけど。お金、なくて」

正直に告げた。我ながら、情けない声が出てしまった。

十分後、母が居酒屋に現れた。代金を支払って、女の子と店長──女の子のお父さんであると最後に判明した──に、何度も頭を下げ、お礼を言った。私も一緒に頭を下げた。

「いいえいいえ、なんもなんも、電話くらいなんてことないです、また一緒に来てつかあさい」

太っちょのお父さんはにこにこ、えびすさんのような顔でそう返した。私は恥ずかしくて女の子と目を合わせられなかった。が、最後に彼女に向かって言った。

「ほんまに、ありがとう。助かりました」

女の子は、やっぱりにこっとして、

「また来てください。お母さんと」

そう言ってくれた。まるで、ずっと昔からの友だちみたいに。

母と私、ふたり並んで、袋町の広電停留所に佇(たたず)んでいた。

「もっと早う電話くれたらえかったんじゃが。帰ってきとるって」

突然帰ってきた娘に向かって、母が小言の口調で言った。「ごめん」と私は、ひょこんと頭を下げた。

「今日が八月六日ってこと、会社の面接に行く途中で思い出して……それで、急に帰ってきてしもうたんよ」

母にほんのり責められて、私はこれで四度目、泣きたくなった。母は、ふふっと笑って、

「まあ、ええが。こうしてあんたの顔、ひさしぶりに見られたんじゃけ、よかったわ」

そして、私の肩をぽんと叩いた。

「なかなか似合うとるが。リクルートスーツ、言うんじゃったっけ?」

「ああ、これ? 安物の一張羅じゃけどな……」

と言ってしまってから、気がついた。春先に「就職活動のためのスーツ買いんさい」と母が送ってくれたお金で買ったのだった。

母は、ふふふ、とまた笑った。

「安物でも一張羅でも、よう似合うとる」

ネオンの合間を縫って広電が近づいてきた。母が先に、私が後に、乗り込んだ。ちんちん、と発車のベルが鳴り響いて、電車はすぐに出発した。

私たちは、しばらくのあいだ、無言で電車に揺られていた。半分開いた車窓から気持ちのいい夜風が吹き込んできた。県庁の近くを過ぎたとき、私は、あっと声を上げた。

「どうしたん?」

母が不思議そうな顔をした。

「──ひろしま美術館!」

私は大きな声で言った。

うっそうと木が生い茂る公園のそばを、がたん、ごとん、電車が加速して通り過ぎる。その公園の中にひろしま美術館があると、行ったことはなくても知っていた。車窓の外で公園が遠ざかるのを見送るようにして、母がつぶやいた。

「ああ、そうじゃったね。あそこの美術館、むかーし、あんたを連れていったなあ」

思いがけないひと言に、私は母の横顔を見た。

「え……ほんまに? いつ?」

「そうじゃなあ。……あんたを抱っこして行ったけぇ、二十年くらいまえのことじゃろうか」

私が二歳になった頃のこと、ある日、広さんが唐突に美術館の入場券を母に手渡したのだという。

──これ、お客さんにもろうたんじゃけど、たまには奈津ちゃんも気分転換に絵でも見てきたらええ。

生まれてこのかた、美術館になど一度も足を踏み入れたことのなかった母は、すっかり戸惑ってしまった。

興味がなくはない。いや、一度でいいから行ってみたい。でも、美術館って、私なんかが行ってもいいんだろうか。行くとしても、何を着ていけばいいんだろう。それに、小さな子供がいる。連れていっても、迷惑じゃないだろうか。

悩みに悩んだ末に、母は、思い切って公衆電話から美術館に電話をかけた。

──あの、小さな子供がいるんですけど、連れていってもご迷惑じゃありませんでしょうか。

すると、電話に出た女性が答えて言った。

──どうぞどうぞ、一緒に来てつかあさい。小さかろうと大きかろうと、美術館に入ったらいけん子供さんはひとりもおりません。

「ほんでなあ。お母さんは一張羅のワンピースにアイロンをあてて、あんたにもいちばんいい子供服を着せてな。こんなふうに路面電車に乗って、行った……」

そこまで言ってから、「あ、そうそう。思い出した」とうれしそうな声になった。

「二十年まえの、今日。あんたの二歳の誕生日じゃった」

二十年まえの、八月六日。

二十四歳の母は、二歳になった私を抱いて、生まれて初めて美術館に行った。

静まり返った水の底のような展示室は、清々しい気に満ちみちていた。母に抱かれた私は、泣かず騒がず、ただじっと、生まれて初めて本物の絵に向き合い、みつめていたという。

母にとっても、生まれて初めて見る名画の数々。その中に、きっとあの絵──〈ドービニーの庭〉もあったはずだった。

そして、あの絵のまえで、母と私は、ひとしく赤ん坊だった。ひとしく無垢なまなざしを、初めて見る世界に向けていた。

「なあ……お母さん。お願いがあるんじゃけど」

ほとんど聞き取れないような小声で私は言ってみた。色黒のやせた横顔がこっちを向いた。どんなに小さな声でも、どんなに遠くでささやいても、母は決して私の声を聞き逃さなかった。

「明日、休みじゃろ?」

母は、うなずいた。

「あのさ。一緒に行かん? ……美術館に」

がたん、ごとん、母は体を揺らしながら、じっと私の目をみつめると、もうひとつ、うなずいた。そして、言った。

「ほしたらな、夏花。どれでも好きな絵、ひとつ、選んでええよ。プレゼントにあげるから」

母の目が、いたずらっぽく微笑んだ。

街じゅうでアブラゼミの声がわんわんと響き渡っている。

今年もまた、私は、この街で八月六日を迎えた。四十一回目。平穏無事で平和ないちにちを。

あの頃の私は、未来の私がこの日を過ごしている場所を、まったく想像できなかった。

私がいまいる場所。広島市内のとある美術館の入り口にある小さなカウンター。入場券の販売と「もぎり」を兼ねた受付である。

去年、総務事務として長年勤めた車の部品のメーカーを退職し、この美術館の受付の求人に応募した。そして、嘱託で働き始めたのだ。

美術館の職員募集を市報で目にしたとき、ひさしぶりに胸がときめいた。応募してみようか、どうしよう、夏里の高校進学も控えているのに、正社員から嘱託に変わるのはいけんじゃろ? と自問自答した。

悩んだ末に、やっぱり母に相談した。母は、何も言わずに、ぽん、と肩を叩いてうなずいた。それで、思い切って応募した。結果は、採用。躍り上がって喜んだ。

──就職先、決まらんのじゃったら、帰ってきたらええが。

二十二歳の誕生日。あの夜、母は私に言った。

──だって、ここがあんたのふるさとなんじゃけぇ。

美術館の受付カウンターの中、手元のデジタル時計に「16:28」と表示されている。美術館の最終入場時間は午後四時三十分だ。

今日はデパ地下の食料品売り場で買い物をして、夏里と一緒に、いつもよりちょっと気取ったメニューの料理を作り、母の帰りを待って、婆母子、三人揃って毎年恒例、私の誕生日会をすることになっている。

さて、そろそろ片付けに入ろうかと、立ち上がったそのとき。

入り口のドアが開いて、黒いつば広の帽子にサングラスをかけた女性がさっと入ってきた。

一瞬、あざやかな風が吹いたようだった。私は座り直すと、「いらっしゃいませ」とにこやかに彼女を迎え入れた。

「すみません。大人一枚、お願いします」

肩で息をつきながら、彼女が言った。念のため、私は尋ねた。

「閉館時間は五時となっておりますが、よろしいでしょうか」

「ええ、もちろん」

彼女は、きっぱりと答えた。

「今朝、出張で広島に来たんです。東京へ帰るまえに、どうしてもここへ来たくて」

彼女はそう答えた。そして、サングラスを外して私を見た。

──あ。

亜季だった。友は、ちょっとはにかんだ笑顔になった。

「ひさしぶり。一度、この日に広島で会いたかったんだよね」

ハッピー・バースデー。

◇  ◇  ◇

〈あの絵〉のまえで 原田マハ

あの絵

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