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豪雨の中、あの子はどこへ消えた? 行方不明少女を追う刑事の執念を描く警察ミステリー #1 雨に消えた向日葵

埼玉県で小学五年の石岡葵が失踪した。最後に目撃されたのは豪雨の中をひとりで歩く姿。誘拐か、家出か、事故か? 電車内で発見された葵の私物、少女に目を付けていたという中学生グループ……。情報が錯綜し、家族が激しく焦燥に駆られるなか、県警捜査一課の奈良健市は執念の捜査で真相に迫っていく。

警察ミステリーの新旗手、吉川英梨さんの最高傑作として名高い『雨に消えた向日葵』。ムロツヨシさん主演でドラマ化もされた本作より、冒頭の一部をご紹介します。

*  *  *

プロローグ

石岡葵は紙に鉛筆を滑らせていく。

――二人は唇を合わせていて、彼の手が、彼女の胸の膨らみに触れる。

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物心ついたときから絵を描くのが好きだった。小五になったいまでは毎日描いている。漫画家とか、アニメーターになりたいわけではない。厳しい世界のようだから、趣味で描いてコミケに参戦する程度でいい。いつか誰かと恋をして、結婚して平穏に暮らし、でもたまに刺激的なことがある。そういうのが一番いい。

周囲に将来の話をすると、「どの口が言う」と笑われる。「お前みたいなおてんば娘、平凡な人生で満足できるはずがない」と、死んだおじいちゃんに言われた。近所のおばさんには「葵ちゃんはその容姿だから、男たちが放っておかないわよ」と警告された。

波乱万丈の人生は、漫画の中だけでいい。

二人の初キスは前に描いた『竹灯の夕べ』のシーンで済ませている。『竹灯の夕べ』は埼玉県坂戸市の、灯籠流しのイベントだ。中学生にもなると、ここで誰かとツーショットになるのが、一種のステータスになる。坂戸市を流れる高麗川に、オレンジ色の光がロマンチックにたゆたっていく。漫画の中の二人は違う高校に進んで、いま葵が描いている『お釈迦様』で再会し、とうとう結ばれる――。

『お釈迦様』は市の中心部にある永源寺のお祭りだ。中学、高校と進学するうちバラバラになってしまった友達に会うこともできる。漫画の二人も、このお祭りで再会を果たした。

葵はランドセルからルーズリーフをもう一枚出した。坂戸市立第七小学校の五年二組の教室にひとり残って漫画を描いている。早く描き終えて帰らなくては。今朝の天気予報では、ゲリラ豪雨が降る可能性があると言っていた。

漫画の中の二人は永源寺の鐘つき堂の下に座り込んだ。彼女のブラウスのボタンを外す彼。『ダメだよ、人がいるよ……』『俺の家に来る?』――吹き出しのセリフを想像する。

教室の扉が開いた。

葵はルーズリーフを、アリエルのバインダーに挟んで隠した。あっという間に五人の少女に囲まれる。六年の目立つ女子グループだ。

「また漫画描いてたでしょ~。ねえ、どんなの、見せて」

えへへ、と適当に愛想笑いする。上級生を敵に回すと、中学校に上がったときに面倒だ。葵が通う小学校の八割は、目と鼻の先にある第六中学校に進学する。特に女子は上下関係が厳しく、独自のルールが細かく決められている。派手な恰好をしたり、目立つことをしたりすると、先輩から呼び出しを食らう。

東京都豊島区目白からこの町に引っ越してきたとき、中一だった姉の沙希はルールを知らず、上級生から目をつけられた。「生意気だ」という理由でナイキのスニーカーもプライベートレーベルの傘も焼却炉に投げ込まれた。

「ところで、書いてくれた? 退部届」

やっぱりその話題か。心の中でため息をつく。

葵は美術クラブに所属している。学校の中ではオタクの集まりとからかわれ、スクールカーストでは下の方だ。目の前の彼女たちはダンスクラブに入っていて、学校の女子を支配している。転部を勧められていた。

「先生には話してあるんですけど、なんていうか、私自身が微妙というか。踊るの下手だし」

「そんなことないって。うちら七小ダンスチームには、石岡さんみたいに目立つ顔が必要なんだって!」

リーダー格の女子が机越しに顔を近づけてくる。小柄で足も短いが、顔はフランス人形のようにかわいい。

「石岡さん、今年のよさこいも鶴舞から出るつもりなん! ありえないって」

葵は鶴舞という、田んぼの真ん中の住宅街に住んでいる。寂れたニュータウンだ。毎年二回開催される坂戸のよさこい祭りでは、様々なチームが駅前の商店街で踊る。去年の秋、葵は「若い踊り手がいないからお願い」と拝み倒されて、鶴舞チームに加わった。近所のお姉さんに濃いメイクをされ、鉢巻をして派手な衣装を着て踊る――ただただ恥ずかしいだけだったのに、葵は広報誌の表紙を飾ってしまった。以来、ダンスクラブに勧誘されるようになった。目立たずに漫画を描いていたいのに。

「っていうか、石岡さんって小三まで池袋のタワマンに住んでたってホント? 何階なの」

フランス人形が急に詰問口調になった。

「池袋というか目白です。十七階でしたけど……」

たっかーい、と少女たちが歓声を上げる。

「全然、最上階は四十七階ですよ。いまでも父親が住んでるんですけど、そろそろ離婚が成立しそうで……。あそこに住むことはもうないかな」

両親の別居はもう二年以上だ。親権で揉めているらしい。去年死んだ坂戸のおばあちゃんは「征則さんは執拗で強情な男ね」と父親を評してため息をついていた。別居してから会っていない。大手都市銀行に勤める仕事人間だ。週末も仕事や接待で家にいなかった。

フランス人形が大げさに同情する。

「そっかー。両親のアレコレって子供じゃどうしようもないから、一度こじれると子供はひたすら不幸だよね。都心のタワマンから田舎のニュータウンに越してくるなんて」

「でも、坂戸の方がずっといいですよ」

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高麗川は支流が何本も流れていて、中州には葵の身長を優に超す葦が力強く生えている。自然の迷路みたいで、鬼ごっこをすると燃える。高低差のある流れは天然のウォータースライダーだ。倒木を転がしただけの丸太橋は、遊園地のジェットコースターよりもスリリングだ。

辺り一面に広がる田んぼは、夏は緑色の絨毯のようにフワフワで、秋には赤とんぼが集まってくる。水を張っただけの冬は星空を映す鏡のよう。小学校のある浅羽野地区の南側には小高い古墳があり、そこに浅羽神社がある。ご神木の千年杉が天空に枝を伸ばしている。西の空には秩父連峰がそびえていた。この町にいると、空の存在を近くに感じる。葵は坂戸が大好きだった。

小六女子たちはしらけている。

「こんな町のどこがいいの。電車なんか十五分に一本しか来ないし、特に鶴舞なんて周りに田んぼしかなくて陸の孤島じゃん」

親友の藤岡絵麻が教室に入ってきた。黒ぶちメガネをかけ一歩先をいくお洒落さんだ。六年の女子にそつなく挨拶する。絵麻は葵に言った。

「係のことでウッキーが探してたよ。すぐここに来るんじゃないかな」

ウッキーというのは担任教師のあだ名だ。小六女子たちは「考えておいてよ」と言い残し、教室を出て行った。

ダックスフントたちめ、と絵麻がため息をつく。

「ウッキーって言っただけで、慌てて逃げたじゃん。葵をいじめに来たんだよ」

担任が探しているというのは、彼女たちを追っ払う嘘だったらしい。

「いじめる? 私を?」

「どうせまたダンスクラブの話でしょ。葵と一緒によさこいを踊りたいなんて、うそ、うそ。自分たちのクラブに葵を引き入れて、徹底的に叩いて潰すつもりなんだって」

「潰すって、なんで」

「だから~、もう」と絵麻は前の席に後ろ向きに座り、心配そうに葵を見る。

「葵は自分の顔を世界で一番理解してない。自分がどんだけの美少女だと思ってるの」

美少女と言われることは多いが、自分では判断がつかない。

「だからさ、ダックスフントにとっちゃ、葵は目の上のたんこぶ。葵が天下取る前に徹底的に叩いて配下に置きたいわけよ。いまからうまく逃げる術を覚えて、媚売っておかないと、六中に上がったらひどい目に遭うよ。そのときになったら私はいないんだからね」

絵麻は中学受験する予定だ。常に全国模試で上位にいるから、受験に失敗して地元の第六中学校に通う確率は低い。

「で? 漫画はどう」

絵麻は葵のちょっとエッチな漫画を楽しみにしている。絵麻の母親は教育熱心で、文豪の純文学ばかりを読まされていた。葵の描くものだけが唯一の楽しみなのだ。そんな読者がいると葵は頑張れてしまう。

「ちょっと力入っちゃってさ、すぐには終わらないかも」

絵麻の表情が途端に曇る。

「嘘でしょー。今日一日、葵の漫画を読むのを楽しみに生きてたんだよ。明日とか言われたらマジ死ぬ」

突然、教室が暗くなった。窓の外を見る。黒い雲が空に垂れ込めていた。

「うわ、もう来るんじゃない、ゲリラ豪雨」

黒い雲は落ちてきそうなほど低い。晴れていれば、教室からは富士山も見える。浅羽神社の千年杉のてっぺんまで、雲で隠れていた。

空が光った。ドドーンと雷鳴が轟き、教室の窓が揺れる。絵麻が両耳を塞ぎ、葵の背中に隠れた。彼女は大人っぽいのに、怖がりだ。

「大丈夫だって、すぐ上がるよ」

葵は教室の電気をつけて、漫画の続きを描いた。雨が窓をカタカタと叩く音がする。

「これ、三十分で止むかな。校門閉まっちゃうよ」

教室の時計は午後四時半を指している。五時までに学校を出るのがルールだ。絵麻がスマホを出し、お天気アプリで雨雲レーダーを見た。雨雲の位置や雨量が五分刻みでわかるらしい。

「マジでー。六時までこの界隈、真っ赤っ赤だよ」

浅羽野地区の地図が、赤色で埋め尽くされている。赤は降水量が一時間あたり六十ミリ以上であることを示すらしい。

「私、親に迎えに来てもらうわ。葵もそうしなって、スマホ貸すから」

絵麻が母親に電話をかけた。彼女も鶴舞に住んでいる。スマホを借りて、葵も母親の番号を押した。

「ママ? いまどこ」

「ちょっと出先なの。どうしたの」

「ゲリラ豪雨だよ。ひどいんだけど」

「だから朝、傘を持っていったでしょ。まだ学校なの?」

「そう。傘じゃ無理くらいの雨で、迎えに来てよ」

「いま池袋なの。こっちはカラカラに晴れているけど」

都心の池袋からだと、鶴舞まで電車で一時間近くかかる。そのころには雨はもう上がっているだろう。母親が心配そうに尋ねてくる。

「今日はクラブが四時まででしょ。なんでまだ学校にいるの」

絵麻のために漫画を描いていたと弁解したいけど、「じゃあいいや」と言って電話を切った。

「葵のママも来るって?」

「いま池袋みたい。私は小降りになってきたら歩いて帰るよ」

「ひどくなる一方だよ。一緒にうちの車、乗っていきなよ」

絵麻に強く言われ、帰宅準備をして教室を出た。

◇  ◇  ◇

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雨に消えた向日葵

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