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47都道府県の歴史と地理がわかる事典 #3

都道府県は、存在そのものが日本人の心のよりどころだ。各都道府県の歴史・地理をコンパクトながら深掘り解説した『47都道府県の歴史と地理がわかる事典』は全都道府県に足を運んで集めた「鉄板ネタ」「地雷ネタ」まで盛り込んだ、読んで楽しく役に立つ画期的な事典。

※本記事掲載の情報は、書籍刊行当時のものです。

◇  ◇  ◇

2 青森県 東北地方

[人口]126万人(→) [面積]9646

[人口密度]131人/km2

[県庁所在地]青森市(人口29万人)

[主要都市(人口順)]青森、八戸はちのへ弘前ひろまえ十和田とわだ、むつなど

[県花]リンゴ [県木]ヒバ〔アスナロ〕 [県鳥]ハクチョウ

[県章]県の地形をデザイン

1 地理

(1)地形

本州最北端の県。その位置からか、北海道や沖縄に匹敵するほど地図上の知名度は抜群で、誰もが間違えずに場所を言い当てることができる珍しい県。北は津軽つがる海峡を挟み北海道と向き合う。東と西は太平洋と日本海に面し、東の下北しもきた半島と西の津軽半島が陸奥むつ湾を囲む。

下北半島のある太平洋側(=八戸市など南部地方)には三本木原さんぼんぎはら台地が広がり、比較的単調な海岸が続く。津軽半島のある日本海側(=青森市・弘前市など津軽地方)には県内最高峰(1625m)の岩木山〔津軽富士〕があり、岩木川の周囲に津軽平野が広がる。

また、秋田県との境にまたがる白神しらかみ山地にはブナの原生林が広がり、ユネスコの世界自然遺産に登録されている。ここにはクマゲラやツキノワグマなど、貴重な鳥や動物も多い。

(2)気候→「太平洋側の気候」「日本海側の気候」

中央に連なる奥羽おうう山脈、特に火山の八甲田山はっこうださんとその南にあるカルデラ湖(=火山の作用でできたくぼみにある湖)の十和田湖とわだこを境に東西で気候が違うが、全体的に寒さは厳しい。

東の南部地方は、夏にやませと呼ばれる冷たい風が太平洋から吹き、気温が下がり冷害をもたらす。西の津軽地方は、日本海を越えてくる北西の季節風の影響で冬に雪が多い。青森市は、県庁所在地の中では年間降雪量が全国1位。

(3)特産

[農業]第一次産業従事者の割合が日本一。津軽平野を中心に栽培されるリンゴの生産量が圧倒的な全国1位で、「ふじ」「つがる」「陸奥」など品種も多い。また、青森市のカシスや、三本木原台地のニンニク(田子たつこ町まち)、三沢市のゴボウも全国1位。米の生産量は多くないが、ブランド米「青天の霹靂へきれき」が近年有名に。[林業]「青森ヒバ」は、秋田スギ、木曽ヒノキと並ぶ「天然の三大美林」。[水産業]八戸港は全国有数の水揚げ量を誇り、イカ類、シラウオ、サバ缶詰が全国1位。下北半島北端の大間町おおままちの一本釣り「大間のマグロ」漁や、陸奥湾のホタテ貝養殖、十和田湖のヒメマス養殖も有名。その他、小川原湖おがわらこなどで獲れるワカサギが全国1位。[工業]食品加工業が盛ん。また、下北半島の六ケ所村にある原子力発電関連施設や、津軽半島北端の龍飛崎たつぴざきにある風力発電所など、エネルギー関連産業が有名。[観光業]弘前城の弘前、三内丸山遺跡の青森、奥入瀬渓谷おいらせけいこくなどが有名観光地。外国人宿泊者数の伸び率が全国1位で、インバウンド収入が好調。[伝統産業]津軽塗(漆器しっき)、津軽三味線じゃみせん、こぎん刺し(刺繡ししゅう)の他、郷土玩具きょうどがんぐ八幡馬やわたうまなど。[ご当地グルメ]じゃっぱ汁(タラのアラ鍋)、けの汁(野菜を細かく刻む)、津軽ラーメン〔煮干しラーメン〕、イカメンチ、八戸せんべい汁(南部煎餅せんべい入り)、いちご煮(ウニとアワビの吸物)、黒石つゆやきそば、十和田バラ焼き、青森シャモロック地鶏など。[お土産]りんごジュース、気になるリンゴ(リンゴ丸ごと1個のアップルパイ)、ソフトりんご、スタミナ源たれ(万能調味料)、にんにく漬づけなど。

2 歴史→旧国名は陸奥

(1)県の成立まで

巨大集落の三内丸山遺跡や、多彩な土器で有名な亀ヶ岡遺跡に代表されるように、縄文時代にかなり栄えていた地域。続く弥生時代の砂沢・垂柳遺跡すなざわ・たれやなぎには水田跡が見られ、稲作も行われていたことがわかるが、その後、急速に衰退し、北海道と同様の採集経済段階にとどまった。

古墳時代に前方後円墳はみられず、異民族「蝦夷えみし」扱いで、ヤマト政権の支配下になかった。大化の改新後、斉明さいめい天皇が派遣した阿倍比羅夫あべのひらふの侵攻を受け、小規模な円墳は造られている。

平安前期までの蝦夷征討により、徐々に朝廷に服属したが、裏切りや抵抗が続く。清和源氏による前九年合戦(1051年~)では、地元の安倍頼時ではなく源氏方についたが、その後、後三年合戦(1083年~)を経て、岩手県の平泉ひらいずみを本拠地とする奥州おうしゅう藤原氏が東北を統一した。

鎌倉時代には執権北条氏の領地となり、目代もくだいであった安東〔安藤〕氏が勢力を拡大した。安東氏は日本海側の十三湖沿岸に十三湊とさみなとという港を開き、海路で蝦夷ヶ島えぞがしま(今の北海道)と越前・若狭国えちぜん わかさのくに(今の福井県)を結び、京都までつながる「日本海交易」の中心を担い、大きな利益をあげた。しかし、鎌倉幕府滅亡後、南北朝の争乱で北朝方についた安東氏に対し、南朝方についた太平洋側の南部氏が優位となり、室町時代に安東氏の勢力は蝦夷ヶ島に追われた。

戦国期には、太平洋側の南部氏と日本海側の津軽氏(=南部氏の一族が独立)が並立した。天下人豊臣秀吉の奥州仕置しおきを経て、関ヶ原の戦い(1600年)で双方が徳川家康の東軍についたことから、江戸時代に南部氏が岩手県域を含む南部藩〔盛岡藩〕、津軽氏が弘前藩とされた。

太平洋側の南部藩は、夏に吹く「やませ」による冷害のたびに飢饉ききんが発生したが、日本海側の弘前藩は影響がなかった。そもそも友好的でない両藩は、このような状況から精神的な対立を続けた。幕府滅亡直後の戊辰戦争(1868~69年)では、ともに旧幕府軍の奥羽越おううえつ列藩同盟に参加したが、途中で弘前藩が新政府軍〔官軍〕に寝返り、対立は表面化した。

1871年の廃藩置県で双方が合併され、当然のごとく弘前県が置かれ、県庁所在地は弘前となった。しかし、中央から官僚が赴任するにあたり、当時は小さな港にすぎなかった青森に県庁が移転、県名も青森に変更された。旧南部藩との対立の経緯を考えれば、弘前を県庁所在地にすると偏りすぎであること、さらに港湾としての青森の将来性を考えてのこととされる。

(2)県名の由来

海沿いの小高い丘に浜松が常に青々と茂る森があり、古来、そこを漁師たちが「青森」と呼んでいたことにちなむ。しかし、その場所は現存しない。

(3)その後

太平洋側の南部地方と日本海側の津軽地方が、過去の因縁をかえりみることなく新政府の意図で合併されたことから、精神的なライバル意識は強く残った。

1902年「八甲田雪中せっちゅう行軍遭難事件」という陸軍歩兵の訓練時に悲劇が起きたことは、現在でも語り継がれる。1908年には、青森~函館間に青函連絡船が就航開始となった。

終戦の1945年には、米軍機による青森空襲があり、八戸や三沢も空襲を受けた。その後、米軍三沢基地が置かれているが、県民の思いは複雑。

戦後の復興後、1954年から集団就職列車が運行され、中学を卒業したばかりの男女「金の卵」が、夜行列車で東京の上野駅に向かった。また、冬の農閑期には出稼ぎ労働者も上京し、高度経済成長を支えた。

1988年、着工から24年を経て、鉄道専用の海底トンネルである青函トンネルが開業。これにより青函連絡船は廃止された。現在、青森駅に隣接する港に「八甲田丸」が係留けいりゅう・展示されている。

1991年、台風によりリンゴが大量に落下。それでも落ちなかったリンゴは、受験生向けに「落ちないりんご」として販売され話題を集めたが、これが現在の受験生向け食品ビジネス(キットカット→「きっと勝つ」、ハッピーターンなど)の先駆となった。

2002年、岩手県の盛岡までだった東北新幹線が八戸に延伸。翌年にはアジア冬季競技大会が開かれたが、いまいち印象は薄く、正直忘れている国民も多い。2010年には、さらに新青森まで延伸し、南部地方の優位性は失われたが、北海道と鉄路で接続されたのは、全県的にめでたいこと。

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