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ビールは日本人の「命の水」?…『テルマエ・ロマエ』作者が綴る〈新ニッポン論〉 #3 望遠ニッポン見聞録

巨乳とアイドルをこよなく愛し、世界一お尻を清潔に保ち、とにかく争いが嫌いで我慢強い、幸せな民が暮らす小さな島国、ニッポン。『望遠ニッポン見聞録』は、長年、海外で暮らしている漫画家、ヤマザキマリさんが、近くて遠い故郷をあふれんばかりの愛と驚くべき冷静さでツッコミまくる、目からウロコの「新ニッポン論」です。本書の中から、一部を抜粋してご紹介しましょう。

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アイデンティティなんていらない! 日本の国酒、ビール

ビールという飲み物に関しては日本のものが一番美味しいのではないかと私は思う。日本のビールの味は蒸気機関車を新幹線に進化させたり、洋式トイレをウォシュレットに進化させたりといったような、海外で発生した文化をそっくりそのまま自分達の中に取り込むだけでなく、さらに改良を重ねて磨きを掛けるという、日本人ワザの一つとも言えるだろう。

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特に日本は有数のビール消費国でもある。これだけの需要があるわけだから製造会社の競争も激しくなるだろうし、飲んでもらって美味しいと思ってもらえなければその先はない。だから開発チームはその味をとことん極めようと一生懸命になるのだろう。

私も日本にいた頃はビールを本当によく飲んだ。友達と食事に行く時も、仕事の後も、お風呂の後も、それまで自分の中に凝り固まっていたストレスや疲れといった老廃物がビールという魔法の飲み物を流し込むことによって一気に弾き飛ばされるあの感じは、他のどんな飲み物にも代え難い。

夏の間のビアガーデンなんていうのは恐らくあの時期の日本で最も人間の幸せオーラ放出量が多かった場所ではないかと思う。見る人見る人皆、緊張感の糸がぶっちぎれた表情で、生きる喜びをビールという酒によって誘われているかのようなあの様子はちょっと他では見かけない光景だ。

日本人のビール好きは世界の、例えばドイツやデンマークやアイルランドなどといった国の人々のビールを嗜好する要素とはちょっと違うようにも思える。テレビのCMにしても日本のものほどエネルギッシュで爽快感が弾けるものは他の国ではなかなか見かけない。

うちの夫も日本のビールのCMを「ビールはまるで日本人の命の水だな!!」と言って絶賛しているが、それくらい日本ではビールというのは解放感と明日への活力を注いでくれる大切な酒なのだ。

そんなわけで日本では常にビール祭りの私だが、実は海外に暮らしている間は全くと言って良いほどビールは飲まない。日本製のビールを美味しいと思ってしまうとなかなか他のものに馴染めなくなるというのもあるのだが、何よりもまず海外では日本のようなビールの爽快感を味わえないからだ。

日本ではどんな食事の場でも取りあえず注文されるビールだが、イタリア人達はご飯の前に自分の国のもの以外の酒を飲むなんて考えられないらしい。基本的に食事の時のアルコールは食前食後を除いてワインで一貫していて、それ以外の飲み物では美味しく食事を頂けないと思い込んでいる。

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©ヤマザキマリ/幻冬舎

例えばイタリアのレストランで日本人のツアー客が食事の始まる前にビールを注文すると、その様子を周りのイタリア人は納得のいかない顔で見ていたりする。世界でも屈指の美味さを誇るイタリア料理を食べる前にビールでハラを膨らますとはどういうことだと彼らは思っているのだ。

そんな周囲の反ビールプレッシャーを感じているうちに、自然と私もビールを欲さなくなってしまった。

ついでに言えばヨーロッパの人々はワインの味に対してですらやたらと保守的で、自分の国で栽培された葡萄のワインだけしか基本的には信用できないらしく、イタリア人がフランスワインを飲んだりポルトガル人がイタリアワインを飲むということは日常的には滅多にない。

そんな彼らの過剰に保守的な飲み物に対する嗜好を見ていると私は何気にヨーロッパという国が未だに見えない国境線で隔てられているという生々しさを感じてしまう。

しかしそんなイタリアにだって自国原産の飲み物ではないビールの製造会社は存在するし、さすがに夏の暑い時にはビールを飲む。そして通年でもピッツァを食べる時にはワインではなくビールを飲む。大雑把な食事には単純な爽快感を醸してくれるビールが合うという解釈なのだろうか。どっちにしろ、ワインという飲み物が幅を利かせている国では、ライトな感覚で飲めるビールの支持率はあまり高くないというのが事実だろう。

日本はその点雑食の国だから、ヨーロッパの人達のようなアルコールに対する保守性は全く感じられない。

イタリアの夫の実家の冷蔵庫には私が2002年にプレゼントした「さつま芋焼酎」がそのまま突っ込まれたままになっている。ヨーロッパの多くの家では得体の知れない他国の酒はそのように非情な扱いを受ける可能性がある。

一方で以前私は日本の飲み屋で大変珍しいアマゾン原産の酒というのを出してもらったことがあり、そのアルコールに対する間口の広さにしみじみ感心したものだった。

酒だろうと食事だろうと、どこの国のものでも美味しければ受け入れようと思う日本人の寛容さは大きな美徳だと思う。そして、そんな中でビールが日本においてのアルコールのトップとして君臨するのは興味深い。

欧州の、例えばイタリアやフランスでは食卓に立派なワインが出ると、その場にいる人々はそのワインのアイデンティティを追求しなければならない義務を何気に強いられる。

しかし日本でのビールはアイデンティティも自己主張もない。飲んでくれる人に爽やかな快感を味わってもらおうというサーヴィス精神旺盛なあのフレンドリーな美味さは、本当に素敵だし、日本人の幸せにはなくてはならない飲み物ではないかと思う。

日本のこじゃれたイタリアンレストランでリーデルのグラスに注がれた高級ワインをゆらゆら揺すっている日本人は何気に胡散臭いと思ってしまうが、ビアガーデンで満面の笑みでビールを呷る日本人は眺めているだけでも幸せになる。

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『望遠ニッポン見聞録』ヤマザキマリ

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