見出し画像

モネのあしあと #5

絵筆のタッチの違い

しかもこの一瞬の時間を描くために、モネは素早いタッチで絵筆を動かしています。当時の評論家から見たら、これは書きなぐりにしか見えなかったのではないでしょうか。

アカデミーの画家たちのあいだでは、絵筆の筆跡を残さないことが暗黙のルールでした。画家が制作に介在した痕跡を残すのはNGで、マチエールをツルツルに仕上げることに尽力しました。

しかし筆跡を残すブラッシュワークは、日本美術で一般的に行われている技法です。例えば円山応挙(一七三三~九五)は、ブラッシュワークを多用し、いかにも一筆で描きました、というその巧みさを見せています。筆運びに個性が出る、その極端な例が、セザンヌだったり、ゴッホだったりするわけで、モネも影響を受けています。

モネはこの絵で、「瞬間」を表現したかったのではないでしょうか。風景は一瞬一瞬で変わっていく、その「瞬間」を伝えるために、素早く絵筆を動かしているのです。

一九世紀のアーティストと比べてみると、その違いがよくわかります。

同じ海と船を描いても、これだけ違います。ジェリコー(一七九一~一八二四)の《メデューズ号の筏(いかだ)》は、難破船から脱出した人々が救援を求めて漂流している、実際の事件をもとに描かれた作品です。画面に絵の要素がきっちりと収められ、水平・垂直と中心が取られ、助けを求める人々の頂点にいる男を軸に、らせん状の見事な構図を描いています。実際にこのような光景はありえませんので、画家がアトリエでモデルを目の前にしながら緻密に練り上げた構図であることが理解できます。

ところがモネの方を見ますと、カンヴァスとイーゼルと絵の具をもって外に出て、刻一刻と変わる風景を見ながら描いています。描くスタイル、描く目的、そして表現方法がまったく違います。ジェリコーとモネの活躍した時期は、五〇~六〇年の隔たりしかありませんが、この半世紀のあいだに絵をめぐる状況がまったく変わってしまったことが、二つの絵を比べるとわかると思います。

「表現しない」職人だった画家たち

モネの作品には、人を取り込んで包み込んでしまうような、圧倒的な没入感があります。モネが眺めている風景の中に私たちも立っている気持ちにさせられる、非常に稀有なアーティストです。なぜこんなふうに、スーッと風景の中に入っていけるのか、その理由を考えていきたいと思います。

人が風景画に没入できない理由として、現実との乖離が挙げられるでしょう。一七世紀のフランスに、クロード・ロラン(一六〇〇~八二)という画家がいました。よく歴史的な風景画を描いた画家で、当時もてはやされて、王侯貴族から多くの注文を得ていました。

例えば、《夕日の港》をご覧ください。丘の上から港を見晴らす風景、そこに夕日が落ちていき、遠くに船が浮かんでいる。大画面、均衡のとれた構図、なめらかなマチエール。極めて写実的でうまい絵ですが、現代の私たちが見ても、まったく入り込めません。なぜかといえば、風景画の役割が時代によって変化しているからです。時代時代で絵画に求めるものが変わっており、クロード・ロランが提供しようとしているものを、共有できない地平に私たちは立っているのです。

一七世紀の王侯貴族は、なかなか旅行にも行けず、画家が代わって旅をしてスケッチを重ね、それをもとに理想的な風景を描き上げました。画家はあくまで職業であり、肖像画同様、風景画もクライアントに気に入られるよう、望まれたままに描かなければなりませんでした。そのときに画家は、自分の感じたよろこび、怒り、悲しみを表現することはタブーでした。クロード・ロランの風景画には、この「表現」がないから、私たちは同調しにくいのです。

絵画をよりリアルに見せる新しい画法を見出し、画期的・革命的なことを行った天才レオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二~一五一九)でさえ、あれだけの力がありながら、この「表現」には至りませんでした。

新しい時代の芸術

少しずつ、モネの作品の話を深めていきましょう。

初期の作品にも素晴らしいものがあるのですが、モネの個性を語るには、少々不十分な感じがします。確かな技術をもっているのですが、まだ完全に花開いていない感じがします。中にはしっかり描き込まれて、美しい絵もあります。《草上の昼食》を見てみましょう。その名の通り、マネの《草上の昼食》に強く影響を受け、同じ題材をモネがまったく違う視点から描いた絵です。大胆に誇張された筆法などはマネの影響だと思います。マネはこの絵に最初《水浴》という名前をつけていたのですが、モネの絵を見て《草上の昼食》に変えたといいます。

初期の頃からすでに、モネは戸外で描くことを、一生懸命行っています。そして新しい時代の芸術とはどういうものか、モネは模索を続け、創作を続けるうえで何を取り込んで消化していくべきかについて考えながら、いろいろなエッセンスを取り込んでいます。

マネの影響は一言でいえば「反骨精神」です。マネは西洋文化の多様な伝統を吸収しつつ、それまでの絵のあり方を根本から変え、新しい絵画を生み出しました。

また、モネは一〇代のときオンフルールに住み、ブーダンに師事して、風景画の手ほどきを受けていました。ブーダンには海景の作品が多く、海辺でたくさんの人が群れて、あまりディテールを描き込みません。パッと見ると、少々乱雑な印象に見えるような描き方をしており、モネがブーダンのエッセンスを受け取っていることが伝わってきます。

一方で、モネもそうですが、ターナーやロダン(一八四〇~一九一七)については、当時の印象派の人たちは、あまねく影響を受けています。

イギリスのターナーは、モネたちよりも二〇~三〇年早く活躍しており、新しいタイプの風景画を描いた画家として知られています。いままであったような理想的な風景画ではなく、身体に感じる大気の様子、水蒸気の湿り気、肌感覚までも、風景の中に描き込んだという意味で画期的だったといえるかもしれません。それでも、浮世絵みたいに雨を線で描くようなことはなく、ヨーロッパの絵画のルールからは逸脱していませんでした。

彫刻を解放したロダン

ロダンは、彫刻を台座から解放した人です。それまでの彫刻は、女神、あるいはナポレオンなど、一段高いところに置くことによって、崇拝の対象、あるいは記念碑的な存在として扱われていました。ところがロダンは、台座を外して、対象を等身大にしたのです。女神でも王様でもない、自分たちと同じ目線の高さにある、普通の人間をつくったという意味で画期的でした。

さらにロダンは、自分の手の跡をわざと残すようなつくり方をしています。先ほどモネの《印象─日の出》のところでも少しお話ししましたが、当時のアカデミーの画家たちの絵と同じで彫刻も、ツルツルにして、肌がなめらかであればあるほどいいものとされていました。女神は神ですから人の手でつくられたものではない。彫り跡はNGでした。

しかしロダンは彫り跡を残して彫りました。制作に彫刻家が関わっていることの証、つまり「表現」を残したのです。彫刻を台座から引きずり下ろすことは、人間性を復活させる意味で、同時代のアーティストから尊敬を集めました。ロダンの代表作である《バルザック像》(一八九一~九八)や《カレーの市民》(一八八四~八六)も一般の人であり、《考える人》(一八八一~八二)などは、考え込んでいる人の苦悩をそのまま彫り込んだ象徴的な作品です。

モネもロダンを心から敬愛しており、一八八九年には、モネの強い熱意により、ロダンとモネの二人展が実現しました。私の小説『ジヴェルニーの食卓』にも書きましたが、モネの大睡蓮画の楕円型の部屋は、最初オランジュリー美術館ではなく、「ロダン美術館の庭に設置したい!」とクレマンソーに申し入れていたそうです。よっぽどロダンが好きだったんですね。

「サイズ」「道具」「画題」の変化

そのほか、一九世紀後半に起こった絵画をめぐる変化について、簡単にお話ししておきましょう。

一つめが絵のサイズの変化です。新しいビジネスで財をなした新興ブルジョアジーは、都市生活を楽しむ家やアパートの壁に飾るアートを求めました。それまでの作品は、王侯貴族の館に飾るために、大型の作品が主流でした。しかしパリのアパートの一室に飾る絵となると、カンヴァスがぐっと小さくなります。印象派のアーティストたちは、小品を描くようになりました。

二つめが道具の変化です。チューブ絵の具が登場し、画家は既製品のカンヴァスを使用し、イーゼルと携帯用の画材箱を携えて、屋外に出て絵を描くようになります。

それまでの絵の具は、絵の具売りの商人が画家のアトリエを一軒一軒訪ねて、注射器のような真鍮のシリンダーに注入していたそうです。真鍮のシリンダーは重たくて、屋外にもち出すことは面倒で、かつての画家の制作スタイルといえば、暗いアトリエにひきこもり、石膏像やモデルと向き合い、黙々と筆を動かすというものでした。

ところが一九世紀半ばにチューブ入りの絵の具、いわば「モバイル絵の具」が開発されたことは、現代でいえば携帯電話の登場くらい画期的な出来事だったのです。画家たちはアトリエを飛び出し光あふれる戸外に題材を求めるようになります。

三つめが画題の変化です。都市整備と産業技術は、人々に新しいライフスタイルをもたらしました。アーティストたちは、日々の暮らしの中にある、新しい風景に眼を奪われました。駅や橋、鉄道、建造物、水辺や公園でくつろぐ人々、レジャーの様子、デパートや劇場、カフェの情景など、その画題は現実世界に大きく広がりました。ですから印象派の絵画は時代を映す鏡みたいなもので、当時の風俗を検証するのにもってこいです。男性も女性もお洒落で素敵な衣装を着ている様子が描かれています。

◇  ◇  ◇

モネのあしあと 原田マハ

画像1

紙書籍はこちらから

電子書籍はこちらから

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!