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中島桃果子のデビュー後第一作、待望の復刊! #2 ソメイヨシノ

美術教師の実環子は、セックスが好きだった。
割とすぐに、誰とでも、した。
それは自分が一番自由になれる瞬間だったから。
ある日バンジョー奏者の竜之介に会い、実環子は変わった。
互いのことをもっと知りたくなった。
けれど、知れば知るほど、遠ざかっていくものがあってーー。
カルト的人気を誇る中島桃果子のデビュー後第一作、待望の復刊!

*  *  *

今朝、彼は、まとめ上げた実環子の髪をていねいに指でほどいて、そのあと足をほどいて、からだをほどいた。カンバスを見ると、その蒼はさっきより少し潤んでいるように見えた。手元の緑はいっそう瑞々しく緑で、桃色黄金の夕暮れは、桃色橙に色めきはじめていた。自分の目すらあてにならないのに。同じ蒼でも、からだが緩めば潤んで見える。そして林檎は五個あった。そして、どれもが一般的な丸い林檎ではなかった。わたしの目にはそれは美しく艶やかに映る。けれど、その林檎が、売り物にならない形であることは、理解できる。多くの人が丸い林檎を好むから? それは一体誰が決めたの? こういうことを考えだすと、たとえ林檎ひとつとっても、正しいことと正しくないことの境目や、そもそも何が正しいのかすらわからなくなってくる。大多数の人が、そう思う、ことが主流となると苦しい、そういうことは昔からあった。実環子がそうだと思うことと、世の中との不具合。

だからというわけではないけれど、実環子はセックスが好きだった。セックスをしているときは、色んなものでがんじがらめにならずにすむから。割とすぐに誰とでもセックスをしたし、できるだけすぐにセックスをした。性的な行為の中では、いつも何かに属しているひとも完全な「個」になる。してもらうのが好きな人もいるし、するのが好きな人もいる。放つとき少し乱暴になる人もいるし、果てた後しばらく離してくれない人もいるし、逆にすぐに煙草を吸っては清潔に笑っている人もいる。隔離されたその空間のなかでは、世の中に敷かれているたくさんの線はなくなるような気がした。全部がごちゃまぜになって、二人の感覚という頼りないものに頼らざるを得ないところで恋は生まれる気がしていたし、実環子も一番自由になれた。そんなとき、お互いの見ている景色が一番近づくように思えた。まるで海に浮かんでいるときのように。

すべてのおうとつが平らになって、ただ生きていることだけを感じられる。

すべての人間に等しくやさしくて、きびしい。ある種の拓けた世界という意味で、海とセックスは似ていた。

「みわこー」
ようやくカンバスに最初の緑をおいたとき、後ろで声がした。岡田宇宙だった。宇宙はこの三月まで実環子が担任していた生徒で、宇宙に限らず、実環子の生徒は実環子のことを呼び捨てにする。実環子は、何い? と間のびした返事をした。そして、時計が五時半を回っていることに気づいた。

「まだ帰ってなかったの?」

「ムトーがみわこのこと探してたよ」

宇宙は、そう言うと、実環子の前までひょいときて可笑しそうに笑った。

「何考えてた?」

「林檎のこととセックスのこと」

実環子は答えた。夕暮れは桃色橙から、桃色薄紫にさしかかろうとしていた。

「ムトーの顔、腫れてたけど……?」

宇宙は実環子の真後ろに椅子を持ってきて腰かけながら実環子に訊ねた。同僚の武藤芽衣子は愛しあう行為の果てに、小さな傷をからだのあちこちに印している。

「わかんないけど、多分つきあってる人なんじゃない」

そこまで言って実環子は、ねえ、ちょっと近くない? そんなに近づくんなら、ドア閉めてよ、誰かに見られたら変に思われるじゃない、と宇宙をたしなめた。宇宙は素直に、そっか、と言って扉を閉めると、そうなんだ、ムトーも色々あんだなあ、でもみわこ、それちょっと冷たくない? と言いながら戻ってきた。

「だって本人たちにしかわからないことがあるのよ」

実環子は少しパレットに絵の具を足した。

「そういうもんかなあ」

宇宙が、いまいち納得できない表情を見せたので、

「そこにはアイデンティティとアイデンティティの一線があるの」

パレットの上の緑を溶き油で混ぜながら実環子は言った。

「なんだよそのアイデンティティって」

と、つぶやきながら宇宙は、あたりまえのように実環子の腰に手をまわして言う。

「みわこのおっぱい、また触りてえ」

「そういうの、もうしないの」

実環子は、宇宙の手をほどかずに答えた。

宇宙とは一年ほど前に、何度かこの美術室でセックスをした。美大を目指している宇宙の絵を見てあげていたのだけど、宇宙の絵が、実環子には、あまりに魅力的で、その感性を褒めてあげたいと思ったときに、言葉が見つからなくて、思わずキスをしてしまったのだ。宇宙はとても可愛かったし、彼女もいなかったし、実環子も竜之介と出会う前だったので、セックスをしてはいけない理由が思いつかなかった。あまりに可愛かったので、実環子は、宇宙の到る所すべてにキスをして、宇宙も、その行為の間ずっと、実環子の長い髪を摑んではなさなかった。そうしていると、自分たちの周りは渇いているけれど、そこにだけは常に水があるような気がしていた。重なっているときははぐれない気がしていた。恋とか愛とは違うとしても。

けれどそれはもう一年も前の話だ。宇宙にはちょこちょこ彼女めいた子ができていたし、さっきの言葉も、たいした重みを含まない、ちょっと甘えたい程度のものだと実環子は理解しているので、宇宙の手をすり抜ける必要を感じなかった。そのままに実環子は続けた。

「なんかあったの?」

宇宙は実環子からするっと離れると、鞄から、スケッチブックを出して下絵を見せた。

「これなんだけど」

「うん」

それは言葉通り、白と黒のスケッチだった。

「言いにくいんだけど」

宇宙はためらった。そして少し間をあけるとボソッと言った。

「怖いんだよね、色をつけるのが」

そしてはっきり言った。

「俺、美大なんかほんとうに受かる?」

実環子はすこし黙った。自分だって、こんなにも正しいことと、間違っていることがわからない。わかるのは宇宙の描きだす世界が素晴らしいということだけだ。

「あんたを落とすような美大なら」

宇宙のまっすぐな目と目があった。綺麗な目。小さな頃から波乗りをしている人に多い、色素の薄い、緑灰色の。
その目の中にはいつも海がある。

「行かなくていいんじゃない。宇宙の絵は光ってるよ、いつも」

それから強く言った。それは不思議と強く言えた。

「色を使わなきゃダメだよ。宇宙にしか見えない光なんだよ」

実環子は、宇宙に宇宙という名前をつけたご両親を素敵だと思った。人と違った風に色が見える、そんな子供の目に映る世界、または、人生という意味で「宇宙」と命名できるなんて。そんなことを考えながら宇宙を見ていると、宇宙は、そっかあと、伸びをしたあと、急にいつもの調子になって、実環子のパレットを覗いて笑った。

「お前こそ、色使えよ。一色しか使ってねえじゃん」

◇  ◇  ◇

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