#1 あなたとはもう別れたい
40歳の香澄は、ドラマの人気脚本家。夫への愛情を見失う私生活を送るなか、27歳のダンサーと出会う。夫にはない肉体美に魅せられて、一線を越える香澄。愛欲に溺れて女の喜びを初めて知るが、嫉妬に狂う夫の激しい抵抗にも遭い、仕事も金も失う……。新堂冬樹さんの『不倫純愛』は、エロス・ノワールの到達点ともいえる官能的作品。男性読者にも、女性読者にもオススメできる本書から、物語の冒頭をご紹介します。
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洗濯機のポケットに洗剤と柔軟剤を入れた香澄は蓋を閉めスイッチを入れた。主にタオル類に占領されたドラムが、重々しく回り始めた。潔癖症とまではいかないが、かなりのきれい好きの香澄は、一度使っただけでタオルを洗濯機に入れた。
外出後や掃除や料理の合間に頻繁に手を洗い、風呂上がりには髪の毛と身体を拭くバスタオルをわけているので、これだけで普通のタオルとバスタオルを合わせて十枚前後が洗濯機に溜まる。
洗濯だけでなく、掃除も徹底していた。
床に髪の毛と埃が落ちているのが生理的に受け付けられないので、ハンドクリーナーと粘着カーペットクリーナーは常に手の届く場所にあった。水道は使うたびにシンクや蛇口に付着する飛沫を入念に拭き取っていた。
脚本を書いているときとテレビを観ているとき以外は、一日中掃除か洗濯をしているような気がした。
もっとも、香澄は掃除も洗濯も好きなので苦にはならなかった。それに、独り暮らしになったいまは随分、楽になったものだ。
信一と暮らしている頃は、単純に洗濯物や汚れ物の食器の量も倍だった。
それでも、新婚当初はまったく苦にならずに、むしろ愉しかったほどだが、結婚記念日が五回目を迎えた頃から嫌気が差し始め、十回目を迎える頃には信一の使った食器を洗ったり下着に触れたりするのが地獄だった。
家事がいやになったわけではない。いやになったのは、炊事や洗濯ではなく信一のことだった。
別居する前の一年間は、寝室を別にしていたのはもちろん、同じ空気を吸っていると思っただけで苦痛を感じるほどになっていた。
洗濯機から離れた香澄は、朝食に使った食器を洗い終え、室内に掃除機をかけてからようやくソファに腰を下ろした。テレビのリモコンを手に取り、スイッチを入れた。
テーブルには全国紙の朝刊とスポーツ新聞が並べられていた。
香澄は、朝の十時から二時間ほど情報番組を梯子することを日課にしていた。
政治、事件、事故、芸能人のスキャンダル、流行しているファッション、ブームになっている飲食店……脚本家という職業柄、興味のあるなしにかかわらず、世の中の動きを把握しておく必要がある、というのが香澄の考えだった。
昼過ぎまでテレビの前にいて、昼食を摂り、午後から執筆を始める。
午後四時くらいに食材の買い出しに行き、夕食を済ませると夜はドラマを梯子する。
ドラマを視聴するのも仕事なので、好みでないストーリーでも嫌いな役者が出演していても一通りチェックする。
時間があるかぎり、全局のドラマを録画して観るようにしていた。
目的は、自分の作品のヒントにするのではなく、ストーリーが被らないようにするためだ。
あとは、視聴率が悪いドラマをチェックすることで非常に参考になった。
視聴率がいい作品はたいした参考にならない。
ほとんどが、そのとき旬の役者を使えているかどうかに影響されているからだ。その点、旬の役者が出演しているのに話題にならないドラマというのは、脚本が悪いからにほかならない。
つまり、香澄はそういった視聴率の悪いドラマを反面教師にしているのだった。
この仕事は、視聴率がすべてだ。視聴率が取れないと仕事の依頼もこなくなってしまう。
二十五歳のときに脚本家デビューしてから十五年間、仕事目線で観てきたので、ドラマや映画を愉しんだことはなかった。
テレビの中では、ブレイク中の塾講師が芸能人の離婚問題を舌鋒鋭く一刀両断していた。
最近、こういう文化人タレントがテレビに溢れていた。
女医、弁護士、作家……どのチャンネルに合わせても、彼、彼女らの顔をみない日はなく、本業は大丈夫なのかと心配になってしまう。
第一、夫婦生活のことを他人がとやかく言う権利はない。夫婦のことは、夫婦にしかわからない。
――離れて暮らしたいだと? 男でもできたのか?
不意に、信一の粘っこい声が鼓膜に蘇った。
――あなたのそういうところに、耐えられなくなったんです。
別居の話を切り出した夜。信一は、ねちねちと香澄を問い詰めてきた。
この日にかぎったことではなく、結婚してから十年間、ずっと信一に監視されている気分だった。
じっさい、勤務中の信一から、日に最低十回のメールが送られてきた。一時間以内に返信しなければ、信一から電話がかかってきた。
判で押したように六時までには帰宅して、ちびちびと焼酎を飲みながら香澄に一日の行動を訊くのが信一の日課だった。
――別居なんて、受け入れられるわけないだろう? 絶対に、絶対に、絶対に、僕は別居なんて認めないからね。
――認めなくても、出て行きます。無理矢理止めようとするのなら、警察に相談しますから。
――勝手にするがいいさ。僕は君の夫だ。警察に相談されたところで、なにも困ることはないんだからね。
――とにかく、別居します。
話し合いは難航し、信一に別居を納得させるのに一ヶ月かかった。
家賃十万円の1LDKのマンションでの独り暮らしは、単調な日々の繰り返しで刺激は皆無だった。だが、信一の顔をみなくてすむという幸せはなにものにも代え難かった。
アメリカで、十七歳の頃から十五年間に亘って女性を監禁していた犯人が逮捕されたという事件を、MCの芸人が眉間に皺を寄せながら報じていた。
香澄はスマートフォンを手に取り、必要なことを忘れないようにメモした。
十七年もの間、なぜ女性は逃げ出すことができなかったのか? 香澄の一番の興味は、そこに尽きた。
一般的には被害者に同情が集まりがちな事件も、脚本家としての視点は違った。
逃げ出そうと思えば逃げ出すチャンスはいくらでもあったのではないのか? 誰もが一度は心に過ぎりかけては罪悪感で打ち消してきた「疑念」をクローズアップして物語にするのが、脚本家としての性だった。
被害者に申し訳ないと思わないのか!? なんてひどい人間だ! 自分も同じ目にあってみろ! ――こう批判する者たちも、必ずしも人の幸せを願っているわけではない。
人の不幸は蜜の味、とはよく言ったもので、ドラマや小説は最初から最後まで主人公が幸せ続きの物語は視聴率も売れ行きも悪い。反対に、主人公に不幸と試練がこれでもかと襲いかかるような物語は視聴率も伸びるし販売部数も伸びる。脚本家として有名になるほど人間性はいやらしくなってゆくという因果な商売だ。
インタホンが鳴った。
時計に視線をやった香澄は、ため息をつきながら腰を上げ玄関に向かった。靴脱ぎ場のサンダルを履いた香澄は、ドアスコープを覗いた。
七三分けにした髪に色白で下膨れの顔――予想通りの人物が、レンズに顔を近づけていた。
香澄はふたたびため息をつき、開錠してドアを開けた。
素早く玄関に足を踏み入れた信一が、断りもせずに廊下に上がった。
「ここは私の家です。勝手に上がらないでください」
信一のあとを追いながら、香澄は咎めるように言った。
「いいじゃないか、夫婦なんだから」
悪びれたふうもなく言うと、信一は足早に廊下を歩き洗面所に向かった。
――土日は、君の借りた部屋に僕を上げること。この条件を呑むなら、別居してやってもいい。
怒りを押し殺した信一の声が蘇った。
別居するの一点張りの香澄に、条件つきながら信一は渋々と従った。
週に二日も信一と顔を合わせなければならないのは苦痛だったが、落としどころが肝心だと判断したのだ。全面拒否して別居話がこじれるのは得策ではなかった。合鍵を渡しているわけではないので、いざとなれば居留守を使えばいいだけの話だ。別居生活が長くなれば、そのうち、信一も諦めるに違いなかった。
なにより、香澄自身、一分たりとも彼と同じ空気を吸いたくなかった。
「男を連れ込んだりしてないだろうな」
信一が、洗面台の戸棚を開き歯ブラシをチェックし始めた。
「やめてください」
「疚しいことがないならいいじゃないか? それとも、言えないようなことをやってるのか? ん? ん?」
信一が、汗ばんだ顔を近づけてきた。
「疚しいことなんてありません」
「本当か? ん? 嘘をついたって、すぐにわかるんだぞ? ん?」
信一が、香澄の腰に手を回した。嫌悪の鳥肌が、全身を覆い尽くした。
「触らないでくださいっ」
香澄は身を捩り逃れようとしたが、信一は腕に力を込めた。