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緊急事態、発生…美術修復士が謎を解くアート・ミステリ! #4 コンサバター

世界最古で最大の大英博物館。その膨大なコレクションを管理する修復士、ケント・スギモトのもとには、日々謎めいた美術品が持ち込まれる。すり替えられたパルテノン神殿の石板。なぜか動かない和時計。札束が詰めこまれたミイラの木棺……。一色さゆりさん『コンサバター 大英博物館の天才修復士』は、天才的な審美眼と修復技術を持つ主人公が、実在の美術品にまつわる謎を解くアート・ミステリ。物語の始まりを少しだけご紹介しましょう。

*  *  *

五つの路線をつなぐベイカー・ストリート駅は、つねに人で賑わう。映画や演劇のポップな大判ポスターが並ぶホームの壁には、イギリスでもっとも有名な架空の人物、パイプをくゆらす名探偵の横顔が、モザイクで大々的にデザインされている。

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東京の地下鉄よりも高速のエスカレーターに乗って地上に向かい、改札を抜けて駅前の喧騒に出る。青空の広がる、気持ちのいい朝だった。しかしロンドンに来て花粉症に悩まされるようになった晴香は、鼻がむずむずする。

春はまだ肌寒く、夏も暑くないこの街では、五月から九月という長期間にわたって、芝に代表される花粉に見舞われる。とくにこの辺りは緑豊かなリージェンツ・パークが近いせいか、目も痒くなった。

駅前を貫くベイカー・ストリートは、片側二車線ある大通りだ。

二階建ての赤いバスがひっきりなしに往来し、「ベイカー」という名前の通り、パン屋やカフェが軒を連ねる。曇り空に沈みがちなロンドンで、景観を少しでも明るくするためか、建物の色はカラフルで、窓辺にも花が飾られている。

事前にメールで住所を受け取ったフラットは、チューブの出口から徒歩五分ほどの好立地にあった。北東向きの、半地下を含めれば七階建てで、一階はカフェになっている。面積は狭そうだが、その分縦に長い。また目の前には交差点がある。

資産価値として数十億円はくだらないのでは。

そんなことを考えながら、晴香はカフェに隣接する一階玄関のインターホンを押した。

だが、しばらく待っても反応はない。

何度か強めにノックしていると、ドアがほんの少し開いた。

「なんだ、君か! ジャンキーかと思ったじゃないか」

顔を出したのは、レンズの大きい陽気なサングラスをかけたスギモトだった。日焼けとは無縁のロンドンで、しかも室内にいるのに、なぜサングラスをかけているのだと訝しがりつつ、晴香は頭を下げる。

「すみません、ベルが壊れてるのかと思って。あの、これつまらないものなんですが、よかったら召し上がってください。それから先日、受付の女の子なんかって言ったこと、改めて謝ります。私が間違っていました――」

と言いながら、晴香は顔を上げてぎょっとする。

「ど、どうして裸なんですか!」

ドアの向こうにいたスギモトは、まさかの上半身裸だった。しかも土足で家をうろつくことの多いこの国で、なぜか裸足だ。

「あ? ほんとだ」

スギモトはたった今気がついたという表情で、晴香の手土産を「わざわざ悪いな」と受け取ったあと、「とりあえず、そこで靴を脱げ」と言って、入口正面につづく階段を駆け上がっていく。指定された日時ぴったりに訪ねてきたのに、私が来ることを忘れていたのだろうか。裸のおねぇちゃんがいたらどうしよう。

晴香がひるんでいると、上階から「早く来い」という声が飛んでくる。

階段を上がり、おそるおそる二階のドアを開ける。どうやらワンフロアに一部屋ずつの間取りらしい。その部屋には数々の骨董品だけでなく、いくつかの機材が並んでいた。正面には広めの窓があり、車の行き交う大通り越しに、首を伸ばせばリージェンツ・パークの緑も見えそうだ。

「今、取り込んでるんだ」

スギモトが向かっている作業机のうえには、象牙製のバスケットが置かれていた。よく見ると四段に分かれ、表面にはシノワズリ風の彫りが信じられないほど細かく施されている。こちらに構わず作業にとりかかるスギモトの手元を、晴香は身を乗り出して覗く。

「ずいぶんと仕舞い込まれていたんですね」

晴香が言うと、スギモトはサングラスを少し下げて、はじめてちゃんと晴香の方を見たあと、にやりと口角を上げた。

「そうなんだよ」

象牙には、象以外にマンモス、セイウチ、水牛などさまざまな種類があるが、暗闇のなかに置いておくと黒くなり、逆に、光に晒すと白くなるという特殊な性質がある。こんなに黒ずみが目立つということは、暗いところにあった証拠だ。しかし象牙は湿気に弱く、膨脹するので水では洗えない。繊細な装飾が施されたものは、とくに厄介だ。いったいどうやって修復するのだろう、と晴香が考えを巡らせていると、見透かすようにスギモトは言う。

「この装置は、この象牙専用に準備したんだ」

スギモトが手に取ったのは、コードのついたマシンガンのような形態の装置で、先端を象牙のバスケットに向けている。なるほど、今から象牙をレーザー照射して、黒ずみを焼いていくのだな。

と気がついた瞬間、どんっという音と同時に強く発光し、晴香は慌てて視線を象牙から逸らす。「使え」とスギモトが顎をしゃくった先にあった、ハート形のサングラスを「ありがとうございます」と言ってかけた。

「それ、スギモトさんの手作りですか」

「そうだよ。あるガールフレンドから、脱毛に使うレーザー器具を一台寄付してもらって、文化財用に簡単にアレンジしてみたんだ。これを使えば、かなり細かい黒ずみも白く復元できる。ほら、見てみろ」

そう言って、サングラスを外したスギモトの瞳はまっすぐで、きらきらと輝いていた。さっき玄関先に出てきた気だるそうな様子とは打って変わり、大好きなプラモデルを与えられた無邪気な少年のようである。

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「お話は大変興味深いんですけど……とりあえず、なにか着ませんか」

「ああ、そうだった。集中するとつい脱いじゃうんだよな」

スギモトは床に散らばった服やくつ下を、いそいそと身に着ける。くしゃくしゃになったシャツを見て、アイロンをかけなくていいのかなと晴香は思う。といっても、晴香自身も他人のことをとやかく言える服装ではないのだが。

ふと部屋の奥に目をやると、高さ三十センチほどの円筒状の壺が、李朝棚に置かれていた。側面に縦線が均等に入った、「桶側」と呼ばれる立派な古染付だが、表面に大きくヒビが入って見た目を大きく損ねている。

「あれ、水指ですね」

スギモトはシャツのボタンを留めながら肯く。

「昨日届いたばかりなんだ」

晴香は棚に歩み寄り、並んだ骨董品を眺めながら、どんな風に修復するのだろうと想像する。とくにやきものは、ヒビや欠けをあえて楽しむ人も多く、クライアントの好みや考え方によって、同じ作品でもまったく違う修復を加えることになるからだ。

するとスギモトは思い出したように言う。

「このフラットに暮らすに当たって、君にルールを与えよう。その一、ここにあるものをじろじろと見ない、むやみに手を触れるなんて言語道断。その二、俺のプライベートには一切立ち入らない。誰がいつこのフラットに来ても、なにも聞いてはいけないし質問もなし。その三、このフラットにいてもいいのは、俺がいるあいだだけ。俺の不在中は立入禁止だ」

「ちょっと待ってください、私は作品を盗んだりなんかしませんよ? 少しは信頼していただいてもいいんじゃないですか」

「試用期間が終わったら検討してやってもいいが、仮住まいの君にここの鍵を渡すわけにはいかない」

祖父母が同居する賑やかな家庭で育った晴香は、共同生活で苦労した経験がほとんどない。多少たいへんな目に遭っても、脳内で笑いに変換できる前向きな性格のおかげで、海外生活もストレス少なく送ってきた。

しかしスギモトは、先日の社食での話しぶりからしても、誰かに家にいてほしそうな気配を漂わせているくせに、自分の生活スタイルやこだわりを重視しているようだ。そんな彼と今後うまくやっていけるのか、晴香は急に不安になる。

「休日とか、スギモトさんが夜出かける場合は、どうしたらいいんですか」

「都会なんだから、時間を潰す場所には困らないだろ」

選択肢を与えられていないのだと悟り、晴香は了承した。

「君は五階を自由に使うといい」

個人的なラボとして機能している二階の上には、三階にダイニング・キッチンと共有のリビングがあった。これまでは週一で清掃を外注していたらしく、晴香が暮らしていたフラット以上に片付いている。四階にはスギモトの部屋があるというが、予想通り、立ち入り禁止だと念を押された。

「六階は?」

「倉庫として、俺の個人的なものを置いてるから――」

「承知しました。そこも立ち入り禁止ですね」

あとで彼の目を盗んで覗いてみよう、と考えながら晴香はしおらしく肯く。

そのとき、スギモトのスマホが鳴った。

「分かった、すぐに向かうよ」

ロンドン訛りの英語で答えると、スギモトは電話を切って深いため息を吐き、防水素材のコートをのろのろと羽織った。

「休日出勤らしい、最高だな」

「私もですか?」

「ああ、ウーバーを呼んでくれ」

そうか、彼がいないとき、私はこのフラットにいちゃいけないんだ、と晴香はスマホを手に取る。フラットを出ると、さきほどの青空は分厚い雲にすっぽりと覆われていた。窓辺の花にも緑豊かな公園にも、すべてに灰色のフィルターをかけてしまう、典型的なロンドンの天候である。

やがて到着した、中東系のドライバーが運転する車に二人は乗り込む。その直後、晴香のスマホにも、大英博物館から全職員に向けたメールが届いた。

【緊急事態 レベルA】

件名についたその文言に、晴香は目を疑う。

日本のあちこちで地震を想定した避難訓練が行なわれるように、さまざまな国籍の人で年中混雑する大英博物館では、テロリズムや盗難、破壊行為が起こったときに職員が適切に対応するための訓練が、年一度実施される。

前回の訓練で全職員に配布されたマニュアルには、各部署の動き方が示されていた。緊急度はレベルAからCまでに分類され、レベルAの場合、全職員にメールが自動的に送信され、各課の責任者には個別に連絡があると記されていた。

レベルAには、大英博物館の主要作品、もしくは政治的な怨恨を抱かれやすい作品の破壊が含まれる。今まさに届いたメールの文面を読むと、パルテノン・ギャラリーを諸事情で封鎖し、全館臨時休業にするという。

「パルテノン・マーブルになにか起こったんですか」

晴香はそのメールを見せ、動揺しながら訊ねる。

しかしスギモトは慌てる様子もなく、休日に呼び出されたことがただ不愉快なようで、関わりたくなさそうに言う。

「三十分ほど前に、見学していた来館者が、自撮り棒をぶつけて大理石彫刻を落下させたらしい」

「そんなに簡単に落ちるものですか」

「そりゃあ、重力がある限り落ちるだろ。万有引力の法則だ」

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コンサバター 大英博物館の天才修復士 一色さゆり

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