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#1 公安 vs 警察の熾烈な戦い…公安調査庁を舞台にしたノンストップ諜報小説

公安調査庁の分析官・芳野綾は、武装した大量の中国漁船が尖閣諸島へ向けて出港、上陸して実効支配するという報告を受ける。しかし関連省庁はその情報を否定。綾の必死の分析を嗤うかのように、巧みに仕掛けられた壮大な陰謀がカウントダウンを始める……。作家、麻生幾が放つ『秘録・公安調査庁 アンダーカバー』は、極秘組織・公安調査庁を舞台にしたノンストップ諜報小説。予測不能、一気読み必至の本書より、物語の冒頭をご紹介します。

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(著者註)

「公安調査庁」は実在する。

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法務省に属するこの組織の名称を耳にすることはあるが、その実態は、政府広報はもとより、メディア等で紹介されたことはこれまでほとんどない。なぜなら、公安調査庁に勤める「調査官」は、身分を完全に秘匿して協力者を獲得する「工作」を行うとともに、必要があれば対象とする組織に身分を偽装して潜入することもあり、そして何より組織全体がそれら極秘活動を支えているからである。そのため、職員の氏名はもちろん、任務の内容、工作の実態など組織のすべてが機密となっている。

警察の公安・外事部門も、「ZERO」という部門で同じく協力者工作を行っているが、警察は、事件容疑解明による逮捕・送検を目的とするのに対し、「公安調査庁」の任務は、逮捕権を持たずに国内外の情報を集める情報収集活動と工作のみに徹した極秘の活動を行うことで「国家情報コミュニティ」に寄与するとともに、政治決断者──究極的には内閣総理大臣の決断のための情報を提供することにある。つまり「公安調査庁」は、日本の情報機関の一つであり、政府最高インテリジェンス会議「内閣情報会議」のメンバーでもある。また「CIA(アメリカ中央情報局)」をはじめとする世界各国の治安・情報機関とも緊密な情報交換や共同工作を行っている。

法律的には、公安調査庁の活動は「破壊活動防止法」に基づいて団体の規制や解散を行うための情報収集を行うというのが建前である。オウム真理教に対する立入調査を行っているのがその一例だ。しかし、破壊活動防止法第27条に記載された「必要な調査をすることができる」との一文が、「調査官」に無限の可能性を与えている。

「公安調査庁」の組織としては、東京・霞ヶ関の本庁に、過激派などの国内情報分析担当の「調査第1部」、国際テロや海外情報分析担当の「調査第2部」がある。また全国八ヵ所に、情報収集とオペレーションの最前線である「公安調査局」が設置され、さらにその下に「公安調査事務所」と「駐在事務所」を置く。それら地方組織は警察のように自治体に属しておらず、すべて本庁の指揮命令下にある。

本作品の主人公は、本庁の「調査第2部」に属する「分析官」であり、「上席調査官」という肩書の経験を積んだ調査官である。

6月5日 日曜 午後6時16分 東京・外堀通り溜池交差点

信号が黄色に変わったのに合わせるようにアウディS5がゆっくりとスピードを落とした。その背後の一台の乗用車を挟んで、二名の男たちが乗るトヨタのセレナも同じように速度を緩めた。二名の男たちは、警視庁公安部に属する警察官であり、アウディS5の運転手を協力者として獲得するために、まずその第一段階として、対象者の日常をすべて把握するための任務遂行中であった。

セレナの助手席のベテラン警察官は、ハンドルを握る若手警察官に、「やっと獲物がかかる」と声をかけてほくそ笑んだ。これまで半年間に及ぶ視察活動は慎重にも慎重を重ね、深追いは決してせず、アウディS5の運転手が少しでも尾行点検をしようものなら、すぐに脱尾して追尾を止めて、そして数日の期間を置いてから再び追尾を開始する、その繰り返しを大量の警察官を投入して行ってきたが、成果を上げられずにいた。

しかし、今日この日、二人の公安部警察官は興奮していた。アウディS5の運転手の男はいつになくオシャレをし、そして何より花束を途中のショップで買い求めたからだ。それも二十本ものバラだけを! お祝いや感謝の気持ちを込めた花なら豪華さを狙うはずであって、二十本のバラを送る相手は、自然と女性を想像できたし、それもその女性との関係は男と女のそれを、助手席のベテラン警察官はイメージした。妻子がいるアウディS5の運転手にとって、深い関係にある女性がいれば、それは男の弱点となる。つまり、公安部警察官たちにとって、協力者にするための付けいる隙となるわけであり、初めての成果となる。ゆえにベテラン警察官は、大部隊の手配をすでに行っていた。

セレナに乗る二人の警察官たちの表情が一変したのは、アウディS5が黄色信号で止まった、その二秒後だった。外堀通りの溜池交差点の信号が黄色から赤に変わった、その瞬間、アウディS5の加速は突然だった。三百五十四馬力の高出力エンジンは、車体が消えた、と見紛うほどの猛スピードを発揮して交差点を突っ切った。セレナのハンドルを握る若い警察官はアクセルを踏めなかった。

助手席のベテラン警察官は激しく舌打ちをしたが、すぐに無線機を手に取り、遠方の空から続いている警視庁航空隊のヘリコプターと急いで連絡をとった。そして今度はそのヘリコプターからの指示によって、アウディS5を中心に置いて円陣隊形でゾーン追尾していた十数台の追尾車両とバイク部隊が、虎ノ門交差点から新橋方面にかけての外堀通りで前後左右から出現し、JR新橋駅のガード方向へ向かうアウディS5の前と後ろに巧みに入り込んだ。そしてヘリコプターまで投入した大規模な三次元追尾が開始されたのである。

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追尾チームのいずれのドライバーも鍛え抜かれたテクニックで追尾を継続したが、アウディS5がJR東京駅地下の駐車場に入ってからは苦戦した。次々と追尾車両は失尾。最後に残った一台のバイクも、横断歩道を渡る家族連れを前にして完全に失尾した。

二ブロック先の駐車スペースにアウディS5を駐車した“美しい白髪の男”は、駅ビルの入り口に急ぐ人たちに紛れ、東京駅の八重洲の地下レストラン街のフロアに出た。さらに階段を使って地上に出た“美しい白髪の男”は、タクシー乗り場には並ばず、八重洲ブックセンターまで歩いて、その前で流しのタクシーを捕まえて後部座席に腰を下ろすと、静かな声でドライバーに行き先を告げた。

八重洲ブックセンターを見通す舗道に立ってそのタクシーを見送った芳野綾は、後方に警察の追尾チームの車両が存在しないことを確認してから、後ろを振り向いて小さく頷いた。素早く滑り込んできたブラックメタリックのマークXは綾を収容して勢いよく発進した。ちょうどその時、反対車線で、警察の追尾チームの車両群がスピードを速めて過ぎ去ってゆくのを綾は黙って見つめた。それら車両が向かっていったのは“美しい白髪の男”を乗せたタクシーが向かった銀座方向ではなく、真逆の日本橋方向だった。綾は、助手席の車窓ごしに空を見上げた。オレンジのラインがボディにペイントされた警視庁航空隊のヘリコプターもまた日本橋方向へ向かっていることを知った綾は、その時初めてニヤッとした。

携帯電話を手にした綾は、“美しい白髪の男”を乗せたタクシーの運転手に電話をかけ、「こっちはオッケー。そっちは回り道して少し時間をかけて」と言った。綾の耳に聞こえたのは、「了解です」と応えた、運転手に偽した綾の部下の男の短い言葉だった。さらに綾は、もう一人の部下の携帯電話を呼び出した。相手が出ると落ち着いた声で綾は言った。

「完全に撒いて」

“美しい白髪の男”に替わってアウディS5を駆っていた別の部下の男もまた、「了解」とだけ応えた。

銀座1丁目の信号で右折する“美しい白髪の男”を乗せたタクシーより、綾を乗せたマークXは一つ手前の鍛冶橋交差点で右折した。

JRの高架をくぐり、目線の先に見える皇居の森を漠然と見つめながら、綾はかつて、公安調査庁と警察の公安部門が協力対象者の奪い合いでやりあった事例を頭の中で蘇らせた。関西エリアのある過激派組織の幹部を協力者にすることを巡って、どちらからも脅迫と恫喝が加えられ、政府内で密かに問題になったことがあった。しかし、綾には、そんな話は関係ないことだ、とあらためて思った

。三年前まで“現場”にいた綾が最優先したのは、まず協力者の安全であった。いわばライバル関係にある警察の公安組織には絶対にバレないように協力者を獲得、登録、運営してきた自信は揺るぎなかった。そして何より、自分と協力者との魂の融合を突き詰めることによって、協力者との関係を完全なものとし、警察に隙を見せないだけの人間関係を構築した、その確信は今でもある。その結果、マンパワーやヘリコプターなどの装備に優る警察よりも、一対一での深い関係によって重要情報を入手してきた、その数々が綾にとって強烈なプライドだった。

警察による協力者獲得工作は、警察庁の「ZERO」という極秘組織の統制により全国都道府県警察本部の公安並びに外事部門が行っているが、警察の協力者獲得工作の目的は、事件の被疑者を逮捕、送検することにある。

一方、公安調査庁の大きな任務は、「国家情報コミュニティ」(第一義的には全省庁の情報を内閣情報官が統括する)に情報を通報することだが、重要な場面では内閣総理大臣や内閣官房長官に直接的に情報を提供し、政策決断に資するための情報収集活動である。

ゆえに、今日のように、公安調査庁が運営する協力者を警察がそれと知らずに協力者にしようとしてぶつかるケースもあるのだが、綾はそれを許さなかった。今日、これから接触する協力者にしても、すでに何年も前から完全なる財産であり、尾行にしても警察が手を出す隙を絶対に与えなかった。なぜなら、公安調査庁では、組織を上げて協力者を守るからである。


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