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「こうすべき」に隠れた「こうしたい」を見つけ出す…仏教から学ぶ幸せのヒント #4 悟らなくたって、いいじゃないか

近年、瞑想やマインドフルネスがブームになったこともあり、仏教への注目度が高まっています。しかし、私たち「普通の人」は、欲望を捨て出家したり、修行して悟りを得たりしたいわけではない。そんな「普通の人」に、ブッダの教えはどう役立つのでしょうか?

その答えへと導いてくれるのが、タイで30年近く出家生活を送る日本人僧侶、プラユキ・ナラテボーさんと、気鋭の仏教研究者、魚川祐司さんの対話集『悟らなくたって、いいじゃないか――普通の人のための仏教・瞑想入門』です。一部を抜粋してご紹介しましょう。

*  *  *

現代の女性は「引き裂かれている」


魚川 それには全く同意です。「思いどおりに振る舞うことが自由ではない」というのは、私も常々申し上げてきたことなんですが、こういう考え方の根底には、「思い」が「自分のもの」であることを懐疑するという、やはり仏教的な前提がある。

それに関連して思い出したことなのですが、先だって浄土真宗本願寺派の僧侶で、「フリースタイルな僧侶たち」という若手僧侶グループの代表でもある若林唯人さんとお話ししました。

若林さんは「アラサー僧侶とゆるーく話す会」という会も主催されていて、そこでは「仏教というと堅苦しいイメージもあるので、一般の方々に肩の力を抜いてアラサー世代の僧侶と話していただき、『心のデトックス』をしてもらう」ことを試みていらっしゃるそうです。

実際に多くの一般の方々、とくに女性の参加者がよくいらして、色々と悩み相談などをしていかれるとか。
 
それで、若林さんに「男性僧侶として女性の悩みに応対するのは難しいところもあると思うけど、どういうことを言っているのですか」と伺ってみましたら、面白いことをおっしゃったんですね。
 
曰く、「現代の女性というのは、I have to(こうすべき)とI want to(こうしたい)のあいだで、言わば引き裂かれた状態になっている

『何歳までにこれをしなきゃ』『仕事はこうだ』『結婚はこうだ』と、意識の上では様々なI have toに雁字搦めになって、そこで頑張っているのだけど、心の底にはきちんとI want toも持っていて、それが満たされないことで苦しみも抱えている。

だから、私たちの仕事は女性の皆さんが言われることをまずは傾聴して、たくさんのI have toの底に隠れているI want toを見つけ出し、そっと背中を押してあげることです」。
 
プラユキ それはいい対応だね。
 
魚川 そうですね。ただ、このI want toというのは曲物で、「こうしたい」と言う時に、それが本当に「自分がしたい」ことなのかというのは、仏教的に考えると、なかなか判断の難しいところでしょう?
 
プラユキ それはたしかに。そもそも仏教は無我説だからね。

内的な欲求か、外的な強制か?


魚川 ええ。『仏教思想のゼロポイント』では、「カレーが食べたい」とか「あの異性とデートをしたい」とか、そんな例を出しましたけれども、何であれ私たちの心に浮かぶ「こうしたい」という欲望は、少し時間をとって内観してみればわかるように、「私がコントロールして浮かばせた」ものではなくて、「勝手に浮かんでくる」ものであるわけです。

そして、それが「勝手に浮かんでくる」からには、それなりの原因や条件(因縁)があるというのが仏教的な考え方ですね。

したがって、私たちが「自分のもの」だと考えて、そのままナイーヴに従ってしまいがちな思いや欲望というのも、それが浮かんでくる背景には、「自分のもの」ではない原因や条件が存在している。

例えば「あのバッグが欲しい」とか、「この人と付き合いたい」などと考えた時に、その背景には、テレビなどのメディアによる情報や、過去の家族関係からくるトラウマなどが、原因や条件として、作用していたりするわけです。

そうなると、「私がこうしたい」ということの実相は、本当に「内的な欲求」であるのか、あるいはむしろ一種の「外的な強制」に当たるのかは、区別がつけにくくなってくる。
 
プラユキ 何がI have toであって、何がI want toであるかということは、実は見極めにくいということだよね。そこで大切になるのが、やはり気づきの視点であると思います。
 
先ほどの仏教的な自由の理解に、「内的な思考パターン、感情や記憶、心のクセ等に支配されていないこと」と書きましたけれども、原因や条件に従って「勝手に浮かんでくる」欲望に対して、気づきの視点を持たないまま「これが私のしたいことだ!」とナイーヴに従ってしまったら、それはたしかに「外的な強制」にむしろ隷属していることになる。

つまり、「煩悩(我)に支配されている」状態になるわけですね。仏教用語では、こういうのを「放逸」と言います。
 
しかし、そこで気づきの力が育っていれば、そこで縁によって生じた煩悩の命ずるところに、そのまま従ってしまうことはない

「あのバッグを買わないと我慢できない」とか、「あの人と付き合えなければ死んでしまう」とか、そういう強烈な衝動の支配力にストップをかけて、「これは本当に私を幸福にしてくれるのか」と、冷静に判断して選択する心のスペースができるわけです。

仏教的な意味での自由というのは、基本的にこの「選択できる余地」をつくるものなんだと思いますね。

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悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門


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