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誰も「クイズ王」とは呼ばれたくない…生きるために『資本論』を読む

市場原理主義が世界を覆い、経済的格差が拡がりつづけている今、再注目を浴びているカール・マルクスの『資本論』。しかし名前は知っていても、実際に読破した人はおそらく少ないでしょう。劇作家、宮沢章夫さんの『『資本論』も読む』は、この歴史的大著と格闘する日々をつづった異色のエッセイ。その冒頭を特別にご紹介します。

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『資本論』における「労働」とは

マルクスがこんな表現を使う。

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「上着にとっては、それを着る人が仕立屋自身であろうと彼の顧客であろうと、どうでもかまわないのである」

前回書いた、料理屋の主人が「料理するそばから自分で料理を食べる悲劇」は、たしかに主人とその女将、あるいは食べられてしまった客の側からのものだが、料理にしてみたら、主人に食べられようが、客に食べられようがどうでもいいことだ

ことによると女将だって食べかねない。主人が料理を盛りつける、これ、あっちのお客さんにと女将に声を掛けると、やおら女将は食べるのである。

こうなるといよいよことは複雑だが、女将のことはとりあえずおいておこう。なぜなら、たとえ話で『資本論』を読もうとすると、どうも『よくわかる資本論』とか、『三十分で完璧に理解できる資本論』『寝ているうちにマスターするマルクス』みたいなことになって、なにを書いているのかよくわからないことになってくるからだ。

そうではない。これは『資本論』との格闘の物語である

さて、「第一章 商品」の、その第二節は「商品に表わされる労働の二重性」で、前節「商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)」でも触れた、「労働」についてより詳しく説明される。

そこで持ち出されたのが、「上着にとっては」以下の引用部分で、つまり、誰が着ようと上着は「使用価値」としてはたらくことを示しているが、気になるのは、「商品」に人格を与えたかのような表現だ。

なんにせよ、「喩え」に類する表現にちがいなく、するとマルクスもまた精一杯の範囲で『よくわかる資本論』『三十分で完璧に理解できる資本論』『寝ているうちにマスターするマルクス』『犬が教える資本論』といったものをやっていたのではないかと気になるところだ。

なぜ『資本論』を読むのか?

『資本論』をはじめ、「古典の入門書」の類は多く、それらを読めば『資本論』や古典書物のだいたいのところはわかった気にさせられるものの、では、その「わかった」はいったいなんだろう。「わかった」のなら『資本論』は読まなくていいのだろうか。

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ふつうそういったことは否定され、「『資本論』読んでもいないのにわかった気になるなよ」などと言いがちなものの、なにがどう否定されるか、はっきりしたことはあまり語られない。

入門書もまた、それそのものが否定される場合ばかりではないはずで、とてもよくできたガイドであることも多い。構造主義を解説した新書本を読みつつ、浅田彰の『構造と力』を何気なく開くと、びっくりするほどわかるので、いまいったいなにが起こっているのかと不思議な気分になったことがある。だとしたら、「どうわかるか」の問題だろうか。

「商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ認められるとすれば、価値量との関連では、もはやそれ以外には質をもたない人間労働に還元されていて、ただ量的にのみ認められるのである」

これを読んで、「わかる」も労働の一種だとすれば、「質的」と「量的」があり、それは「使用価値」と「価値量」との関わりだと考えられなくもないと思った。「価値量」としての「わかる」は「物知り博士」や「クイズ王」である。「使用価値」としての「わかる」は、「生きるため」のなにごとかであり、人は誰だって「クイズ王」と呼ばれたくはないはずだ。

だったら、なぜ『資本論』を読むのかあらためて確認しておく必要を感じる。それは、「マルクスその使用価値の中心」といったことになるのではないか。


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