嫌な予感が的中?…いま最注目の時代小説作家が放つ新シリーズ、開幕! #3 うつけ屋敷の旗本大家
大矢家当主・小太郎は、堅物の朴念仁。甲府から五年ぶりに江戸へ帰ると、博打で借金を作った父・官兵衛が、返済のために邸内で貸家を始めていた。しかも住人は、借家で賭場を開くゴロツキや、倒幕思想を持つ国学者などくせもの揃い。そんなとき、老中から条件つきで、小太郎の出世を約束してもらうのだが……。
「三河雑兵心得」シリーズで、『この時代小説がすごい! 2022年版』文庫書き下ろしランキング第1位に輝いた井原忠政さん。『うつけ屋敷の旗本大家』は、そんな井原さんが放つ新シリーズです! ファン待望の本作、特別にためし読みをお届けします。
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最前、下高井戸宿を過ぎたから、もう後四里(約十六キロ)ほどだ。
(この五年間、私は放っておかれたのだ。なぜ今頃になって、御老中は動いて下さったのだろうか? 父上が富籤に当たったか? それとも、なにか御老中の弱みでも嗅ぎつけたか……)
この五年間で二度ほど、父から手紙を貰った記憶がある。文面は、息子への謝罪の言葉で埋め尽くされていた。一応は「江戸帰参が叶うよう懸命に動いている」と書かれてはいたが、老中の「ろの字」さえ見当たらなかったのだ。
(父上はすべてに楽観的な御方だ。わずかな可能性でもあれば、もうすでに「事は成ったもの」とお考えになる性質だ)
もし老中の伝手が期待できるのなら、あの楽天家の父が、そのことを小太郎に自慢し、手紙に書き募らぬはずがない。
父のニヤけた顔が脳裏を過り、なぜか背筋の辺りがゾクッと凍えた。
(う~む、なんぞ嫌な予感がするな)
小太郎の父大矢官兵衛は、四十三年前、名誉の御書院番士大矢卯左衛門の長男として駿河台の拝領屋敷内で生まれた。四十を過ぎても、見た目は若い。根っからの遊び人で、酒と博打と女に目がない。ちなみに、酒は強いし、女にももてる。しかし、博打は弱い。格好をつけて大きく張るから、負けが込む。年がら年中、金欠だ。
剣は相当に使うが、道場というよりは実戦――つまり町場の喧嘩――で腕を磨いた。総じて「正真正銘のゴロツキ旗本」なのである。
五年半前、父は幕府から急なお呼び出しを受けた。当時は小普請に編入されていた官兵衛だが、慌てて熨斗目に裃を着け、痩せ馬に乗って登城していった。
その日、夜遅くに帰宅した父は、玄関式台にがっくりと座り込んでしまった。祖父の代から務める家宰の小栗門太夫が声をかけても返事すらしない。ややあって、ただ一言ポツリと――
「死んだ方がましだァ」
この時官兵衛は、日頃の不行跡を小普請支配と直属の小頭からきつく咎められ、改易か甲府勤番かの選択を迫られたらしい。
「甲府なんてよォ。猿と熊しかいねェ土地柄じゃねェか」
実は、この甲府勤番を腐す言葉を最初に使ったのは、その折の官兵衛だったのである。その後、小太郎が実際に赴任してみて、さすがに熊は滅多におらず、博打が盛んな土地柄であることが判明し、以降は「猿と博徒しかいない土地柄」と呼ぶようにしている。これがまた、甲府以外の土地ではよく受けた。
「冗談じゃねェよ。オイラ根っからの江戸っ子よォ。甲府みてェな田舎なんかで暮らせるかい」
「しかし、甲府行きをお断りになれば、改易もあり得るのでは?」
門太夫の顔が青褪めている。シパシパと瞬きを激しく繰り返した。この男が緊張したときの癖だ。三河以来の家名と五百石の家禄、十名いる奉公人の命運がかかっている。傍らで聞いていた当時十七歳の小太郎は決意した。ここは嫡男である自分が責めを負うしかあるまい。
「父上、家督を譲って下さい。甲府へは私が参ります」
つまり官兵衛は隠居させるということだ。素行不良の官兵衛が身を引き、若い嫡男が甲府へ飛ばされるとなれば、上役たちの面子も立ち、なんとか溜飲を下げてもらえるはずだ。
「おお小太郎、そうしてくれるかい!」
潮垂れていた父の顔が、俄かに精気を取り戻した。
「お前ェは孝行息子だなァ。いい奴だァ。恩にきるぜェ」
「殿、なりませぬ!」
門太夫が、シパシパと激しく瞬きを繰り返しながら、まるで抱き付くようにして主人に諫言した。
「若殿は文武両道品行方正、大矢家の希望ではありませぬか。御城の本丸御殿で如何なる出世も望み得る人材にござる。甲府勤番などに沈めば、二度と江戸へは戻れませぬぞ」
「うるせェ。黙ってろ。オイラが動くよ。色々と伝手もあるんだァ。一年、否、半年の内に小太郎を江戸に呼び戻してみせる。ま、ここはオイラに任せとけ」
官兵衛が「任せろ」と大見得を切って、上手くいった例がない。
「なに、住めば都って言うじゃねェか」
官兵衛は小太郎に向き直り、猫撫で声で囁いた。
「甲府も存外、いい所かも知れねェぜ、な?」
「猿と熊しかおらぬ土地柄ではないのですか?」
小太郎が真顔で返すと、驚いた鳩のような目で倅を見つめる官兵衛の鼻が、どうした具合か「キュー」と鳴った。奉公人を含めて、大矢家の玄関には重く冷たい沈黙が流れたものだ。
あの「キュー」から、もう五年半の歳月が流れている。
繁華な内藤新宿を経て、四谷の大木戸からは暁の馬首を北東へ、懐かしい駿河台の方角へと向けた。五年ぶりの江戸だ。町屋の賑わいもいいが、うねうねと緩やかな起伏を繰り返す番町の静寂もまたいい。北ノ丸を右に見て、九段の坂を飯田川(現在の日本橋川)まで下る。俎橋を東へ渡り、突き当たりを左に折れて北上すると、駿河台へ向けて道は徐々に上っていった。
「おい喜衛門、あの角を曲がれば、いよいよ懐かしの我が家だなァ」
「へ、へい」
中間が言葉を詰まらせ、掌で鼻を押さえた。他の奉公人たちも、鼻水をすすり上げている。小太郎自身、涙を堪えながら左の手綱を引き、築地塀の角を曲がった。
「え?」
一同、歩みを止め、その場に立ち尽くした。
「な、なんだありゃ?」
大矢邸だけが、周囲の景観から完全に浮いている。築地塀の内側に瀟洒な二階屋が所せましと立ち並んでいたのだ。まるで、そこだけが町屋の、それも繁華街の表店のような印象を受ける。
「ち、父上……な、なにをしでかされたのですか?」
文武両道で品行方正な大矢小太郎、愛馬暁の鞍上で低く呻いた。
二
「ちょいと、お待ちになっておくんない」
髷を高く結い上げ、月代を広く剃った着流しの町人が二人、大矢家の門内から走り出てきて、暁の行く手を遮った。長脇差こそ佩びていないが、その険しい目つき、刀物傷らしきバッテンが幾つもついた顔を見れば、堅気でないことはすぐに見て取れた。
「下がれ。邪魔だ。道を空けろ」
轡を持つ嘉衛門が厳しく咎めたが、ゴロツキが怯む様子はない。
「御武家様、どちらへおいでで?」
「お前に、行く先を告げる義理はないと思うぞ」
あまりの無礼さに、いきり立つ奉公人たちを制し、馬上から小太郎が一喝した。
「もしも大矢様のお屋敷に御用なら、符丁を見せておくんない」
と、小指のない左手を差し出した。
「符丁とは、なにか?」
「符丁は符丁でさ……大矢屋敷の御門を潜る資格があるのか、ないのか見極めさせていただきます」
「無礼者。大矢家御当主、大矢小太郎様である!」
辛抱堪らず、嘉衛門が怒鳴りつけた。
二人のゴロツキはさすがに驚いたようで、互いに目配せをし合っていたが、やがて小指のない方が小腰を屈めた。
「知らぬこととは申せ、御無礼致しました。すぐに御門を開けますので」
「待て」
馬上から小太郎が呼び止めた。
「なぜお前が門を開ける? お前は大矢家の奉公人か?」
「とんでもございません。殿様から……いえ御隠居様から、門番をするようにと仰せつかっておりますので」
「父上から?」
先代当主がゴロツキを門番に起用する――明らかに、尋常ならざる事態になっているようだ。
「ま、よい。では門を開けてくれ」
「へいッ」
邸内に去りかけた二人の男の背中に再度声をかけた。
「待て。その左手の小指のないお前だ」
「へいッ」
年嵩のゴロツキが小腰を屈めた。騎馬の武士から呼び止められて、表情一つ変えないところを見れば、よほど胆の据わった男なのだろう。
「名を訊いておこうか?」
「いえいえ、名乗るほどの者ではございませんから」
と、刃物傷だらけの顔の前で、ことさらに左手を振ってみせた。
左利きでもなければ、ふつうは右手を振るところだろう。あえて小指のない手を見せることで、小太郎に凄んでいるつもりなのかも知れない。いずれにせよ、この男は要注意だ。
「お前は、我が父から門番を命じられておるのだろう。私はこの家の当主だ。当主の私が門番の名を知らぬという道理はない。だから訊いておる。名乗れ」
しばし、沈黙が流れたが、やがて――
「へいッ。源治と申します」
「源治か?」
「へいッ」
「よし源治、我が屋敷の門を開けよ」
「へいッ」
ゴロツキは、一礼して潜り戸から邸内へと姿を消した。
「どういうことでしょうか?」
憤懣やりきれぬ様子で、嘉衛門が溜息をついた。
五年半の間に、大矢家は随分とおかしなことになっているようだ。ただそれも、父の判断であれば、等閑にはできまい。
「よいか」
と、三人の奉公人たちを見回した。
「私が父上に事情を確認する。それまで邸内で諍いは起こすな。お前たちは名門大矢家の奉公人だ。いつ何時も矜持を忘れずに行動せよ」
忠義の奉公人たちが小腰を屈めたのと同時に、長屋門の門扉がギシリと重々しく開いた。
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