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責任は私が取るから…現役医師が世に問う感動長編 #2 いのちの停車場

東京の救命救急センターで働いていた、62歳の医師・咲和子は、故郷の金沢に戻り訪問診療医になる。老老介護、四肢麻痺のIT社長、6歳の小児癌の少女。現場でのさまざまな涙や喜びを通して、咲和子は在宅医療を学んでいく。一方、家庭では、自宅で死を待つだけとなった父親から「積極的安楽死」を強く望まれる……。

現役医師でもある南杏子さんが世に問う感動長編、『いのちの停車場』。吉永小百合さん主演で映画化もされた本作の、冒頭をご紹介します。

*  *  *

最後、七人目の患者は、救急隊員に心臓マッサージを受けながら入室してきた。外傷性心室細動を起こしていた。電気ショックで心肺を蘇生する必要がある。咲和子はすぐに除細動器のパドルを手にする。

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「最初から三六〇ジュールで。みんな、離れて」

スタッフが感電しないよう、声をかける。患者の心臓をはさむように胸の中央右上と左脇側面にパドルを当て、通電スイッチを押す。体が大きく跳ね上がった。

心電図の波形を見守るが、脈は乱れたままだ。すぐに心臓マッサージが再開される。咲和子は再びパドルを構えた。

「もう一度行くわよ。みんな、離れて」

再び患者の胸が強く持ち上がる。息を凝らして心電図モニターを見つめる。緑色のラインは正常の波形を描いた。

「やった!」

「戻った!」

スタッフが次々に口にして、安堵の表情を浮かべる。咲和子も同じ気分だった。だが、ほっとしたのは一瞬だ。

周囲を見回せば、そこは苦痛に顔をゆがめる患者であふれていた。次々と医師や看護師に適切な指示を与え、技術の不足した部分には手を貸して現場を回していく必要があった。

「くそっ、入らないっ」

隣のベッドで若い医師が低く吐き捨てた。呼吸不全を起こした患者の気管にチューブをうまく挿管できず難渋している。みるみるうちに患者の意識が遠のいた。咲和子は医師の隣に並んで立つ。

「貸して」

挿管チューブと喉頭鏡を奪い取った。

「こういう猪首の患者は、喉頭展開が難しいのよね。変に力を入れると歯を折っちゃうから」

咲和子は左手に持つ喉頭鏡に体重を乗せるようにして、曲型のブレードを持ち上げた。

「見えた!」

気管の入り口が喉頭鏡の発する小さな光に照らされてかすかに浮かび上がる。そこをめがけて右手でするりとチューブを滑り込ませる。

「入った! すぐに酸素をつないでアンビューして」

アンビューバッグと呼ばれるラグビーボールほどの大きさの空気入れを手で押す。まずはこれで気管に酸素を送り込む。患者の青白い顔が、さっとピンク色に戻った。周囲に立つ看護師や医師たちからは、「さすが……」の声が上がる。

「ありがとうございますっ」

若手医師の声を背に受けながら、咲和子は斜め向かいのベッドに向かった。

「白石先生、すみません! 高度熱傷ですが処置はどうしたら……」

事故現場では、漏れたガソリンに引火して火災も発生した模様だ。焦げた洋服にハサミを入れてそっとはがす。一見、皮膚はそれほど変化していないように見えるが、数時間もすれば浮腫やびらんが起きるだろう。皮膚のバリア機能が破綻しているから、感染リスクが高い。

下肢から浸出液が染み出ている。脱水の危険もあった。場合によっては皮膚移植が必要になるかもしれない。

「生食点滴と抗生剤の開始を。すぐに皮膚科の当直医をコールして」

リカバリーのベッドで医師の叫ぶ声が聞こえた。

「ポートワイン尿だ!」

彼は、尿道カテーテルを手に凍りついていた。

黒に近い褐色の尿は、ポートワイン尿と言い、重量物に圧迫されて起きるクラッシュ症候群の特徴だ。筋肉質の患者は壊れる筋肉量が多いため、短時間でも重症化しやすい。横紋筋融解によって大量に漏れ出たミオグロビンやカリウムが致死性の不整脈や腎不全を引き起こす。幸いなことに、心電図の波形はまだ大丈夫だった。

「生食の大量輸液を。一時間に尿量二〇〇を確保するためにね」

体液とほぼ等張の生理食塩水を点滴で投与する。早急に尿からカリウムを排出させるために。

「どれくらいのスピードで落としますか」

看護師が尋ねてくる。

「一時間で一リットル。除細動器をそばに持ってきておいて」

いつ不整脈を起こしてもおかしくない状態だった。

「あと、透析センターに連絡を」

腎臓を保護するためにも血液透析が必要だ。

咲和子は透析センターの担当医に血液透析をオーダーしつつ、目の前の頭部CTが映し出された画像モニターを眺める。脳内にわずかな気泡を発見した。副鼻腔などの骨折で硬膜やくも膜が損傷し、頭蓋内に空気が入ったのだろう。空気とともに、菌が脳に侵入した可能性が示唆された。細菌感染が起これば、脳炎となって死亡するリスクが高い。

「この頭部外傷の患者、誰が診てるの?」

「私です」

入局三年目の医師だった。顔の傷を縫合している。

「抗生剤、始めた?」

「ええと、出血がひどかったんで、縫い終わってからにしようと……」

「気脳症よ」

「えっ……」

持針器を持っていた手が止まる。小さな気泡の重大性を直ちに理解したようだ。

「す、すぐに抗生剤を開始します」

救急医三年生はあわてた様子で立ち上がった。

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向かい側のベッドではポータブルのレントゲンがセットされた。

「撮りまーす」

放射線技師が声をかける。咲和子は一瞬、ドアの向こうに立つ。救命救急センターはあちこちで放射線が飛び交う場所でもある。X線を浴びないよう、撮影の瞬間はスタッフそれぞれが自らの工夫でとっさに距離を取ったり、遮蔽物に身を寄せたりといった工夫で自衛する。

「あれっ?」

技師が声を上げた。

「ショックです、ショックを起こしました!」

直後に担当医が叫ぶ。

重い胸部外傷を負った男性患者だった。先ほどまでは会話が可能であったが、すでに意識を失っている。咲和子は駆け寄って患者の胸に触れつつ、酸素流量を上げる。皮膚がグズグズと沈み込む。握雪感という、雪を握るような感覚だ。肺や気管から漏れた空気が皮下を這うように溜まって起きる現象だった。

「皮下気腫がある。緊張性気胸ね」

肺から漏れ出た空気が肺を押しつぶし、さらに心臓や血管を圧迫して血圧低下を来す。一刻も早く胸腔内の空気を体外に出さなくてはならない。

「胸腔穿刺するから、18ゲージの留置針を持って来て」

肋骨の上から二番目と三番目の間、第二肋間に針を入れる。

シュウと音がして、空気が抜けるのが分かった。

患者の意識が戻る。だが、これだけでは不十分だ。トロッカーカテーテルと呼ばれる、より太いチューブで持続吸引しながら破れた肺が修復されて膨らむのを待つのだ。

「胸腔ドレナージですね。僕がトロッカーを入れておきます」

病棟から呼吸器内科のエースがヘルプに来てくれていた。

「助かる!」

咲和子はその場を彼に任せた。センター内を見回す。まだまだ処置の済んでいない患者がいる。野呂が、十歳くらいの女児を車椅子で連れてくる。事故とは関係のない患者だ。

「なんで野呂君が? 看護師は?」

「ええと、ナースがいなくて。ウォークインです」

ウォークインとは、救急車以外で自主的に受診した患者のことだ。救急隊からの新しい受け入れ要請は断っているが、自力で受診してくる患者を断ることはできない。誰か手の空いている医師に任せたかったが、そんな医師はいなかった。

「お母さーん」

騒然としたセンターの様子に驚いたのか、女の子が泣き出した。野呂が「大丈夫だよ、お母さんはすぐ来るから」と話しかける。女の子は泣きやみ、腹を押さえて体を折り曲げた。

咲和子は少女の腹を素早く触診した。臍の右側、「マックバーネーの圧痛点」と称される部分が特に痛む様子だ。皮膚の張りが弱い。ぐったりしているのは、脱水によるものだろう。母親が受診手続きを終えてやって来た。女の子は、朝から腹痛があって何も食べられず、夜になって胃液まで吐くようになったという。

「虫垂炎でしょう。超音波で詳しく診ます。その前に脱水があるので点滴しましょう」

咲和子が女の子の腕をまくり上げたときだ。処置室にいた看護師から「白石先生、すぐ来てください。頭部の大出血です」と呼ばれる。秒を争う事態に、咲和子はいったん手を置き、立ち上がった。

処置室へ向かう途中で、若手の医師から「ガンツを入れたいのですが、いいでしょうか?」と尋ねられる。スワンガンツカテーテル――心臓の状態を連続的に調べるために、肺動脈に留置するカテーテルだ。挿入することによって心臓病の治療判断が容易になる。続いて「さっきの患者がまた心室細動を起こしました。僕が電気ショックかけていいですか?」と判断を求められる。

「それぞれができることを進めていいわよ! 責任は私が取る」

咲和子は全員に聞こえるように大声で言った。

「よ、よし――」

背後で野呂がつぶやくのが聞こえた。

咲和子が処置室に到着すると、若い女性の頭を研修医が必死で押さえつけているところだった。膿盆に捨てられた数枚のガーゼは、絞れるほど血液で滴っている。圧迫しているガーゼの手を少しでもゆるめると、拍動しながら血液が噴き上げる。

「髪の毛が多くて、傷口が見えないわね。ハサミちょうだい!」

咲和子が叫んだ直後だった。

「髪、切らないでっ」

胸元から小さな声で、だがはっきりとその女性患者が言ったのだ。

「そんなこと言ってる場合じゃないのよ」

咲和子は女性の頭を押さえつつ、止血ポイントを探った。「ここの髪、切って」と看護師に告げたそのときだ。

「痛っ!」

突然、女性に右腕を嚙みつかれた。

咲和子は鈍い痛みに顔をしかめる。一瞬、何が起きたのかと思ったが、すぐに事態を理解する。よくあることだった。薬物中毒患者に腹を蹴られたことや、酔った患者から殴られたこともある。自分が油断したからだ――と事態に向き合うしかなかった。

「貧血で意識障害を起こしたせいね。血液データは?」

「いま届きました。ハーベー六に下がっています」

「生食輸液一五〇〇と、輸血四単位。同意書を忘れないで」

やがて女性は意識を失った。抵抗する力がなくなったおかげで診察しやすくなる。頭皮は十五センチほどザックリと切れており、頭蓋骨が見えていた。そのまま動脈もいっしょに結紮できるよう、深めに十二針縫う。出血は止まったようだ。

点滴と輸血が終わるころ、患者は意識を取り戻した。

◇  ◇  ◇

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いのちの停車場

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