背中を流せ⁉ 無茶な要求にどう応えるのか…老舗旅館の女将奮闘記! #3 花嫁のれん
女将の奈緒子はおせっかいで世話好き。持ち前の明るさで、金沢の老舗旅館「かぐらや」を切り盛りしている。そんなある日、「背中を流せ」と無茶な注文をする客がやってきて......。厳しい仲居頭や女将修業中の新米仲居たちと一緒に、お客を満足させる「おもてなし」を見つけることはできるのか? お腹も心も満たされる人情味溢れる物語、ここに開店!
日本の伝統やおもてなしが感じられて、旅気分も味わえる。
そんな盛りだくさんの本書から、一部を公開いたします!
* * *
「そやから、それがおもてなしで聞こえたかぐらやのもてなしかと言うとんのや! 背中を流してもらいたいと言うたんは、そこにいる仲居や、あんなおっさんやないわい!」
胡坐(あぐら)をかきながら、朝食のおかずを平らげ、最後にご飯を茶漬けにして、口一杯頰張りながらどやしつける。ご飯粒が飛ぶのもお構いなしだ。
不機嫌この上ない顔をしている桔梗の間のこの客は、大阪から来た熊川(くまかわ)という五十代後半の男性で、職業の欄には詳しいことは書かれておらず、自営業とだけ記されていた。
かぐらやに来られるのは、今回が初めてのお客様である。
「本当に申し訳ありませんでした」
開けた障子を背に、丁寧に両手をつき、奈緒子は頭を下げた。この熊川からは、昨日、旅館に着いた早々にも「部屋を変えてくれ」との申し出があった。
「ワシは、一番ええ景色が見える部屋がええのや」
かぐらやの客室は、玄関を入り、談話室の前の廊下を通ると左手の階段を上った二階にある。花や木の名前をつけた部屋が十四室。どの部屋の窓からも、金沢の町やその自然の景色が見渡せる。
だが、「一番いい景色」に熊川はこだわった。
「そや、何や小説や映画にもでた有名な川があるんやろ? その川が見える部屋がええわ」
金沢には浅野川、そして犀川(さいがわ)という二つの大きな川が町を流れていて、穏やかで優美な流れの浅野川は「女川」、雄々しい流れの犀川は「男川」とも呼ばれている。
かぐらやからは、その浅野川が見下ろせるのだが、その部屋はすでに別のお客様がいらっしゃる。予約の時に、すでに埋まってしまっていたのだ。
それで事情を丁寧に説明し、卯辰山がよく見えるこの桔梗の間になったのである。
「同じ料金払はろてるのに、損してる気分やな」
その時から、不満を口にしていた。その腹いせでもないだろうが、その後も部屋に飾っている掛け軸、夕食のメニューなど、次々にああしろこうしろと部屋付きになった優香に言いつけていたらしい。
そして夕食後、食事の世話についていた優香に、この後、温泉でひと風呂浴びるから背中を流すようにと、また言いつけたのである。
だが優香はそれが出来ず、一階の浴場の入り口の前で途方に暮れていたところ、昔で言う番頭であり、今は支配人の増岡(ますおか)が気づき、優香から話を聞くと、「それではわたくしが」と申し出てくれ、代わりに背中を流したそうだ。
あんなおっさんとは、その増岡のことである。それがよほど気に入らなかったのだろう。今朝、「態度がなってない」と房子にクレームをつけたのだ。奈緒子の斜め後ろに控えている優香も顔を強張(こわば)らせながら、頭を深く下げている。
だが、熊川は語気(ごき)を緩める気配はない。
「あのな、金沢で一番のおもてなしの宿と聞いたから、ワシはここに来たんや。そやのに、これが老舗旅館かぐらやの世に聞こえたもてなしか。え! あんたが女将やろ、どう躾(しつ)けとんねん! 聞かせてもらおやないか!」
「誠に申し訳ございませんでした。この通りでございます」
先ほどより、より低く頭を下げた。
その姿を見て、自分の思いがこれで通ると思ったのだろう。「それやったら、勘かん弁べんしてやらんでもないけどな」と急に馴れ馴れしい口調に変わり、「どうや?これから朝風呂に入って、この仲居さんに背中流してもらおか。それがええわ。今日は大阪に帰ってから、また仕事や。その前にリラックスや。リラックスは大事やさかいな。体も気持ちもほぐすさかい」そう言いながらニヤニヤする。「そや、着物では濡れるとアカンから、水着に着替えてきてくれてもええねんで。そしたらワシも背中を流したるさかい」と今度は優香をいやらしい目付きで見だした。
すでに優香は俯(うつむ)きながら泣きそうだ。お客様へのおもてなし。それが老舗旅館、いや、日本旅館の伝統である。お客様の意に沿うように接客するのが、女将、そして仲居の心得でもある。
「わかりました」
「よっしゃ! ほな、早速」
立ち上がりかけた熊川に、奈緒子は上げた顔を向けた。
「お客様には、かぐらやならではの朝風呂をご用意させていただきます」「かぐらやならではの?」
「はい」
ニッコリと奈緒子は微笑んだ。
◇ ◇ ◇