それぞれの日曜日…ある日突然、父娘の人格が入れ替わったら? #4 パパとムスメの7日間
今どきの高校生・小梅と、冴えないサラリーマンのパパ。ある日突然、二人の人格が入れ替わってしまったら……? あっと驚く設定で多くの読者を獲得し、新垣結衣さん、舘ひろしさん主演でドラマ化もされた、五十嵐貴久さんの『パパとムスメの7日間』。ドキドキの青春あり、ハラハラの会社員人生あり。そして、入れ替わってみて初めて気づいた、おたがいの大切さ。読めば今すぐ家族に会いたくなる、本作のためし読みをお楽しみください。
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5
プロジェクト開始直後は、メンバーたちも意気軒昂としていた。何しろ社長のお声がかりで始まっている。言ってみれば錦の御旗を持っているようなものだ。
植草部長の話では、予算も潤沢であり、必要に応じて増員も検討するということだった。もちろん、各部署から最大限の協力態勢が得られるのは当然だ。
そのはずだったが、プロジェクトが始まってから数週間も経たないうちに、話が違うことがわかった。社長をはじめとする役員たちが過去のフレグランス商品について調べ直したところ、光聖堂はもちろんのことだが、他社でも成功例がないことがわかったのだ。フレグランス類で流行した商品は、いずれも海外ブランド品だった。
その時点で、会社は中止命令を出すべきだっただろう。だが一度社の予算に組み込まれたプロジェクトチームを、朝令暮改で止めることは出来なかった。それこそ誰かの責任問題になるだろう。
結局プロジェクトは“とりあえず”存続することになった。しかし、とりあえずという仕事に対してモチベーションを保たせることの出来るサラリーマンはいない。プロジェクトの士気はみるみるうちに落ちていき、私にはそれをどうすることも出来なかった。
予算はどこまでも削減され、増員どころかメンバーを減らすことまで検討されるほどだった。他部署の協力も当てに出来ないまま五カ月が経過し、その段階でプロジェクトチームはヤング層をターゲットにした新しいアロマ・フレグランス商品の企画案をまとめ、役員会に提出した。
予算、時間、マンパワー、すべてが不足していたが、その割にはよくまとめられていたと思う。短期間のうちに斬新なアイデアを盛り込んだその企画案について、プロジェクトメンバーの誰もが自信を持っていたと言っていい。ここまでは、まだモチベーションが落ち切っていたわけではなかったのだ。だが、あっさりとこの第一次案は却下された。
その五カ月の間に、年度末の決算があった。光聖堂はいくつかの事業体を抱えた会社で、特に最近では不動産部門が大幅な利益を上げていた。そのためグループとしては黒字ということだったが、本体であり大黒柱でもある化粧品部門は、創業以来の減収減益となっていたのだ。
それを踏まえ、役員会は予算の見直しを図り、真っ先に槍玉に挙がったのが新商品開発プロジェクトだった。削減に削減を重ねられ、それでもテレビのコマーシャルを打つ最低限の予算だけは確保してきたのだが、有無を言わさず再び大鉈が振るわれ、宣伝費を含め販売促進費などほとんどの予算がカットされてしまった。その予算で私たちの企画案は実行不可能であり、だから却下するというのが彼らの側の理由だった。
そこまでするのなら、全体を中止するべきでしょうと私はプロジェクトを代表して上申したが、それは出来ないというのが返ってきた答えだった。既に昨年度の段階で記者発表もしているし、社長肝煎りのプロジェクトを中止するなど考えられないという。
悪代官にいじめられる民百姓の悲哀とはこんなものではなかっただろうか。いっそ殺して下さいまし、お代官様。
加えて、予算だけではなく、企画案そのものにも問題があるとされた。これまでの光聖堂のやり方とあまりに違う、というのが彼ら役員たちの不興を買ったようだ。
当然のことだが、今までほとんど手をつけてこなかったフレグランスという商品について、光聖堂にノウハウがあるわけではない。また、若い層をターゲットにする以上、過去のやり方が通用しないのは子供でもわかるだろう。
新しい販路、新しい宣伝、新しい戦略を取る必要があるはずだが、会社は強い抵抗を示した。“それは光聖堂の方法論ではない”というのが彼らの寄越した回答だった。
ますます士気は落ち、沈滞したムードがチーム全体を覆った。今までのやり方に則るのなら、わざわざプロジェクトチームを組む必要もないはずなのだが、会社はその自己矛盾に気づいていなかったし、何度話し合いを重ねても理解するつもりはないようだった。会社には会社の事情があり、大人の都合というものがあるのだろう。
やむなく私たちは事務的に作業を重ね、最終的にはこれまでの光聖堂の延長線上にある企画案を提出した。それでも何度か修正を求められ、最終案を出したのはひと月ほど前のことだ。七種類の香りのアロマ・フレグランス。レインボー・ドリーム、七色の夢。
陳腐といえば陳腐だが、私たちにはそれ以上どうすることも出来なかった。会社の側にも事情があり、昨年立ち上げたこのプロジェクトについて、今年の上半期中には何らかの結論を出さなければならなかった。これ以上引き延ばせば、株主総会で何があるかわからないからだ。そういう理由もあって、ようやく新商品企画は受理された。
最終的には、約十日後に開かれる社長も参加する御前会議という大仰な名称の会議で決裁されることになるが、とにかくここまで進めてくるだけでも、並大抵の苦労ではなかったのだ。
正確に言えば、来週の火曜日に開かれる御前会議に向け、今週は資料の作成や部署間の調整、会議や打ち合わせなどの準備に追われ、忙しくなるのはわかっていた。私はチームのメンバーに、この土日だけは仕事を忘れようじゃないかと提案した。
決して下の者をまとめるのがうまいわけではないが、この案は全員の歓迎を受けた。そういうわけで、私もまた昨日と今日だけは休養を取り、万全の体調をもって週明けからの仕事に当たるつもりだった。
「パパ、ティッシュその辺に置いておかないで、もう」
人生に絶望した芸術家のようなため息と共に理恵子が立ち上がった。鼻をかんだティッシュをそのままテーブルに放置するという悪癖が私にはあり、常々反省している。言われた通りに丸めたティッシュを集めて、パジャマの胸ポケットに突っ込んだ。
「パパがいると片付かなくて困るわ」
暇なら散歩でもしてきてよ、と言う。家庭とは、働くお父さんに安らぎを与えてくれる場所ではなかったのか。
「競馬ぐらい見せてくれ」
たまの日曜だろう、と言いかけたが凄まじい音でかき消された。小梅が階段を二段飛ばしで降りてきたのだ。
「ちょっと出かけてくるから!」
悲鳴のような声がした。どこ行くの、と理恵子が叫んだが、わかんない! という答えが返ってきただけだった。
わかんないとは何事か。お前はイノシシか。自分がどこへ向かっているのかわからないまま走りだすのか。
ドアが叩きつけられるように閉じられ、自転車を出す音がした。いきなり静かになった。カニに唇を挟まれた芸人の泣き声が、テレビから聞こえてくるだけだ。
それからチャンネルを替え、だらだらと競馬中継を眺めながら、理恵子の入れてくれたお茶を二杯飲み、それでも時間を持て余したので命じられた通り外に行くことにした。ご飯までには帰ってきてねと言うので、何時だと尋ねると、わからないけどと言われた。この家にはわからない人間しか住んでいないらしい。
6
駅近くのOZショッピングセンターにチャリを停めた。今さら一分や二分早く着いたところで何も変わんない。
もう三時近かった。時間通りにみんなが集まったとしたら、いちばん盛り上がってるタイミングだ。ものすごく行きにくい。
でも、だけど。ケンタ先輩がいるんだから、ゼッタイ行かなきゃ。
ショッピングセンターのトイレに入って、服と髪の毛を整えた。服はともかく、全速力でチャリを飛ばしてきたので、髪の毛はめちゃくちゃだった。
ドライヤーなんかあるはずもなく、セットはなかなかうまくまとまらなかった。泣きたくなった。それに。
(あたし、汗かいてる)
キャミソールの背中に汗がにじんでいた。どうしよう。汗染みとかできてないだろうか。みっともなくない? ねえ。
だけど、どうしようもない。せめてもの慰めに、襟元からハンカチで扇いでみた。どうして昨日の夜、お風呂入らなかったのかな、あたし。もっとちゃんと髪洗っとけばよかった。
悔やんでも遅い。とりあえずバッグに入れておいた制汗スプレーを死ぬほど服や背中や首筋にふりかけてみたら、トイレの芳香剤とまざって、気分が悪くなった。律子のバカ、何でもっと早く言わないのよ。
最後にピンクのグロスだけは念入りに塗って、トイレを出た。東うたひろ、駅東口の“歌声ひろば”というカラオケボックスはここから歩いて一、二分だ。
週に一度ぐらいは行ってるので、店員さんとはもう顔なじみだった。二階だよ、と教えてもらった通り階段を上がると“ハッピーデイズ! ハッピーデイズ!”というリフレインが聞こえてきた。大塚愛だ。
律子は最近大塚愛しか歌わない。ちょっと似てない? とか言って、髪形までいっしょにしてる。どうなのよ、それって。
小窓からボックスの中を覗き込んだ。律子がセンターの一段高くなったステージで飛び跳ねてる。青のソファには小関さん、柴本さん、そしてケンタ先輩が並んでた。
律子が小関さんとつきあうようになって三カ月が経つ。もうねえ、告らせるまで大変だったんだから、と報告された。丸一年、がんばってた律子をアリーナで見てたあたしとしても、ホントに良かったって思ってる。
律子は中学からの友達だ。いつも元気で明るいキャラは男子から人気があった。本人も自覚してる。でも実はけっこうイチズで、それこそ西園寺に入れるぐらい成績はよかったのに、わざわざ選んでうちの高校に入ってきたくらい。
中三の時、今の高校に地元のいくつかの高校の一年生が集まって、サッカーの対抗戦をやっていた。それを見にいった律子は、選手として試合に出ていた小関さんに恋をしてしまったのだ。
あの人と話がしたい、というただそれだけの理由で高校を選び、希望がかなってサッカー部のマネージャーになった。一年間、律子はずっと小関さんだけを見てきた。
「ドンカンなのよ、あのヒト」
三カ月前、小関さんがやっと告白してきたと腹立たしげにあの子は言ったけど、その目がマジで嬉しそうだったのを、あたしは見逃さなかった。ヤレヤレだよ、ホントに。
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