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沈みゆく会社を救うため…ある日突然、父娘の人格が入れ替わったら? #3 パパとムスメの7日間

今どきの高校生・小梅と、冴えないサラリーマンのパパ。ある日突然、二人の人格が入れ替わってしまったら……? あっと驚く設定で多くの読者を獲得し、新垣結衣さん、舘ひろしさん主演でドラマ化もされた、五十嵐貴久さんの『パパとムスメの7日間』。ドキドキの青春あり、ハラハラの会社員人生あり。そして、入れ替わってみて初めて気づいた、おたがいの大切さ。読めば今すぐ家族に会いたくなる、本作のためし読みをお楽しみください。

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パジャマのままテレビを見ていた。リビングと続きになっている和室で洗濯物を畳んでいた理恵子が、夏は乾くの早くて助かるわ、と嬉しそうに言った。

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「何見てるの?」

わからん、と答えた。ふざけていたわけではなく、本当に自分でも何を見ているのかよくわからなかったのだ。テレビを見るというただそれだけのことでも、一応意志の力は必要らしい。

どうも旅番組のようだった。顔だけは知っているお笑いコンビと、名前だけ知っている局アナが全長二メートルほどもある大きなカニを見て奇声を上げていた。

いいけど、と理恵子が素直にうなずいた。八カ月前、新商品開発プロジェクトチームが発足してからというもの、土日のいずれか、あるいは両方とも出勤する日が続いていた。入社して二十五年になるが、こんなことは初めてだ。理恵子もそれはよくわかっているようだった。

私が勤めている光聖堂は、明治時代から続いている化粧品会社だ。同業他社のことは知らないが、福利厚生も充実していて働きやすい。何よりのんびりした社風が私に合っていた。

総合職採用だった私は販売、営業を振り出しに、いくつかの部署を転々とした。京都の支社を経て最後に落ち着いたのが宣伝部の広報課だった。七年前のことだ。

四年前、私はそこの課長代理になり、昨年の制度改革で広報課が部に昇格したため、現在は副部長ということになっている。これは同期の中でも遅い方だ。

化粧品会社の広報というと、華やかで聞こえはいいかもしれないが、率直に言ってラインからは外れた部署だ。予算も潤沢にある宣伝部とは違い、地道なPR活動を展開していく広報は、光聖堂でも象の墓場と呼ばれる部署だった。要するに私はその程度のサラリーマンなのだ。

どうも私には要領が悪いところがある。与えられた仕事を熱心かつ真面目にやるのは確かだし、問題を起こすこともめったにない。良くいえば手堅いということになるだろう。

逆にいえば、結論を出すまで時間がかかり、仕事が遅いということでもあるのだが、性格だから仕方がない。上へのアピールも下手だし、たまに手柄を立てても誰かに譲ってしまう。ついでにいえば下とのコミュニケーションも苦手で、統率力はかけらもない。おまけに社内事情にも疎くて、社内の人間関係や派閥についても興味がなかった。当然、情報も入ってこないから、そういう意味でも問題は多かった。

自分でもそれはよくわかっている。とはいえ別に出世したいわけではなかったし、のんびり暮らしていければそれでよかった。その意味で不満はなかったのだが、そんな私が新商品開発プロジェクトチームのリーダーを命じられたのは、人事の都合というものだったのだろう。

元はといえば、会社の業績がゆっくりとではあるが、はっきりと右肩下がりになっていたのがその遠因だった。もちろん、社員である私たちもそれは何となくわかっていたのだが、光聖堂といえば歴史も伝統もある大会社だ。そう簡単に潰れたりするはずもないと高をくくっていたのだが、私たちの想像以上に事態は深刻だったようだ。

もともと光聖堂は高級志向の化粧品メーカーであり、ブランド力の高さは他社を圧している。“スーパービューティ”シリーズを中心とした基礎化粧品のラインナップは、多少値が張るとはいえ高品質で顧客からの信頼を勝ち取っていた。ユーザーの満足度、好感度も高く、問題は何もないはずだった。

だが問題はあった。要するに“スーパービューティ”シリーズの成功に甘んじて、光聖堂の経営陣はその後継モデルの開発を怠っていたのだ。ある意味で殿様商売をしていたために、消費者の志向に対応するのが遅れてしまっていた。

気がつけば、光聖堂の商品は少しずつ時代遅れの産物になっていた。いきなりというわけではない。何年もかけて、ゆっくりと地盤沈下は続いていた。気づいた時には、両足を泥沼に取られて身動きが出来なくなっていた。そんな感じではなかったか。

予算の削減、冗費の節約がやかましく言われるようになり、貧すれば鈍するでかつてのように莫大な経費をかけた宣伝露出が難しくなり、その結果ますます商品は売れなくなっていた。

二年前には成果主義の導入が始まっていたが、これがまた事態をより悪化させた。いくら制度を改めたところで、内部にいる社員が変わったわけではない。

中身だけは昔のまま、服だけ着替えたところでいきなり具体的な成果が得られることなどありえなかった。むしろ、社員の士気は落ち、モチベーションが下がっていったという方が正しいだろう。

それでも、会社は回り続けた。“スーパービューティ”シリーズは、衰えたとはいえ、まだ消費者からの根強い信頼もあり、リピーターも多い。品質は業界でもトップクラスだろう。

だから、それほど強い危機感を会社が、あるいは社員全体が抱かなかったのはやむを得なかったのかもしれない。ただ、消費者の世代交代がうまくいっていないのは間違いなかった。新規ユーザーの増加率は過去に比して明らかに低くなっていた。光聖堂という船は、緩慢な形で沈み始めていたのだ。

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新商品開発プロジェクトについて言い出したのは渡辺社長だったらしい。どういう流れでそうなったのかはわからないが、光聖堂商品開発研究所から、新しい成分を含むフレグランスの開発に成功したという報告があったのがきっかけだという。

その報告を受けて、渡辺社長は伝統的に光聖堂が弱かった若い世代を対象にした、まったく新しいコンセプトの商品を開発してはどうか、と役員会の席上で発言した。

社長にもそれなりに危機感があったということなのか、それとも何の気なしに言ったのか、私のような下々の人間にはわからない。ただ、同僚たちに言わせれば、たまには何か気の利いたことを言ってみようか、ぐらいのつもりだったようだが。

現社長は創業社長以来の四代目で、光聖堂中興の祖と言われる“スーパービューティ”シリーズ生みの親である三代目の現会長もまだ健在だ。社長としてはそれほど強い意味があって言ったことではなかったのかもしれないが、役員連中にとってそれは特命事項だった。

本来ならメインである企画開発部が担当するべき案件だったはずだが、担当役員は話を聞いてあっさりと逃げ出したという。無理からぬことで、フレグランス商品は光聖堂にとって鬼門だった。

十五年ほど前、フランスの有名ブランドと組んで大々的に売り出したフレグランスシリーズ“シルバービート”が大失敗していたからだ。莫大な開発費、通常の倍ほどの宣伝費を投入したにもかかわらず、“シルバービート”はまったく売れなかった。湿気のない日本でフレグランスは売れないのだ、としたり顔で言う者もいたが、いずれにせよ数億円の損害を被って光聖堂はフレグランス市場から撤退した。

しかも光聖堂の弱点でもある女子中高生、大学生などの層を狙うというのだから、無理に無理を重ねたような話だ。企画開発担当役員が白旗を掲げるのは、やむを得ないことだっただろう。

だが社命は社命だ。誰かがやらなければならない。役員会で何度も検討が重ねられたが、各部署の役員たちは、自分の部署での取り扱いは難しいとして、他の部署にその役目を押し付けようとした。

言ってみれば、それはピンの外れた手榴弾によるキャッチボールのようなものだったのだろう。不用意に扱えば、どこで爆発するかわからない。

最終的にババを引かされることになるのは宣伝部かと思われたが、光聖堂創業以来最年少で取締役に上り詰めていた桜木取締役宣伝部長は、能力はもちろんのことながら、運にも恵まれていた。その直前に制度改革があり、宣伝部内のひとつの課だった広報課の業務内容が多少広がったため、宣伝・広報部と名称が変わったのだ。

全体の統括は桜木役員が行うが、制度上広報部にも部長が必要になった。桜木役員はさっさとフレグランス案件を新任の植草広報部長に預け、後を任せた。

新任早々問題を抱えることになった植草部長は、おそらく桜木役員の指示だと思われるが、各部署から人員を出して、プロジェクトチームを結成してはどうかと役員会に申し入れた。一人で責任を取りたくないという魂の叫びが通じたのか、この提案は受理され、プロジェクトチームの人選が始まった。そしてそのリーダーに選ばれたのが、広報の副部長に昇進したばかりの私だったのだ。

本来、新商品開発プロジェクトなど、広報の人間が担当するべき業務ではない。企画開発なり営業なり、せめて販売か宣伝が主体となるのが通例だ。今回もそうなるはずだったが、失敗が目に見えているプロジェクトの面倒など、誰も見たくはなかったのだろう。

ラグビーでいえば、こういうことだ。企画開発部は営業部に球を投げ、営業は販売にパスした。販売は宣伝にスルーし、そのこぼれ球を拾わされたのが植草広報部長、ちゃんと磨いておけよと渡されたのが私だった。

私の要領の悪さはこの辺りに如実に現れており、受け取ってから周りを見渡すと、グラウンドにはもう誰も残っていなかった。気がつけば私はプロジェクトリーダーを拝命していた。各部署から集められてきた十七人のメンバーと共に、チームを立ち上げざるを得ない立場に追い込まれていたのだ。

なぜ十七人なのかといえば、光聖堂の主要な部署が十七あったからで、すべてを平等にというのが役員たちの合言葉であり共通認識だった。

十七人のメンバーについて、私に選択肢はなかった。それぞれの部署が出してきた社員に対しての拒否権もない。玉石混淆といえば聞こえはいいが、はっきり言って石の方が多いだろう。

会社の命運がこのメンバーにかかっている、という植草部長の子供騙しの演説と共に、プロジェクトはスタートした。それが八カ月前のことだった。

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『パパとムスメの7日間』

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