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しらふで生きる 大酒飲みの決断 #3

いずれ死ぬのに、節制など卑怯ではないか

と言うて、これも違うように思う。なぜなら、そう思う度に私は大伴の、

生者遂にも死ぬるものにあれば今世なる間は樂しくをあらな
(どっちみちいつか死ぬんだから今が楽しけりゃそれでいいじゃん 町田訳)

という歌を思い出して乗り切ってきたからである。酒毒によって全身がだるく、また背中に痛みなどあり、或いは微熱がうち続き、このまま飲み続けたら死ぬ。今晩くらいは酒をよそう、と思ってしまったとき、

「じゃあ、今晩飲まなければ死なないというのか。そんなことはない。人間はいずれ死ぬ。それを直視しないで、一晩、酒を抜く、なんていう小細工で誤魔化すのは人として許せない、卑怯な態度だ。私はそんな卑怯な態度はとらない。正々堂々、酒を飲む。楽しく飲む。楽しく飲んで楽しく死ぬ。それが真の大納言というものだ。節制などというのはそこらの愚かな中納言のすることだ。そんな奴は海老食って死ね」

など考え飲み続けてきたのだ。ということはつまり私は筋金の入った大伴主義者ということ。だからいまさら、事故で死んだ考えが、「いやー、酒は飲みすぎると身体に悪いからね。やめた方がいいよ」などいったところでビクともするものではない。

誰がやめるか、アホ。亜北。北アジア。そんなものねぇんだよ。と、酒飲みらしい連続しない思考で考えただろう、というか実際にそう考えてきた。だから健康上の理由で酒をやめようと考えた、ということはない。

ではなにが考えられるのか。健康上の理由ではないとすれば、次に考えられるのは、心境の変化、というやつである。

人間の心境というのはときどき変わることがあると聞く。磯釣りに凝った人があって、道具やなんかも相当のものを揃え、休みの日には必ずといってよいほど、早朝から磯釣りに出掛けていた人が福引きで当たったチベット旅行に行き、お寺に参って帰ってきてからはふっつりと磯釣りに行かなくなり、道具も人にあげてしまった、なんてことがあるのである。

或いは。ある少女があるロックバンドに熱を上げ、近隣は言うに及ばず遠方で行われる公演でさえ泊まりがけで出掛けて行き、贈り物を贈ったり手紙を書いたり、そのロックバンドなしでは夜も日も明けぬという熱の入り方だったのが、ある日、文楽の素晴らしさに開眼し、それ以降は寝ても覚めても文楽文楽文楽、文楽一本槍となって、以前、あれほど熱を上げていたロックバンドについてはその名前すら忘れてしまった、なんてことも人の心には起きる。

そうしたこと、すなわち心境の変化というやつが私の心にも起こったのではないだろうか。しかしだとすれば、その磯釣りのおっさんにおける「チベットの寺」、ロック少女における「文楽」のごときものが私にもあるはずでそれはなになのか、ということを考えてみる必要がある。というか、その前にそうしたものに私は出会ったのか、ということを考えなければならない。私はそうしたものに出会ったのだろうか。

胸に手を当てて考えてみた。なにも思い浮かばなかった。私はチベットにも行かないし、チベットどころか日本のお寺にすら行っていない。また、文楽も観に行っていないというか、池袋演芸場にすら行っていない。

そんな訳ゃないのだがな、と思い、こんだ、股間に手を当てて考えてみたが、やはり思い当たる節がないし、股間のものも特に反応を示さない。

勿論、それは寺と文楽でなくともよく、酒を忘れるくらい素晴らしいものならなんでもよい訳で、例えば覚醒剤に耽溺したとかソープランドに通いつめたとか、そんなことでも構わないのだが、残念なことにそうしたことがまったくない。というか、そうしたものをすべて排し、酒を最上位の快楽と位置づけて生きてきたのだから、今更、その程度のことで価値観が揺らぐことは、断言するが、ない。

ということはどういうことか。なぜ文楽も寺も無しに酒をしたのか。と考えて次に考えられるのは、そういうプラスの方向、というのは自分にとってよりよいものが見つかったので、酒はもう要らなくなった、という方向での心境の変化ではなく、事態が悪化したために起きた心境の変化、マイナスの心境の変化、が起きたのではないか、つまり、自暴自棄、やけくそ、のような精神状態に陥って酒をやめたのではないか、ということである。

しかし、これはちょっと難しいのではないか、と思われる。

というのは人間というものは、自暴自棄に陥ったらむしろ酒を飲むからで、リストラ対象になった、女に逃げられた、なんて場合、やけ酒、と称して大酒を食らう。失職や離婚をきっかけに酒精中毒になる方が多いのはこのためである。

なので、「愛した女が男を作って逃げた。もうこうなったら自棄だ。酒をやめてやる」とはならない。やけ酒、というのはあっても、やけ禁酒、というのはないのである。

同様に、「くそう、もうこうなったら自棄だ。ジムに通って身体を鍛えてやる」とか、「もうこうなったら自棄だ。エステに行って癒やされてやる」といった風にもならない。

なんとなれば自棄になった人間は自分に愛想を尽かし、精神的に滅んだ自分を肉体的にも滅ぼしてしまいたい、自分を壊したいと願うからで、それがすなわち自暴自棄というやつである。

もし仮に、人生を悲観して酒をやめ、ジムに通い、アロマテラピーなども実践、サーフィンをしたり、ホームパーティーを開いて男の食彩、女の白菜、ゲストに自慢の料理を振る舞う、なんて人がいたとしたらその人はかなりのお茶人だし、真に絶望した人はお茶人にはならずなれず(詩人にも俳人にも)、ただ廃人への道を突き進むはずである。

つまり、そうしたネガティヴな心境の変化によって酒をやめることもまたない、ということになる。

となるとどうすればよいのだろうか。健康上の理由でもなく、心境の変化、価値観の変化でもない。となると考えられるのはただひとつ、そう、そうした身体や感情の問題ではなく、思想上の問題、純理論としての大伴主義が私のなかで揺らいだ。或いは、そんな甘いものではなく、あまりにも過激な、肝臓が滅んでも酒さえ飲めればそれでよい、という大伴の酒至上主義に疲れ果てて、ついに転向したということである。

ルルル。そんなことがあるのだろうか。

まあ、そういうことはなくはないだろう。深い信仰を抱いていた神父が拷問に耐えきれず転び伴天連バテレンとなって自らが教え導いた者たちにいみじき弾圧を加えた、という話を聞いたことがあるし、進め一億火の玉だ、撃ちてし止まむ、と唱えていた人が急に一億総懺悔と言い始めたと書いてあるのを読んだこともある。或いは戦前の主義者にも弾圧によって転向する人は多かったらしく、そうしたことが主題として名作文学も書かれた。

なんでそんなことになるかというと、たいした信念もなく、テキトーにその思想を奉じている場合はその信奉自体がグニャグニャで、少しの力でグニャッと曲がるが、ある種の免震構造というか、或いは柔構造というのか、曲がるけどもポキッと折れてしまうということはない。けれどもその思想を強く信じ、強く奉じている場合、信奉自体が太く固く、かなりの力がかかっても曲がらないし折れないのだけれども、一定以上の力がかかると耐えきれなくなって真ん中からポキッと折れてしまう。それを防止するためには少しばかり曲がればよいのだが、なまじ信念があるものだから、どうしても曲がることができず、歯を食いしばって苦しみ抜いた挙げ句、折れてしまうのである。

さあ果たして私は転向したのだろうか。

というと、別にしていない、と言うより他ない。というのはだってそうだろう、私の大伴主義を政府が弾圧した、秘密警察に常時、監視されているといった事実はなく、ましてや、戦争というか、その思想を巡って論争とか言い合いとかをして完膚なきまでに叩きのめされた、ということもない。なぜそうなるかというと、私は世間から相手にされず、なにを言ってもやっても誰にも気がついて貰えないからで、まあ、そのお蔭で私は思想を保ちながら楽しくお酒を飲むことができた訳で、つまり苦しい転向など、するはずがないのである。

ということはどういうことか。なぜ私が酒をやめたのか、という理由がいまだにはっきりしない、ということで、これは由々しき問題である。なぜかと言うと前にも言ったようにそこが明らかにならない限り、二度と再び、酒を飲むことができないからである。

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