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ドナウはかくも青く美しく…容疑者は村人全員? 最凶・最悪のどんでん返しミステリ #1 ワルツを踊ろう

金も仕事も家も失った元エリート・溝端了衛は20年ぶりに故郷に帰る。だがそこは、携帯の電波は圏外、住民はクセモノぞろいの限界集落。地域にとけ込むため了衛は手を尽くすが、村八分にされ、さらには愛犬が不審死する事態に……。

ベストセラー『さよならドビュッシー』シリーズなどで知られる中山七里さん。そんな中山さんの「著者史上最狂ミステリ」として名高いのが、『ワルツを踊ろう』です。驚愕のどんでん返しが待っている、本作の冒頭をご紹介します。

*  *  *

一 ドナウはかくも青く美しく

1


日本間六畳の寝室にドナウが流れる。
 
溝端了衛はうっすらと目蓋を開く。ミニコンポのタイマーセット機能で、午前七時ちょうどになるとスピーカーから曲が流れるようになっている。

ヨハン・シュトラウスII 世作曲〈美しく青きドナウ〉。言わずと知れたワルツの名曲だが、クラシックに疎い者でも映画『2001年宇宙の旅』で劇中に使用された曲と言えば合点がいくだろう。
 
了衛はクラシックが趣味だが、分けてもこの曲が好きだった。洗練されているのにどこか牧歌的で、雄大な曲想なのに耳に優しい。
 
元々、一八六六年の普墺戦争(プロイセン王国とオーストリア帝国の戦争)で大敗したウィーン市民を慰めるために作られた曲だ。相反する二つの要素が同居する理由は、多分その辺りにあるのではないかと了衛は推測している。
 
この名曲の録音は数々あるが、了衛のお気に入りは一九八九年、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団恒例のニューイヤー・コンサートでカルロス・クライバーがタクトを振った演奏だった。本コンサート史上最高の名演と謳われ、聴いてみるとなるほどと思わせる。タイマーセットしてあるのも、もちろんその盤だ。この演奏のライブDVDを初見した時には啞然とした。指揮者のクライバーは演奏中、ともすればタクトを振るのを止め、自らもワルツの旋律に身を任せて踊っているように見える。指揮者自身が愉しんでいる演奏が、聴く者に愉しくないはずがないではないか。
 
不思議なもので、好きな曲が目覚ましで鳴ることを知っていると、自ずとその曲が流れる寸前で目が覚めるようになった。自分のドナウ好きも相当なものだと苦笑する。
 
十分前後の曲なので、しばらくすると演奏が終わった。了衛はのっそりと起き上がり、窓のカーテンを開く。
 
窓の外には雑草で荒れた庭、遠方に低い山脈が見える。近年、ライフラインは地下敷設が増えたが、ここではまだ電柱が幅を利かせており、庭の向こう側に立ち並ぶ数本が見える。〈美しく青きドナウ〉が醸し出す牧歌的な雰囲気とそぐわなくもない。
 
だが、ここはれっきとした都内だった。
 
東京都西多摩郡依田村竜川地区。半径三百メートルほどの範囲に七戸の家屋が点在している集落。それが今や自分の終の住処になろうとは、二週間前には想像もしていなかった。
 
今日は快晴だった。了衛は裏庭に出て井戸の方へ歩く。祖父の代から残る井戸はテコの原理で地下水を汲み上げる撥ね釣瓶式で、驚くことに未だ現役だった。
 
柄の端を上下に漕ぐと、桶に水が入ってくる。両手に掬って顔に叩きつける。
 
冷たい。だが清新だ。すぐに眠気が吹き飛ぶ。
 
続いてひと口飲んでみる。
 
美味い。喉から流し込んだ水が、そのまま全身を循環して指先まで行き渡るような気がする。五臓六腑に沁み渡るとは、きっとこういうことを言うのだろう。
 
井戸水は地下をゆっくり流れる間にミネラル分を溶かし込む。また病原菌や汚染物質についても、地中の微生物による分解や土壌の吸着作用によって殺菌消毒される。これほどいいこと尽くめなのに、聞けば集落の中でも井戸を使っているのは自分の家だけらしい。お蔭で井戸水に慣れてしまった今は、水道水など飲む気になれない。
 
生まれ変わったような気分で背を伸ばし、深く深く息を吸う。
 
近隣に工場と名のつくものはなく、見渡す限り田畑が広がっている。土と水、そして畦道に咲いたレンゲと野アザミの香りが空気に混じっている。以前、街中に住んでいた頃には気づきもしなかったが、空気にもちゃんと味がある。それを知ったのは、ここに移り住んでからのことだった。
 
朝食をトーストで軽く済ませてから身支度する。身支度といっても下は綿パン、上はポロシャツという軽装なのだが、近所への挨拶回りならそれで妥当と思えた。
 
実家に移って来たのが一週間前、住民票を異動させたのが五日前、まだ引っ越しの挨拶も済ませていない。隣が地区長の家なのでちょうど都合がいい。
 
もっとも隣といえども隣接している訳ではない。三、四十メートルは離れているだろうか。お蔭でよほどの大音量を出さない限り近所迷惑にもならない。
 
木造二階建ての地区長宅は七戸の中でも一番まともな家屋だった。築年数はそれなりに古いが、おそらく壁の塗り替えをしているために外観はさほど古びていない。
 
玄関を見回してみたが、どこにもチャイムらしきものはない。仕方がないので引き戸に手を掛けると、施錠もされておらず戸はするすると横に移動した。そう言えば、田舎では碌に鍵も掛けないと聞いたことがある。
 
「ごめんくださあい」
 
声を掛けると奥の方から返事があった。ややあって老婦人がひょこひょことした足取りでやって来た。地区長の妻、多喜だった。
 
「ああら、了衛さん。どうしたの、こんな朝早うに」
 
七十過ぎだというのに、声はまだずいぶんと若々しい。真っ白な頭髪さえ無視すれば五十代でも通りそうだった。
 
「引っ越しの挨拶に伺いました」
 
「それはどうもご丁寧に」
 
答えながら多喜は了衛の手元に視線を走らせる。それが何を意味するのかは分からなかった。
 
「主人は奥におりますから。ねえ、あんたあ。お隣の了衛さんが来たよ」
 
「おーう、上がってもらえ」
 
低いがよく通る声が返ってきた。了衛は多喜に連れられて廊下の奥へと進む。

通されたのは居間らしい。らしい、というのは中央にソファとアームチェアはあるものの、部屋中に小物や雑誌や衣服が散乱しており、あまり来客をもてなす部屋には見えなかったからだ。
 
地区長の大黒豪紀はアームチェアに陣取っていた。
 
タヌキ顔というのだろうか、丸い顔に小さな目をしている。体形も腹が出ていて、どことなくタヌキを彷彿させる。
 
「おお、よう来た了衛さん。まあ、掛けんさい」
 
この場合、掛けるとしたら対面にあるソファだろう。しかしそのソファは数カ所が破れているらしく、ガムテープで補修されている。無事なのは右隅なのでそこに座るしかない。
 
「あの、父の葬儀の時にはお世話になりました」
 
「うん。まあ何ちゅうても享保さんとこはお隣だしな。一人息子のあんたも不在では地区長のわしが取り仕切らんとどうしようもないだろう」
 
了衛の父親は病院で亡くなった。遺体の引き取りについては了衛が行ったが、火葬や葬儀となると地元から離れてずいぶん経つので要領が分からない。あたふたしている間に地区長の大黒が葬儀一切を仕切ってくれたのだ。
 
「それで今日は?」
 
「引っ越しの挨拶に来ました」
 
「おお、引っ越しの挨拶? ほう、それはご丁寧に。ところでそのなりはどうした」
 
「なり、ですか?」
 
「えらく軽装じゃな。あんたが前にいたところでは、自治会長とかへの挨拶はそんな服装で済ますんかい」
 
皮肉な物言いで、やっと大黒の言わんとすることが理解できた。
 
「あ、こ、これは」
 
「しかも引っ越しの挨拶じゃちゅうに手土産の一つもないとはな。やはり街から来たモンはしきたりには鷹揚とみえる」
 
ついさっき多喜が自分の手元を見ていた理由も今分かった。
 
「あの、すいません。わたし、全然気がつかなくって」
 
「了衛さん、中学まではここにおったんじゃろ」
 
「ええ」
 
「今、齢はいくつじゃ」
 
「三十九です」
 
「そうしたら二十年以上、こっちにはおらんかったということか。それでもなあ、戻って来たんなら、やっぱりここのしきたりを覚えた方がいいぞ」
 
了衛はしきりに頭を下げながら恐縮する。以前に住んでいたところと言われても、そもそも寮住まいだったから、そんな決まりなど存在しなかった。社員同士でも部署が違えば濃密な人間関係はなく、隣室の住人とは顔を合わせたことすらなかった。
 
「それはそうと了衛さん。あんた勤め人だったんか」
 
「はあ」
 
「どんな勤めさ」
 
「えっと……銀行、のようなものですね」
 
「何や、のようなものって」
 
「預金よりは資産運用とか投資が主たる業務でしたから」
 
了衛が社名を告げると、大黒は大袈裟に驚いてみせた。
 
「ほほう! その会社ならわしも知っとる。ようCMとか出とるなあ。そうしたら何や、了衛さんはエリートっちゅうことか」
 
「いやあ、そんな」
 
「そんなも何もあるかい。依田から他所に行った人間はいくらでもおるが、そんな大した会社に勤めておるんは了衛さんくらいのもんじゃぞ」
 
「別に、大したことないですよ」
 
「いーや、大したことだ。いったい給料はどんだけもらっておったんかね」
 
「えっ」
 
一瞬、何かの聞き間違いかと思った。まさか単なる隣人の関係で、そこまで突っ込んだことを訊かれるとは思ってもみなかった。
 
「えっ、じゃない。いったい給料はいくらだったと訊いとるんだ」
 
「あの……それって言わないといけないことなんでしょうか」
 
「言ったらまずいことなのかい? それとも言えないことなのかい?」
 
「そ、そういう訳じゃないんですけど、その、所謂個人情報というものなので……」
 
「はっ、個人情報ときたか!」
 
大黒が膝を叩くと、ちょうどそこに多喜がやって来た。
 
「あんた何よ、大きな声出して」
 
「いやな、今了衛さんに給料はいくらなのか訊いてみたら、それは個人情報だから教える訳にはいかんと言われてな」
 
「まっ、個人情報。何か大袈裟な話だねえ。そんなもの知られたところで誰か泥棒に入る訳でもないだろうに」
 
「そういうこと。最近は街の病院や図書館でも何かちゅうと個人情報だ。ふん、馬鹿馬鹿しい。誰がどの病室にいようがどんな本を読んでいようが、そんなに大層な情報なもんかねえ。ただ格好つけてるだけじゃねえのか」
 
「それがここと街の違いかねえ。ここじゃあ誰がどんな病気か分かってなきゃ面倒も看られんし、趣味が分かってなきゃ本の貸し借りもできんしねえ」
 
「その通りさ。大体の収入知らなきゃ近所付き合いの加減も分からんしな」
 
また意味不明の言葉が出てきた。
 
「近所付き合いの加減ってどういうことですか」
 
「どこかに誘う時でもな、そいつの懐具合を知らなかったら、逆に肩身の狭い思いをさせちまうことがあるんだ。ほれ、ここは高齢者が多いだろ」
 
「はあ」
 
取りあえずそう答えたが、住民全員の年齢を知っている訳ではない。葬儀の際に参列した面々がいずれも高齢者に見えたのをうっすらと記憶していただけだ。
 
「するとだ、当然生活保護で暮らしているヤツもいるって訳だ。そういうモンを気軽に呑みに誘えるかい? もし誘ったのが仇になってそいつの生活を困窮させたら、逆に迷惑になっちまう。こんな狭い場所で額くっつけるように生活してるんだ。個人情報もクソもあるかってんだ」
 
「本当よねえ」
 
二人の会話を聞きながら頭が混乱してきた。確かに一理あるだろうが、二人の物言いには、それ以前にプライバシーについての配慮がほとんど感じられない。

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