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ゴッホのあしあと#2


オランダ生まれのゴッホ

 ゴッホの人生を、時間軸に沿って辿ってみたいと思います。
 彼の生涯は三七年という、当時から考えても短いものでした。
 画家を志したのは二七歳。それから亡くなるまでの時間はたった一〇年です。うち、私たちが「ゴッホ」と聞いて頭に思い描く絵は、三二歳でパリに出て以降の約四年間に描かれたものでした。
 画家を志すまで、そして画家を志してからパリに出るまでの時期には、とりわけゴッホの紆余曲折の積み重ねが見て取れます。

一八五三年三月三〇日 オランダ ズンデルトに生まれる

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一八六九年七月~一八七六年四月(一六~二三歳)ハーグ、ロンドン、パリ グーピル画廊で働く

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一八七六年四月~一八八〇年八月(二三~二七歳)イギリス、オランダ、ベルギー 伝道師を志す

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一八八〇年八月(二七歳)美術に人生を捧げる決心をする

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一八八〇年八月~一八八六年二月(二七~三二歳)オランダ、ベルギー 画作を続ける

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一八八六年二月~一八八八年二月(三二~三四歳)パリ

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一八八八年二月~一八八九年五月(三四~三六歳)アルル

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一八八九年五月~一八九〇年五月(三六~三七歳)サン=レミ=ド=プロヴァンス

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一八九〇年五~七月(三七歳)パリ、オーヴェル=シュル=オワーズ

一八九〇年七月二九日 オーヴェル=シュル=オワーズにて永眠


 ゴッホの本名はフィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ。一八五三年、オランダのズンデルトという地方都市で生まれました。父のテオドルス(一八二二~八五年)は牧師で、母のアンナ・コルネリア(一八一九~一九〇七年)はハーグの豊かな家庭の出身。五人兄弟の長男として育ちます。
 子どもの頃のゴッホは癇癪もちで、兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていたそうです。親に無断で遠出することも多く、一日中、花や昆虫や鳥を観察していたといいます。一八八三年に弟のテオ(テオドルス・ファン・ゴッホ)に宛てた手紙には、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いています。
 オランダやイギリス、ベルギー、一時期パリに住んだこともあるのですが、三二歳でパリに出てくるまでは職も住む場所も転々としながら、一カ所に留まらない生活が続きます。

画商として働いた四年間

 一六歳のゴッホは、画商の叔父の紹介で、老舗の画廊・グーピル商会に就職します。父の薄給を知り、それならば他の職業に就くべきだという気持ちがあったのかもしれません。職業柄、多くの美術作品に触れる機会があり、その頃から少しずつ絵を描いていたようですが、プロの画家になるなど想像すらしなかったと思います。
 オランダのハーグ支店勤務中は、近くのマウリッツハイス美術館でレンブラント(一六〇六~六九年)やフェルメール(一六三二~七五年)などのオランダ黄金時代の絵画に触れ、美術に興味をもつようになったといいます。
 一回目の印象派展が、写真家ナダール(一八二〇~一九一〇年)のスタジオで開かれたのが一八七四年。この展覧会は、ブーダン(一八二四~九八年)、セザンヌ(一八三九~一九〇六年)、ドガ(一八三四~一九一七年)、ギヨマン(一八四一~一九二七年)、モネ(一八四〇~一九二六年)、ベルト・モリゾ(一八四一~九五年)、ピサロ(一八三〇~一九〇三年)、ルノワール(一八四一~一九一九年)、シスレー(一八三九~九九年)など、アカデミーの審査員が選ぶサロンに落選した、印象派の画家たち三〇名の作品で構成されていました。この展覧会は社会に全く受け入れられず、辛辣な批評家が、モネの《印象・日の出》(一八七二年)という絵のタイトルにかこつけて、「印象派」と揶揄して呼んだので、この名で知られるようになったのは有名な話です。
 この頃のゴッホは、まだグーピル商会で働いています。ハーグ支店、ロンドン支店、そしてパリ支店にも勤務していたので、印象派の噂は耳にしていたのかもしれません。
 しかし一八七三年、勤務先のロンドンで失恋したのをきっかけに、ゴッホは孤独感を募らせ、宗教への関心を深めていきます。聖書やキリスト教に関する書物を読み込み、知識を増やし、彼のインテリジェンスは刺激されます。その一方で、商業的なアートビジネスを追求するグーピル商会への反感を募らせていき、結果、パリ支店に来てから約一年でグーピル画廊を解雇されてしまいました。

牧師、放浪生活を経て、画家を志す

 その後、イギリスの寄宿学校で教師として、またオランダの書店で働くうちに、牧師になることを志します。
 ゴッホは社会主義者、あるいは共産主義者だった、という記録は残っていません。しかし、社会全体を等しく受け止め、諸処の問題を解決したいという願望はあったようです。ですから恵まれない人々のために働き、聖書の教えを説くといった行為が、その後の進路と直結していったようにも思えます。
 しかし、アムステルダム大学神学部への入学試験に失敗、宣教師学校も受講中に挫折し、一八七九年には、ベルギーのボリナージュという炭鉱町で独自に伝道をはじめます。しばらくは順調のようでしたが、常軌を逸した自罰的行動から、一時は認可された伝道師の仮免許と俸給が打ち切られます。そして放浪の末、実家に戻り、困窮状態の生活態度を案じた父に精神科病院に入院させられそうになり、ボリナージュに戻ります。
 いろいろな職を転々とし、社会の底辺にいる人たちと向き合い、聖職者の道に就こうと勉強もしたけれど、長続きしませんでした。思慮深い彼の精神状態は、どちらかといえばメランコリックな方向に転び、厭世観にとらわれやすい。鬱々とした天気が続くヨーロッパ北部で過ごした幼少期と青春時代が影響しているのでしょうか。その性格は、ゴッホにも、弟のテオにも同様に見られます。
 この頃からゴッホは、テオに生活資金のサポートを受けるようになります。周辺のスケッチを重ねるうちに絵を描きたいという気持ちが高まり、二七歳のとき、いよいよ画家を志します。テオのすすめで、オランダの画家ウィレム・ルーロフス(一八二二~九七年)のもとで絵を学んだり、ブリュッセル王立美術アカデミーに入学したりもしています。
 そして一八八一年四月、経済的事情もあってブリュッセルから自宅に戻り、両親と暮らしはじめました。自宅で田園風景や近くの農夫たちなど、身近な人々を主題として絵を描いていました。しかし、実家では両親をはじめ家族と上手くいかず、ハーグに出たり、実家に戻ったり。当時から、ピサロやモネなど明るく軽やかな印象派の作品に関心を注ぐテオと、バルビゾン派を手本として暗い色調の堅牢な絵を描くゴッホのあいだには、たびたび意見の対立が生じていました。

初期の暗い絵、ミレーに傾倒

 その頃の絵を見てみましょう。一八八五年に描かれた《じゃがいもを食べる人々》は、三二歳のときの作品です。初期の代表作ですが、ずいぶん暗い絵ですね。《ひまわり》を描いたゴッホのイメージとは全然違います。登場人物も、誰一人として笑っていません。同じ年に描かれた《籠いっぱいのじゃがいも》の絵はさらに暗くて、じゃがいもを食べる人間すらいない。じゃがいもオンリーです。セザンヌだったらリンゴを描いたのでしょうけれども、リンゴと比べてもじゃがいもは相当地味。きっと自分の周辺で描きやすいモチーフを探したら、じゃがいもぐらいしかなかったのではないでしょうか。
 堅牢な構図で安定感はあるのですが、色彩は暗くくすんで見える絵が多い。オランダやベルギーの地方都市で暮らしていたので、華やかな色彩のものが自分自身に入ってくることが少なかったのだろうと思います。
 さらに牧師になろうと模索していた時代があったゴッホは、信仰心が篤く、聖書の世界観を現実に置き換え追求していく求道者、もしくは哲学者のような一面がありました。ですから、とりわけこの時期、思慮深い作品を描いていたのだと思います。
 一八世紀以来、フランスでは新古典主義の影響下にあるアカデミーが美術界を支配しており、その公募展(官展)であるサロンが画家の登竜門として確立していました。古代ローマの美術を手本に、歴史や神話、聖書を描いた「歴史画」を高く評価し、その他の絵は低俗だと見られました。
 しかし一九世紀になると、その規範に従わない若い画家たちが次々に現れはじめたのです。
 まずは写実主義の画家たち。「見たこともない女神や天使を描くのではなく、自分の目で見ている現実のものをモチーフとして描こう」という気運が生まれ、新古典派のような歴史画ではなく、同時代の社会の現実をありのまま描こうとしました。カミーユ・コロー(一七九六~一八七五年)、オノレ・ドーミエ(一八〇八~七九年)、ジャン・フランソワ・ミレー(一八一四~七五年)、ギュスターヴ・クールベ(一八一九~七七年)などの画家たちです。
 特に一八三〇~七〇年頃、フランスのバルビゾンに集い、自然主義的な風景画や農民画を描いていた「バルビゾン派」の画家たちがいます。コロー、ミレー、シャルル=フランソワ・ドービニー(一八一七~七八年)などの名前が挙げられます。
 ゴッホも、弟のテオも、このミレーの絵に傾倒していました。ゴッホははじめてミレーの絵を見たときの驚きをテオ宛の手紙にこう記しています。「ミレーの素描の売立てがここパリであった。展示されているオテル・ドゥルオの部屋に入って行ったとき、こんなふうにいわれたような気持ちになった。〈靴を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる地なのです〉」
 ゴッホは画家への第一歩を踏み出した頃からミレーの作品を素描で模写していました。また、サン=レミ時代に描かれた二十数点の油彩画の模写も有名です。
 そこにはリアリズムの影響があると思います。村の農民たちの姿をスケッチし、じゃがいもを食べる人々を描く。自分の目で見た現実としての「じゃがいもを食べる人々」を描いた絵は、初期の傑作の一つといわれています。

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ゴッホのあしあと 原田マハ

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