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〈あの絵〉のまえで #4

窓辺の小鳥たち

秋の始まりを告げるように、夜半に雨が降り始めた。

ベッドに入ってからも、なかなか寝付かれず、何度も寝返りを打った。そのたびに、つま先をもぞもぞさせて、隣に横たわっている私の相方、小鳥遊音叉、通称なっしーの足首やかかとに触れてみる。身長が一九〇センチもあるなっしーの足先は、たいがい布団からはみ出している。それなのに、彼の足先は冷えることがなく、たとえ真冬でも、いつもカイロみたいにあったかい。

冷え性の私は、こうしてぬくぬくとなっしーの体にくっついて眠るのが日常の睡眠スタイルになっていた。真夏は暑苦しいと思うこともあったが、それでも彼の体温を隣に感じて眠る、その安堵感に勝るものはない。壊れた楽器のような豪快ないびきは、初めの頃こそうんざりしたが、こういう音色の楽器なんだ、ノイズミュージックなんだ、世界じゅうでただひとり私だけが聴くことができる私だけの眠りのBGMなんだ、などと自分に言い聞かせるうちに、不思議なもので、妙に愛着が湧いてきて、いまではこれがないと眠れないくらいだ。出張先でなかなか眠れなくて、そうだ今度なっしーのいびきをスマホで録音して持ってくればいいんだ、と思いついた。でも結局のところ、でっかい体と高めの体温といびき、この三点セットが揃っていないとだめなんだとわかっていたから、録音していなかったのだが。

そうだ、と私は、布団の中で目を開けた。録音しておこう、今夜がラストチャンスなんだから。なっしーのいびき。

枕元を手探りしてスマホのスイッチを押す。画面がふっと明るくなり、4:53と現在時刻が浮かび上がった。その数字をじっとみつめる。

なっしーのサンフランシスコ行きフライトは、十七時ちょうどの出発。

てことは、十二時間後には、なっしーは搭乗して、もうすぐ飛ぶ……ってところ。

私は? 私は何をしてるんだろう?

なっしーを見送りに成田まで行って、飛行機が飛び立つのをデッキで見届けて、ひとりさびしく空港を立ち去って、成田エクスプレスに乗って、誰もいないこの部屋に帰ってきて……このベッドに入って、スマホで録音したなっしーのいびきを、ポチッと再生するの?

「やだっ。やだやだやだ、そんなの、ぜったい、やだっ!」

声に出して言ってから、がばっと起き上がった。

なっしーを見ると、一ミリも動じずに、あいかわらず、グーッッ、ガーッッ。

「なっしー。ねえ、なっしー。ちょっと、起きてよ」

グーッッ、ガーッッ。

「起きてってば!」

耳もとで叫んだ。「ひゃっ!」とそこでようやく、なっしーが飛び起きた。

「何、なに? え、遅刻? ちこく? え、おれ今日シフトだっけ? あっ、やべ、店長に電話しなきゃ、電話でんわ……」

あわてて枕元のスマホを手に取った。ねぼけまなこで画面を見て、

「あれ? ……おれもう、店辞めたんじゃね?」

そうつぶやいた。

「そうだよ」私は不機嫌な声を出した。

「『すかいぴーく』、七年間勤め上げたファミレス。おとといが最終日だったでしょ」

なっしーは、薄暗闇の中でぼんやりした目を私に向けた。

「そうだった。で、なんだっけ?」

「私の知らないあいだにせっせとお金を貯めて」

「うん」

「そのお金で語学留学するということで。そのあと、ギターの勉強のためにアルゼンチンくんだりまで行っちゃうとかで」

「うん」

「明日……じゃなくて、もう今日なんだ。サンフランシスコへ飛ぶの」

「はあ」

「ひとりで」

「ほお」

「私を置き去りにして」

「なるほど」

「……って納得してる場合じゃないでしょっ!」

私はなっしーに飛びついて押し倒した。ぎゃわっとなっしーは踏んづけられたネコみたいな声を上げた。私はなっしーのパジャマの襟ぐりを引っつかんで、「なんで、なんでよ、ねえ、なんで!?」と揺さぶった。「うわっ、ちょっ、詩帆、なんだよ、急に……」となっしーは起き抜けにキレられて面食らっている。私は大きな体を揺さぶりながら、自分のほうがめまいがしてきた。

肩で息をしてベッドの上にへたり込んだ。なっしーは体勢を整えて、私の横であぐらをかいた。

「……行っちゃうの?」

しばらくして、私は小声で訊いた。なっしーはぐったりとうなだれている。

「ねえ、ほんとに行っちゃうの? 佐々木店長、困ってるんじゃないの? 最近外国人スタッフが増えちゃって、そんな中でなっしーがリーダーになってくれて助かるって言われたって、教えてくれたじゃない? いまからでも遅くないよ、アメリカだかアルゼンチンだか、そんな地の果てに行くのやめて、もう一回、店に戻ったら?」

なっしーは顔を上げた。そして、ぼそっと答えた。

「……送別会もしてもらったし、餞別までもらったんだから、いまさらそんなことできないよ」

「できるよ。いまの世の中、人手不足なんだし。ここまできたら『すかいぴーく』で正社員になって、頂点まで上り詰めたら? 私も応援するから。ね」

ね、ね、と私は、小学生の男子を説得するように、なっしーのがっしりした肩をやさしくさすった。なっしーは黙りこくってうつむいていたが、やがてぽつりとつぶやいた。

「……詩帆に、背中を押してもらったからだよ」

はっとして、肩から手を離した。私のほうを向かずに、なっしーはもうひと言、言った。

「一生ファミレスで働き続けるの? それが一生かけてやりたいことなの? って、詩帆に言われて……おれ、このままじゃだめだなって、思ったんだ」

それから私は息を止めて、なっしーの話に聴き入った。

それは、半年くらいまえのこと。ほんとうにひさしぶりに、平日の夜、うちごはんをしたときだった。

もともと料理が私よりもはるかにうまいなっしーは、根菜とえびの天ぷら、豚汁、さつまいものレモン煮、ごまとしょうがのご飯を用意して食卓をにぎやかに演出してくれた。私はご機嫌で、エプロンを外して席につこうとしたなっしーを捕まえて、ありがと、チュッ、とキスをした。なっしーは、図工の宿題をほめてもらった小学生の男子のように、肩をすくめて、うれしそうに笑った。

冷えた缶ビールで乾杯して、いただきまーす、豚汁、さつまいも、ん、おいしい、天ぷら、わ、さっくさくーと、次々料理に箸をつけ、ビール二本目をプシュッ、と開けたそのとき。

「おれ、『すかいぴーく』で正社員に推薦されることになったんだよ。店長が、いままでの働きを評価してくれて、店長会議のときに、本社の幹部に推してくれたみたいで……」

なっしーが言った。

彼は私と同郷の岡山出身で、地元の高校を卒業後、地元のIT専門学校を出て、岡山市内のウェブ制作プロダクションでプログラマーとして働いてお金を貯め、東京へやって来た。最初はやはりウェブ制作プロダクションに就職したものの、激務のあまり疲れ果てて、まったく違う職種に就きたいと、ファミレス「すかいぴーく」で、パートタイムで働き始めた。

大きな体に合う制服がなく、特注のシャツを作ってもらって、襟元にちっちゃな蝶ネクタイを留めて、やっぱり朝から晩まで働いた。だけど、店長の佐々木さんにかわいがられ、頼りにされて、スタッフを束ね、やりがいを感じていたようだ。大きな体を折り曲げて「ご注文を復唱させていただきます。ホワイトショコラのふわっふわパンケーキがおひとつ、はちみつたっぷりいちごのキラキラシェークがおひとつ……」と、心のこもったていねいで一生懸命な接客が評判で、ご近所の老婦人からは「孫みたいでかわいい」と言われ、幼稚園児からは「すかいぴーくののっぽさん」と呼び親しまれ、気がつけば七年間もの長きにわたって、無遅刻無欠勤を貫いた。

だから、正社員に推薦された──というのは、彼にとってはうれしいことだったに違いない。

にもかかわらず、私は、実のところその話題にあまり関心をもてなかった。心のどこかに(正社員っていったって、しょせんファミレスでしょ)という思いがあったのだ、きっと。

ふうん、と私は、箸をせわしなく動かしながら返した。

「で、どうするの? 正社員になるの?」

なっしーは、「うん、まあ……」と少し言葉を濁しつつも、

「いまより給料上がるし、店長にもなれる可能性が出てくるし……ほかの店に配属されるかもしれないけど……」

と、まんざらでもなさそうだった。そして、

「何より、生活が安定するからさ。そうしたらさ、そうしたら……おれらの生活も安定するじゃない? でさ、その……『新しい関係』に前進できるんじゃないかな?」

私は茶碗をテーブルに置いて、なっしーの目を見て訊いた。

「何それ? 新しい関係って?」

「だから」となっしーは、大きな顔を赤くして返した。

「おれら、高二のときから付き合ってるから、もう十五年になるだろ? 詩帆が大学時代はがんばって『遠距離』して、詩帆が卒業したときに、おれが岡山からこっちに引っ越してきて、一緒に住み始めて……もう十年近くだろ? そろそろ、あれだよ、その、節目っていうのかな……詩帆も言ってたじゃん、お母さんがまだ結婚相手みつからないのかって、帰省するたびにうるさいんだって」

その通り、私となっしーはかくも長年の付き合いではあるものの、私は彼と暮らしていることを──いや、彼の存在自体を両親に打ち明けられずに過ごしていた。

私の父は県会議員で、保守を人間のかたちにしたような人だ。専業主婦の母はさらに口うるさく、私のスマホにお見合い相手の写真を送りつけるのが最近の日課のようになっている。私はきゅうくつな両親のもとから逃れたくて、東京の大学を受験した。文句を言われたくなかったから、超難関の国立大に挑戦した。そして合格した。さすがに両親は喜んで送り出してくれた。

私は要領よく勉強できるタイプだった。だから、難関大学に受かって、誰でも名前を知っている一流企業に就職する、ということが当面の目標だった。学者になりたいとか、専門家になりたいとか、将来起業したいとか、何かを極めたい、という具体的な夢があったわけではなかった。唯一の望みがあるとすれば、口うるさい両親のもとを離れて、東京で悠々と学生生活を送り、要領よく就活を乗り切ることだった。高校生のときから現実を見据えて進むタイプだったんだと思う。だからこそ、ロマンチストで、自分の夢をひそやかに胸に抱いているなっしーに惹かれたのかもしれない。

もし第一志望校に合格しなかったら、第二志望の地元の大学に行って、親には秘密でなっしーと付き合い続ける──というオプションを考えていた。なっしーと離ればなれになるのはさびしかった。だから、第一志望は落ちたほうがいいかも、そのほうがいいかもと思い始めていた矢先に、合格の知らせが届いたのだった。

第一志望に合格したんよ、と、うれしさとがっかりが半分半分の気持ちでなっしーに打ち明けると、なっしーは、おめでとう、さすが詩帆じゃな、もんげえが、と引きつった笑顔を作っていたが、そのうち決壊した。泣いて泣いて、詩帆がおらんようになったら、おれどうしたらええんじゃと、それはもう豪快に、男泣きに泣いた。

私ももちろん泣いた。私たちは離れがたい思いで、その日、初めてラブホテルに行った。

付き合って一年半、まだキスしかしたことがなかった。お互い初めてだったから、ちゃんとできなかったけれど、とにかくふたり、気持ちを確かめ合った。なっしーはぎこちない腕枕をしながら、遠距離で続けよう、詩帆が大学卒業したら迎えに行くけ、とささやいた。

──大事なことじゃから、なかなか口にできんかったけど……おれ、詩帆が好きじゃ。おれには詩帆だけじゃけ。

その言葉に、私はすっかり捕まってしまったのだ。

約束通り、私が大学を卒業するのと同時に、なっしーは東京へやって来た。私は親には内緒でなっしーと同居を始めた。もう岡山に帰らなくってもええんじゃな、夢みたいじゃな、夢じゃねえんじゃな、な、な? と、なっしーは、それはもううれしそうだった。

彼は私と結婚するつもりでいた。私もなっしーのことをとても好きだった。けれど私は大手広告代理店に就職したばかりで、すぐ結婚、というわけにはいかなかった。もう少し待って、職場に慣れるまで。あともう少し、配属が変わるまで。もうちょっと、役職がつくまで──と、気がついたら九年も経ってしまっていた。

なっしーは、自分がアルバイトのうちはダメだけど正社員になったら結婚しよう──と言いたかったのだろう。でもぎくしゃくと、安定だの、節目だの、親にうるさく言われてるんだろ、だの、あれこれ遠回しに言うばかりで、肝心のひと言を言ってくれなかった。が、ひょっとすると私は、肝心のひと言を言わせない雰囲気を醸し出していたのかもしれない。なっしーのことはもちろん好きだけど、結婚というのとはちょっと違う──と、心のどこかで、この九年間、距離を置き続けてきた気がする。

私はなっしーが好きだった。にもかかわらず、親にも、会社の同僚にも紹介したことはなかった。学生時代の友人の何人かは知っていて、一途に私を思って東京まで追っかけてきた彼の健気さに「そんな人いまどきいないよ」と感心していた。私だってそう思う。こんな人、ほかにはいない。一生、一緒にいてもいい。だったら、たとえ親に反対されたって、結婚すればいいじゃないか。けれど、そういう気持ちにはどうしてもなれなかった。

「あのね。正社員っていうけど……一生ファミレスで働き続けるの?」

なっしーの手料理をすっかり平らげてから、私はおもむろに尋ねた。

「それが一生かけてやりたいことなの?」

質問を投げかけたとたん、なっしーの顔いっぱいに広がっていた光に影が差した。彼は、すぐには答えられなかった。何かもごもごとつぶやいたが、それきり口ごもってしまった。

そして──なっしーの背後、ダイニングの片隅の定位置に、黒いギターケースがひっそりと静まり返って鎮座しているのを視界の端にとらえながら、私はさらに言ったのだ。

「一生かけてやりたかったことって、ほんとはギターじゃなかったの? あんなに夢中だったのに……最近、調弦もしてないでしょ?」

なっしーは押し黙ってしまった。そこ黙るところじゃないでしょ、と私は、心の中で彼をなじった。

一生かけてやりたいこと、それをはっきり言えない人とは結婚なんてできないと、私はなっしーと結婚しない理由を彼の態度にみつけたのだった。

◇  ◇  ◇

〈あの絵〉のまえで 原田マハ

あの絵

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