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くせもの揃いの店子たち…いま最注目の時代小説作家が放つ新シリーズ、開幕! #5 うつけ屋敷の旗本大家

大矢家当主・小太郎は、堅物の朴念仁。甲府から五年ぶりに江戸へ帰ると、博打で借金を作った父・官兵衛が、返済のために邸内で貸家を始めていた。しかも住人は、借家で賭場を開くゴロツキや、倒幕思想を持つ国学者などくせもの揃い。そんなとき、老中から条件つきで、小太郎の出世を約束してもらうのだが……。

「三河雑兵心得」シリーズで、『この時代小説がすごい! 2022年版』文庫書き下ろしランキング第1位に輝いた井原忠政さん。『うつけ屋敷の旗本大家』は、そんな井原さんが放つ新シリーズです! ファン待望の本作、特別にためし読みをお届けします。

*  *  *

「父上、貸家は六軒と仰いましたね」
 
「おう。武士に二言はねェよ」

「ひい、ふう、みい……」
 
小太郎は指折り数えてみた。博徒、歌舞伎役者、国学者、蘭方医、絵師――六軒の貸家に対して店子は五人だ。
 
「最前、全戸満杯だと仰いましたが、店子は現在五人ですよね?」
 
「や、実はもう一人いるんだ」
 
と、声を潜めて顔を近づけた。
 
「何者です?」
 
「うん。元は辰巳芸者だ」
 
辰巳芸者とは大川の東、深川の芸者衆を呼ぶ。御城から見て「辰巳の方角」にあるからそう呼ばれた。
 
「名は佳乃。別嬪の姐さんだが……ちとワケアリでな」
 
「ま、まさか父上の?」
 
と、小指を立ててみせた。
 
「そんなんじゃねェよ馬鹿。実はな……」
 
と、官兵衛はさらに声を潜め、小太郎の耳元に囁いた。
 
「さる大名のお妾なのさ」
 
「ほう。芸者が大名のお妾ですか?」
 
「筆頭老中、本多豊後守よ」
 
そう小声で言ってニヤリと笑った。
 
「ああ、なるほど……なるほどね」
 
これですべての謎が解けた。
 
豊後守も大名なのだから、女が欲しければ堂々と側室を設けるとか、奥女中を閨に呼ぶとかすればいいはずだ。しかし、豊後守の正妻は先代将軍の息女。美貌だが、かなり悋気が強いらしい。現在、筆頭老中として権勢を揮えるのも「先代将軍の娘婿」の肩書があってこそだ。もし正妻を怒らせ、最悪離縁ともなれば、政治的には死を意味しかねない。それで、こそこそと古い剣友の家に妾を囲い、束の間の逢瀬を楽しんでいる。つまり、そういうことだ。
 
「で、父上が私を江戸に戻すようにと、御老中に掛け合われたわけですね」
 
「まあな。俺ァ老中の弱みを握ってるってわけよォ。怖い物なしさ。矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ」
 
「大丈夫ですか?」
 
江戸に戻れたのは有難かったが、父の増上慢は、小太郎に一抹の不安を搔き立てた。なんでも楽観的なお人なのだ。
 
「北条政子は、郎党たちに命じ、夫頼朝の妾宅を焼き討ちさせたと申しますよ」
 
先代将軍の息女が現在、如何ほどの権勢を持っているのか知らないが、頼朝の妻に倣って、この屋敷を焼き討ちされては断じて困る。
 
「いずれにせよです」
 
小太郎は威儀を正して座り直した。
 
「そのお妾のお蔭で、私は甲府勤番から江戸へと戻れたわけですから、ここは前向きに捉えましょう」
 
「オイラも、頑張ったんだぜ?」
 
「や、勿論です。父上には感謝しております」
 
ただ、元々小太郎が甲府へ赴いたのは「官兵衛の身代わり」だったわけだ。父はもうそんなことは疾うに忘れているのだろうが。
 
「ま、折角建てた貸家、なんとか経営に目鼻を付け、少しずつでも借財を返していければと思います」
 
「よく言った。さすがはオイラの倅だァ。嬉しいねェ。一つ今宵は、お前ェの江戸帰参を祝って、親子でパアッと飲むか?」
 
「御相伴しますが、贅沢はいけませんよ。肴は漬物で十分です」
 
「こらァ小太郎、吝臭ェこと抜かすない!」
 
「でもね、父上……」
 
今後は六軒で月当たり十二両、一年で百四十四両(約八百六十四万円)の家賃収入が見込める。これは禄高四百十一石の武士の年収に相当する。ま、かなりの金額だ。しかし――
 
「山吹屋に六百、相模屋に八百、都合千四百両(約八千四百万円)の借財がございます。これに金利がつきますから、ざっくり倍の金額を返すことになる。家賃収入を全額返済に充てても二十年はかかる計算ですぞ」
 
「に、二十年かい……オイラ、六十三だなァ」
 
「ですから父上、節約は欠かせぬと申し上げております。肴は漬物で上等です」
 
「参ったなァ」
 
と、道楽者の父が頭を垂れ、切なげに首筋を搔いた。


「た、救けてくれェ」
 
一間(約一・八メートル)四方もありそうな巨大な賽子が転がり、まさに圧し潰されそうになった刹那、目が覚めた。
 
チュンチュン。チュンチュン。
 
障子越し、庭で遊ぶ雀の声が聞こえてくる。夜具の上、小太郎は大の字となり横たわっていた。
 
(妙な夢だったな……さすがに疲れておるのだろう)
 
見上げる天井の杉板の木目には見覚えがあった。子供の頃から眺め続けた複雑な模様だ。のたうつ竜にも、川の流れにも見える。
 
(川の流れか……)
 
ふと、甲府を流れる釜無川河畔で、足を洗っていた農家の娘が思い出された。程よく陽に焼け、すらりと姿のよい少女だった。土手の上から小太郎が見ているのに気づくと、慌てて身繕いを整え、恥ずかしげに微笑み、コクリと会釈してみせた。その後も幾度か見かけ、その都度会釈を交わしたが――それだけ。結局、名も訊かず、言葉も交わすことなく、小太郎は甲府を離れることになった。
 
「縁がなかったのだ。ま、仕方ない」
 
と、小さく呟き、身を起こしかけた刹那、酷い頭痛に襲われ、小太郎は思わず蟀谷を押さえた。
 
(昨夜の酒か……)

父と用人の小栗門太夫、若党の瀬島修造の三人が、小太郎の帰参祝いをやってくれたのだ。節約のため、あらかじめ「酒は四人で一升まで」と決めて飲み始めたのだが、途中から、借家人の歌舞伎役者が、徳利を両脇に抱えて乱入、結局、五人で四升を飲み干した。小太郎が飲んだのは精々五合足らずだが、あまり酒が強くない性質だから、宿酔するのに十分な酒量と言えた。
 
ちなみに、大矢家の奉公人は十人で、その内、門太夫と瀬島だけが武士階級に属する。二名いる下女を含め、残りの八人は中間と小者だ。昨夜彼らには、小太郎から一升徳利を下賜、厨の板敷きで別途酒盛りを開いていた。
 
「あ、そうか……なるほどね」
 
布団の上に胡座をかいた小太郎、小声で呟き頷いた。
 
役者が、徳利持参で乱入したのは、官兵衛が厠に立った直後であった。父のことだから、小便のついでに、酒好きの円之助に一声掛けたのだろう。酒好きでは絵師の偕楽も人後に落ちないが、円之助と二人で飲むと喧嘩を始めるらしいから、声を掛けなかったようだ。
 
どうりで「酒は四人で一升まで」に、父が強く反対しなかったわけだ。最初から円之助を呼び込む積りだったのだろう。まったく、抜け目がない親父だ。
 
普段は思想が大雑把で、万事抜けている官兵衛だが、酒と博打と女が絡むと、なぜだか悪知恵が働くし、機敏に動く。
 
(円之助は無類の酒好きだ。偕楽も嫌いじゃないようだ。父上に近づけるとろくなことはないな。覚えておこう。他に、老中の妾、博徒の親分……後二人は、あ、蘭方医と国学者だ。ま、医者と学者なら、そうそう変な奴でもあるまい)
 
と、高を括った。
 
ゴソゴソと起き出し、身形を整え、障子を開けて広縁に出た。
 
清々しい初秋の朝である。
 
グッと伸びをしたのだが、すぐ目の先は無粋な板塀で塞がれており興冷めだ。錦鯉が泳ぐ泉水は埋められ、築山は崩され、所狭しと貸家が立ち並んでいる。今や庭と呼べるのは、十坪ほどであろうか。その十坪も、貸家が六軒とも二階屋なことで陽当たりが悪く「何をどこに植えても育つ」という環境にはないらしい。石組みを囲むように柘植や山茶花を植え、根締に千両、龍ノ髭、ツワ蕗などを設えている。日陰を好む植生を並べて、なんとか体裁を整えていた。
 
並んだ貸家の玄関先を、粗末な身形の若い娘が、竹箒で掃いている。姿形がどことなく釜無川の少女に似ており、小太郎の心は騒めいた。広縁に出てきた家主に遠慮したか、娘は掃除を止め、こちらに深々と一礼して家の中に入ってしまった。三軒並んだ真ん中の家だ。
 
(あそこは確か、老中の妾の家だ。つまりあの娘、妾が使っている女中か小間使いということになるのかな)
 
「殿」
 
若党の瀬島が広縁に畏まった。
 
若党は、足軽の上、徒士の下に位置付けられる武家奉公人である。武士としては最下層の範疇に入るが、貧乏旗本の大矢家では、主人や用人の命を受け、他の奉公人を指揮統率する重要な役目を担っていた。頭脳も剣術も容姿も一流からは程遠いが、誠実で真面目な男だ。
 
「雉子橋御門へは、五つ(午前八時頃)前に参りませんと」
 
「うん。父上は?」
 
「現在、お召し替えをなさっておられます」
 
雉子橋御門とはこの場合、老中本多豊後守の上屋敷を指す。老中の登城は朝の四つ(午前十時頃)と決まっているから、その前に、面会を済ませておこうというのだ。面会といっても、父と二人で伺候し、帰参の挨拶と御礼、今後の出仕を願うだけだからすぐに終わる。
 
「お召し替え、お手伝い致しましょうか?」
 
「や、自分でやるよ。それより、供は中間三人だ。馬には乗らん。徒で参る。槍は喜衛門に持たせよ」
 
「委細承知」
 
と、一礼して瀬島は去った。父と自分にそれぞれ草履取りが一人ずつ。父は隠居の身だから槍は不要だろう。大矢家にいる馬は暁が一頭だけだから、自分が騎乗でいくと父を歩かせるはめになる。総じて、若党に命じた通りで大丈夫だろう。
 
小太郎は、自室に戻り、簞笥から熨斗目と裃を取り出し、手慣れた様子で着付けを始めた。母は長患いの末、小太郎が十四の折に亡くなった。自分が死ぬと家に下女以外の女手がなくなることを案じ、小太郎に、裃の着付けやら、簞笥への仕舞い方、簡単な裁縫までを、咳をしながら丁寧に教えてくれたものだ。遊び人で浪費癖のある夫の不満を口にすることもなく、静かに生き、静かに逝った母の人生――今では、息子である自分が、人として、武士として、大矢家当主として、恥ずかしくない生き方をすることが、なによりの供養だと思いなしている。
 
(母上のお墓にも、帰参の報告に行かねばな)
 
扇子を帯に差し、背筋を伸ばし、ポンと下腹を叩いて気合を入れた。

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