見出し画像

虹さがしの冒険へ…疲れた心にやさしさが染み入る感涙小説 #3 虹の岬の喫茶店

小さな岬の先端にある喫茶店。そこでは美味しいコーヒーとともに、お客さんの人生に寄り添う音楽を選曲してくれる。その店に引き寄せられるように集まる、心に傷を抱えた人々。彼らの人生は、その店との出逢いと女主人の言葉で、大きく変化し始める……。

『ふしぎな岬の物語』のタイトルで映画にもなった、森沢明夫さんの小説『虹の岬の喫茶店』。疲れた心にやさしさが染み入り、温かな感動で満たされる……。そんな本作から、第一章「《春》 アメイジング・グレイス」をお届けします。

*  *  *

「どう? 美味しいかな?」
 
私は希美の顔を覗き込んだ。

「うーん」
 
「やっぱ、不味いか……」
 
「はじっこはちょっと苦いけど、真ん中は美味しいみたい」
 
美味しい、みたい、か。
 
「そ、そうか……。パパ、失敗しちゃったか。ごめんね」
 
「ううん。ママだって失敗したことあるよ。真ん中は、大丈夫だし」
 
四歳の娘に慰められている。
 
「そっか。じゃあ、とりあえず、周りのところはパパがナイフで切ってあげるよ。真ん中だけ食べてくれるかな?」
 
「うん」
 
にっこりと無理に笑顔を作ってくれる娘の優しさに救われつつも、小さくため息をつきながら、私はフレンチトーストの耳を切り落とした。そして、希美の前にその皿を差し出したときに、小さな唇からちょっと控えめな声が聞こえてきたのだ。
 
「パパ……。わたしの、半分食べる?」
 
「え?」
 
「だって、パパの、真っ黒焦げなんだもん」
 
そんな、どうにも情けない父親っぷりを、額のなかの小枝子が笑いながら見下ろしていた。
 
食後の片付けを終えると、私たちはリビングの床に寝そべった。そして、約束通り『ミミっち』を読み聞かせた。
 
この絵本の主人公「ミミっち」は、希美のパジャマにプリントされている白黒模様のうさぎだった。物語のなかで胸のときめくような出来事があると、「ミミっち」は母うさぎに「ほら、ハッピーのどきどき」と言いながら、自分の胸を指差す。すると母うさぎは、その長い耳を「ミミっち」の胸に押しあてて「ホントだ。ミミっちのどきどきがママにも伝わって、一緒にハッピーになれたよ」と答えるのだ。そして希美はよく、この絵本を読み聞かせてくれる小枝子に、自分の鼓動を聞かせていたのだった。
 
「はい、おしまい」
 
絵本を読み終えた私は、パタンと音を立ててページを閉じた。そして、満足げな表情を浮かべている娘に訊ねてみた。
 
「なあ希美、今日から九日間も幼稚園がお休みになるんだけど、何かしたいことある?」
 
希美は「うーん」と小首をかしげて、しばらく腕組みをしたと思ったら、「ちょっと、おしっこ」と言ってトイレに駆け込んだ。そして、リビングに戻ってきたとき――、いきなり窓の外に向かって「あっ!」と声をあげたのだった。
 
口と目をまんまるに開けて、まるで宝物でも見つけたような顔をしている。
 
「パパ、ほら、すごいよっ!」
 
「ん、どうした?」
 
私はのそのそと起き上がって、希美の指差す窓の外を見た。
 
そして、息を呑んだのだ。
 
「おお。すごいなぁ、これは……」
 
虹だった。雨はいつの間にかあがっていて、新鮮な朝日を受けた西の空に見事な七色のアーチが架かっていたのだ。
 
「朝の虹って、はじめて見た気がするな」
 
言いながら私は希美を抱きかかえて窓を開け、ガラスを通さずにクリアな虹を眺めた。
 
窓の外からは、雨上がりの清々しい朝の空気がどっとなだれ込んでくる。
 
「気持ちいいなあ。希美、深呼吸しよう」
 
虹を見ながら、二人で胸いっぱいに光り輝くような空気を吸い込んだ。すると、希美がふいに私を見て言った。
 
「ねえパパ、虹って何で出来てるの?」
 
「ええと、プリズムっていうか、まあ、お日様の光だね……」
 
「お日様の、光?」
 
「うん。七色の光だよ」
 
「光が橋になって、あそこにあるの?」
 
「そう。あるんだよ。不思議だよね」
 
あらためて考えてみると、本当に不思議に思えてきた。太陽光とは、そもそも照らされた物体の色を見えるようにしてくれる光であって、それ自身は透明な存在であるはずだ。でも、その見えないはずの透明な光が七つに分かれたとたんに虹となり、あたかもそれが物体として存在するように見えるのである。
 
「あの虹に、さわってみたいなあ」
 
「虹に?」
 
「うん。あそこの茶色いビルの向こうに行けば、さわれそうじゃない? パパの車ならすぐに行けるよね?」
 
「行けるけどさ。でも、行ったときにはもう虹は消えて、別のところに行っちゃってるんだよ」
 
「どうして?」
 
「うーん、虹って、そういうものなんだ」
 
「じゃあ、追いかけて捕まえようよ。パパの車、速いんでしょ」
 
希美は溢れ出す好奇心で黒目をつやつや輝かせていた。娘のこういう表情を見るのは、なんだかとても久し振りな気がした。
 
「ねえ、パパ」
 
「ん?」
 
「ほら、ハッピーのどきどき」
 
希美は自分の胸をチョンチョンと指差した。
 
私は目を細めて、その小さな胸に耳をあてた。
 
とくとくとく……と、大人よりもかなり速いリズムで、小さな心臓が懸命に拍動している。
 
希美の、溌剌とした生命の音色――。
 
思えばその音色は、小枝子の生きた証しそのものだった。
 
私は顔をあげた。
 
そして再び清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 
「よし。これからパパと一緒に、虹さがしの冒険に行こう」

車を路肩に停めて、私と希美はまだ濡れたままの歩道に降り立った。雨上がり特有の、埃っぽいような、どこか懐かしい匂いがする。
 
二人で、澄み切った青空を見上げた。
 
目の前にそびえ立っているのは、虹のたもとにあった、あの茶色いビルだった。
 
当たり前だが、そこに虹があるはずはない。
 
「あーあ。虹に逃げられちゃったね」
 
希美が眉毛をハの字にした。
 
「うん。虹は逃げ足が速いのかもな。でも、追いかけるんだろ? どっちの方向に行く?」
 
私は、希美の頭にそっと手を置いて訊ねた。
 
これから先は、希美が行きたいと言った方向に、どこまでも進んでみるつもりだった。右に曲がれと言われれば右に曲がり、左に曲がれと言われればその通りにする。途中に遊園地があったら遊んでもいいし、レストランがあればご飯を食べてもいい。海でも川でも山でも、面白そうなところがあれば、どこにだって寄り道をする。とにかく、行く先は希美の直感まかせ。そういう行き当たりばったりの旅をするつもりだった。
 
「パパはどっちだと思う?」
 
「そうだなあ。来る途中に、虹はなかったから、少なくとも、こっちではないと思うよ」
 
「そっか。じゃあ、あっちかな」
 
「よし、オッケー。行ってみよう」
 
希美が指差したのは南の方角だった。私は中古で買った八人乗りの日産セレナを国道に乗せ、南に向けて走らせた。
 
希美は助手席のチャイルドシートにすっぽりとおさまって、目の前に現れては過ぎ去っていく目新しい風景を飽きずに眺めていた。
 
後部座席に積んだ旅の荷物は、いたってシンプルだった。数日分の着替えと、去年ディスカウントショップで購入したまま一度も使っていない寝袋を二つだけ。適当な宿が見つからなかったら車中泊をするつもりだった。セレナの後部座席のシートを倒してフラットな「お座敷」状態にしてしまえば、二人が寝るスペースくらいは充分にあるのだ。
 
「ねえ、パパ。何かCDかけて」
 
「いいね」
 
私はデッキに入っているCDをそのまま再生してみた。
 
すぐに、爽快な音がスピーカーから流れ出す。
 
ツインギターの心地よい前奏――。
 
小枝子が大好きだったスピッツの『春の歌』という曲だった。清々しい未来を思わせるようなその前奏を聴きながら、しかし、そのとき、私は自分の鼓動のリズムが乱れていくのを感じていた。
 
小枝子が、最後にこの車で聴いていた音楽は、きっとこのCDだったのだ……。
 
私は、ごくりと唾を飲み込んで、歌詞にじっと耳を傾けた。
 
そして、すぐに自分の耳を疑った。
 
驚いたことに、その言葉の連なりは、まるでいまの私にとっての「応援歌」そのものだったのだ。とりわけ二番の歌詞は、胸が痛くなるほどだった。もしかすると小枝子が、この世に残された私のために、車のデッキにこのCDを入れておいてくれたのではないか――そんな胡散臭い話を信じたくなるほどに、ヴォーカルの甘酸っぱい声が栄養たっぷりな言葉のシャワーとなって、私の胸の芯に注がれていくようだった。
 
「これ、ママの大好きな歌だね」
 
フロントガラスの向こう、高い青空を見詰めたまま希美が言った。「好きだった」と、過去形で言わないところが、希美の心情をそのまま表しているようで、私はうっかり声を詰まらせてしまいそうになった。
 
「そうだよね。気持ちのいい歌だね」
 
平静を装い、前を向いたまま答えた。
 
「うん。希美も好き」
 
「パパも、好きだよ」
 
国道の流れは順調だった。『春の歌』が流れている間は、私も希美も言葉を発しなかった。車のなかに、なんとなく小枝子の存在を感じていたのだ。きっと希美も同じ感覚を抱いていて、その感覚をずっと味わっていたいから、しゃべらないでいるのだろう。
 
進行方向の信号が、うまい具合に連続して青に変わっていく。私はブレーキを踏まずに、このままどこまででも行けそうな、そんな不思議な気分になりつつあった。
 
ステアリングを握ったまま、ちらりと希美の横顔を見た。希美はまだ、遠くの空を眺めたままだった。唇のはしがきゅっと上がっていて、なんだか希望に満ちた未来へ進もうとでもするかのような、凛とした表情をしていた。そして、その表情がまた、小枝子とよく似ているのだった。
 
「ママのこと、この車でお迎えに行けたらいいのにね」
 
ふいに希美がこちらを振り向いて言った。
 
「……そうだね」
 
また赤信号が青になった。私はずっとブレーキを踏まずに走り続けている。
 
「ママは、お空に行ったんでしょ?」
 
「お空?」
 
「うん。栃木のおばちゃんが言ってたよ」
 
小枝子と同い年で、とても親しくしていた従姉妹だ。
 
「お空か。うん、そうだな。天国は光の国だから、きっとお空だとパパも思うよ」
 
「飛行機に乗ったら、会いに行けるの?」
 
ついに赤信号につかまったか――そう思ってブレーキに足をかけようとしたら、その瞬間、また青に変わった。車は見えない糸に引っ張られるように、どんどん前へ、前へ、と進んでいく。
 
「光の国には、飛行機でも行けないんだよ」
 
「そっかぁ。じゃあ、光の虹を登っていったら?」
 
「虹を登ったら、か――」
 
子供の発想のユニークさにしみじみ感動していたら、ようやく赤信号につかまった。
 
助手席を見ると、希美は切実な目でこちらを見上げて、私の答えをじっと待っていた。
 
「うん。虹に登れたら、もしかすると行けるかもね」
 
「そっかぁ」
 
希美は明るいため息のようにそう言って、再び小枝子とよく似た微笑みを口元に浮かべた。

◇  ◇  ◇

連載はこちら↓
虹の岬の喫茶店


紙書籍はこちらから

電子書籍はこちらから

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!