見出し画像

カネは何度でも脱皮を繰り返す…橘玲さん渾身の国際金融情報ミステリー! #5 タックスヘイヴン

シンガポールのスイス系プライベートバンクから1000億円が消えた。ファンドマネージャーは転落死、バンカーは失踪。マネーロンダリング、ODAマネー、原発輸出計画、北朝鮮の核開発、仕手株集団、暗躍する政治家とヤクザ。名門銀行が絶対に知られてはならない秘密とは……。

ベストセラー『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』などで知られる橘玲さん。『タックスヘイヴン』は、そんな橘さんによる国際金融情報ミステリー小説です。姉妹作品である『マネーロンダリング』『永遠の旅行者(上巻)』『永遠の旅行者(下巻)』とあわせて、お楽しみください!

*  *  *

午前九時をすこし過ぎた頃、ビルの裏口が開いて、仕立てのいいスーツ姿の男が先ほどの運転手を連れて現われた。銀髪で、縁なしの上品な眼鏡をかけている。

画像1

「お久しぶりです。相変わらずお元気そうですね」流暢な日本語で古波蔵に挨拶すると、助手席に回ってドアを開けた。「お待たせしてすみません。お疲れでしょう」と、降りてきた堀山の右手を両手で包み込むように握手する。

古波蔵が車のトランクを開けると、男は運転手にスーツケースを運ぶよう指示し、二人をビルの裏口に案内した。ここは地元の信用金庫で、男は支店長だ。

エレベータで最上階の支店長室に上がる。豪華なソファに腰を下ろしたとたん、明らかに整形とわかるモデルのような容姿の秘書がコーヒーを運んできた。調度品は李氏朝鮮時代の古美術でまとめられ、壁に頭取らしい男の肖像画が掲げられている。この信用金庫も通貨危機の混乱のなかで慶尚南道出身のパチンコチェーン・オーナーが買い取ったもので、香港の投資会社を通じて所有されていた。

応接室の奥が幹部用の会議室で、支店長室から直接出入りできるようになっていた。重厚なマホガニーの大テーブルに紙幣カウンターが並んでいる。

「お忙しいでしょうからさっそく始めましょうか」支店長が内線で呼び出すと、五人の若い行員が会議室に入ってきた。

「ここで紙幣を数えさせていただきます」

スーツケースは鉄鎖のベルトで厳重に施錠されていた。支店長に促されて堀山がライフベストから鍵束を取り出す。

スーツケースを開けると、ビニール袋に包んだ札束が出てきた。支店長は行員に鋏を持ってこさせ、慣れた手つきで袋を開いていく。一万円札が、だいたい五等分になるように無造作に大テーブルに置かれた。

行員たちは紙幣カウンターを使って一〇〇万円を一束にして輪ゴムでまとめ、それを一〇束、一〇〇〇万円ずつ積み上げていく。一時間足らずで五〇の山ができた。

「端数がすこし出たようですね」支店長が一万円札を何枚か堀山に渡した。「おそらく最初から多かったのでしょう」

「そうでっか。なんか得した気分でんな」堀山は破顔して受け取ると、分厚い長財布に収めた。

支店長は行員たちを部屋から出すと、紙幣カウンターを一台、堀山の前に置いた。

「すべて確認するのは時間のムダですから、いくつか選んで、たしかに一〇〇枚あるか調べてください」

「そんなんよろしいですわ。信用しまっさかい」

支店長は「それは困ります。規則ですから」と、強引に堀山に紙幣カウンターを握らせた。けっきょく、山のなかから三束取り出して枚数を確認した。

「たしかに日本円で五億円ということでよろしいですね」堀山の同意を得ると、支店長は古波蔵を見た。

古波蔵は現金の山から五束、五〇〇万円を支店長の前に置いた。

「このところ韓国も海外送金にうるさくなってきましてね」支店長は大袈裟にため息をついた。「李明博政権でマネーロンダリング規制が厳しくなって、大統領が替わればなんとかなるかと思ったらますます窮屈になるばかりです。謝礼を届ける先ばかり増えて、もうすこしいただかないと……」

二束、追加した。支店長は自分の席から大きな鞄を持ってくると、七〇〇万円を無造作に投げ込んだ。

古波蔵はそれとは別に、船の運賃として二束を取り置いた。これで残りは四億九一〇〇万円になる。

「全額をユーロに両替して、ヨーロッパに送金してくれ」古波蔵はジャケットの内ポケットから送金指示書を取り出し、支店長に渡した。送金先は、堀山がリヒテンシュタインの銀行に保有している法人口座だ。

支店長はスマートフォンで今日の相場を確認し、電卓を叩いた。「ユーロのTTS(対顧客電信売レート)は一四〇円四五銭ですから、およそ三五〇万ユーロになりますね。正確な金額は午後三時にならないと確定しませんが」

電卓をテーブルに置くと、スーツの内ポケットからモンブランのボールペンを取り出し、指示書を見ながら送金伝票に記入していく。

「外国に送金するには、このカネをどこかの口座に入金せないかんちゃうん?」堀山が不思議そうに訊いた。日本では、顧客名義の口座からしか海外送金できないからだ。

この信用金庫は、そもそも海外送金を扱う資格を持っていない。そのため大手の外為銀行のなかに信用金庫名義の口座を持ち、そこから海外に資金を送ることになる。

外為業務を委託されている大手銀行は、金融機関同士の取引として日本円をユーロに両替し、海外送金する。その際、大手銀行に資金の真の所有者を確認する義務がないことを利用して、信用金庫の業務用口座で一時的に資金を受け入れて匿名で処理している――古波蔵はそう説明した。

画像2

「ほなら、ワシの名前はどこにも出てこんいうこと?」堀山が感嘆の声をあげた。

手間暇かけて韓国に密入国して、銀行の書類に記録を残したのではなにをやっているのかわからない。韓国の金融当局が調べても資金がヨーロッパの法人口座に送られたことがわかるだけで、支店長は堀山の名前も知らないのだ。

送金伝票を確認し、控えを受け取る。これで手続きは完了だ。なんだかんだで三時間ちかくかかり、裏口から送り出されたときは正午を回っていた。

「賽は投げられた、でんな」緊張が解けたのか、堀山は大きなあくびをした。

現金はこれから送金委託先の外為銀行に運ばれ、送金指示は今夜、フランクフルトにあるコルレス(中継)銀行に伝えられる。そこからリヒテンシュタインのプライベートバンクに送金され、堀山の法人口座に入金されるまで二営業日かかる。

今夜、同じルートで対馬に戻ってもいいのだが、堀山は入金が確認できるまで韓国にいるといってきかなかった。パスポートに入国記録がないためホテルは避け、柳が釜山市内に用意したサービスアパートメントに滞在することにした。

「腹減りまへんか?」堀山が道の向かいにあるハングルの派手な看板を指差した。「あそこで焼肉でも食いまひょか」

4

突然、タクシーの窓からライトアップした巨大な観覧車が見えてきた。その向こうには三棟のビルの上に船を載せたような奇妙な建物と、天に向かって枝を広げるバオバブの樹のオブジェ。手前には蓮の花を模したパビリオンがあり、次いで南国の果物ドリアンをふたつ並べたような建物が現われた。まるで街全体がテーマパークのようだ。空には薄い雲がかかっているらしく、月も星も見えない。

東南アジア最大の金融センター、シンガポール。

タクシーが止まったのはベイフロントにある高級ホテルだった。チェックインを済ませ、いったんベッドに入ったものの、寝つかれないまま牧島は時計を見た。午前五時。このまま起きているしかなさそうだ。

ベッドから出て窓の外を眺める。東の空が白みはじめていた。金融街のビルは照明を落とし、灰色の世界のなかに、タクシーから眺めた奇妙なオブジェのシルエットが浮かんでいる。

牧島は冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出した。ホーチミンの工場で働いていたとき、出張でなんどか来たことがあった。それ以来、この街を訪れるのは六年ぶりだ。

昨日の夕方五時に六本木ヒルズで紫帆と待ち合わせ、高速バスで成田空港に向かった。

「夫が死んだあと、旅行会社に電話したら真っ先に海外旅行傷害保険に入っているか訊かれたの」成田空港のビジネスラウンジでシャンパンを飲みながら紫帆がいった。「夫がブラックカードを持っているって伝えたら、救援者費用が五〇〇万円まで出るからって航空券とホテルを手配してくれたの。自殺なら死亡保険金は下りないけど、救援者費用だけは出るんだって」

紫帆はブルーのサマーセーターに細身のコットンパンツというラフな格好で、花柄のスカーフを首に巻いていた。エルメスのバッグを抱え、サングラスを頭に載せている。どんな気候かわからないからと、ルイ・ヴィトンの大きなスーツケースに夏服や冬服を詰め込んでいて、いまさらどうしようもないので毛皮のコートだけを空港で預けた。

旅行会社が手配したのは午後八時五十分発の夜便で、はじめてのビジネスクラスなのに豪華な夕食もほとんど喉を通らず、うとうとしているうちに現地時間の午前三時にチャンギ空港に到着した。そこからタクシーに乗って、ホテルに着いたのは一時間ほど前だ。

午前七時ちょうどに紫帆から内線がかかってきた。やはり一睡もできなかったようだ。なにか食べたいというので、朝食のビュッフェレストランで待ち合わせることにした。紫帆は髪をきれいにブロウして、金の大きなイアリングをつけ、館内の冷房がきついからか、シルクのブラウスに薄手のカーディガンを羽織っていた。

アーチ形のガラスの天井が印象的なレストランで、会話らしい会話もないままコーヒーを飲み、サラダとオムレツ、クロワッサンをすこし食べた。シンガポールに同行すると決めてから、牧島は努めて事務的な会話しかしないと決めていた。通訳に徹して、プライベートなことには立ち入らないつもりだった。

今日の予定を確認してから、いったん部屋に戻ってシャワーを浴びた。ワイシャツとスラックスに着替え、ジャケットを片手にロビーに下りると、紫帆はすでに待っていた。

タクシーでオーチャードロードの外れにある日本大使館に向かった。

◇  ◇  ◇

連載はこちら↓
タックスヘイヴン

画像3

紙書籍はこちらから

電子書籍はこちらから