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麦本三歩はワンポイントが好き…『君の膵臓をたべたい』の著者が描く心温まる日常 #4 麦本三歩の好きなもの

朝寝坊、チーズ蒸しパン、そして本。好きなものがたくさんあるから、毎日はきっと楽しい……。映画にもなった大ベストセラー、『君の膵臓をたべたい』で鮮烈なデビューを飾った住野よるさん。『麦本三歩の好きなもの 第一集』は、図書館につとめる麦本三歩のなにげない日常を描いた心温まる作品です。その中から、「麦本三歩は図書館が好き」と「麦本三歩はワンポイントが好き」のためし読みをお届けします。

*  *  *

麦本三歩はワンポイントが好き

麦本三歩は目が普通より少しだけ良い。あくまで三歩の考え方にはなるのだけれど、眼鏡をかけるかかけないか、かけなくても生活出来るけど、かければもっとクリアな世界が体験出来る、そのギリギリのラインを普通の視力だと想定した場合、三歩の視力は両目で見て0.8で、普通より少しだけ良い。

欲張りな三歩は更なる視力の向上を願ってはいるが、しかし、今ここに至って三歩の視力がどれだけ良かろうとまるでなんの意味もなく、彼女はただただ虚空を見つめて口を半開きにし、座った状態で指をわきわきと動かしている無力な社会人にすぎなかった。

三歩は今、一面の黒の中にいた。

先ほどまで、地下にある図書館書庫で元気に仕事をしていた三歩。事件は、三歩が取り置きを依頼されていた本の場所を調べようと、検索用パソコンの前のパイプ椅子に座った時起こった。

バチッという音がして、ずひゅーんという音がして、その後世界は無となった。

一瞬慌てた三歩ではあったのだけれど、そこは流石に大人だ、すぐに停電だと分かって、これは無暗に動かない方がいいと、復旧までじっとしておくことにした。椅子に座っていたのは今日一番のファインプレイだと言えよう。後で先輩に報告して褒めてもらってもいいくらいだけど、誰も褒めてはくれないだろう。

停電だ。停電だ。てーへんだ。

「んふふ」

くだらねーと思いつつ、自分のことすら見えない暗闇ではハードルも最早摺り足でいつの間にか飛び越している。あいにく今日はスマホもロッカーに置いてきている三歩は、文字通り手も足も出せず、その場で留まってくだらない冗談でも考えるくらいしかやることがなかった。

窓なんてもちろんない地下室、光源がなければ、目が慣れてくることもなく、依然視界はゼロ距離メートル。

と、三歩はようやく図書館員として一つ、大切なことに思い至り、行動を起こした。

「誰かいますかー」

声を出すと、たくさんの本達が吸い取ってしまうのか反響することもなく、また別の声が返ってくることもなかった。よかった。万が一図書館利用者が閉じ込められていたら、暗闇の中で突然響く笑い声を聞かれ無用な恐怖を与えていたかもしれない。更にこんな場所では、頭の中で思い浮かべたくだらないことも闇に溶けて伝わってしまうような気がした。流石の三歩もそれは気まずい。

誰もいないとなるとそれはそれで心細いなと思いながら、三歩は鼻歌を歌う。幸い、特別な繊細さは持ち合わせていないのだが、どれだけの間一人でいなければいけないか分からない状況では寂しさと不安が顔を出す。

目を開けているとなんだかふわふわと自分の体が浮いてくるようだった。これはかつて自分達の祖先が異星から地球に降り立っており、彼らが知っていた宇宙での感覚を体がしっかりと受け継いでいるのではなんて、うだうだ考えつつ、脳を落ち着かせる為三歩はそっと目を閉じた。

状況は何も変わらない、まぶたを落としただけだ。なのに、三歩はなんだか不思議な気分に襲われた。先ほどまであった何かが、すとんとなくなったのである。それが三歩の気持ちを落ち着かせたこともまた不思議であったし、三歩には何がなくなったのか、その説明を出来ないことがまた不思議であった。

なくなったものは暗さ、じゃない。目をつぶった今もなお、三歩には何一つ見えてやしない。当たり前だ、目つぶってんだもの。

じゃ、なんだろう、防御力?

しばらくぱちくりぱちくりと瞬きを繰り返す。開ける、つぶる、あげる、おろす。ある、ない、ある、ない。

しばらくして分かった。何があって、ないのか。

目を開けた時の黒と、閉じた時の黒では、その種類が違う。

目を閉じた時、自分の目はまぶたの裏側を見ている。その一方、開けた時は闇を見ている。

闇を見ることが出来ている。つまり、闇って物質なんだ。

ただ光がなくて見えないんじゃない、闇という物質が自分の周りにうようよとしていて、そいつらに邪魔され、周りの景色が映らない。

目を開ける。うようようようよ。

でかいまっくろくろすけめ。

「黒一色にワンポイントあればもっと素敵なのに」

独り言もこの世界では、闇に食べられてしまって誰にも届かない。届く必要もない。届く必要があればそれは独り言じゃない。

目を開けた状態で、不安の原因である闇を打ち倒さんとシャドーボクシングを続けることにもやがて飽き、シュッシュッと言い続けることにも疲れた三歩は再び目をつぶって、何もないに身をゆだねる。

ふと、よくよく考えれば、ということがおかしい、そもそも最初から考えるべきことなのだが、ここにきて三歩はようやく、今回の停電がかなりやばい事態で、自分がこれから長時間にわたって発見されない可能性について考えた。

一時間や二時間ならいい、しかしこれが半日を過ぎるとだいぶまずい。飲食が出来ないし、それにトイレとかどうする。

仕事も今日やらなきゃいけないこといくつかあるのにな、家にも今日消費期限のコンビニケーキが置いてあるし、それにトイレとかどうする。

「あ、いや、まだ大丈夫ですよ?」

誰に対するアナウンスなのか、三歩は闇の中で、両手をインタビューに答えるベンチャー企業の社長のように大げさに動かし、それから少しだけパイプ椅子の上にのるお尻の位置をずらした。

さて、しかしまあ、このまま闇を相手に手をこまねいているのも面白くない。何かしらの行動を起こそうと、血気盛んな三歩は腕を組む。

目をつぶれば、そこに闇はいない。目の前には自分の好きなことを思い浮かべられる。かと言って、別に甘いお菓子を思い浮かべようというわけではない。ああ、愛しのバームロール。確かまだ控室に、いや、そういうことではない、脱出の手はず、もしくは、この状況を利用する何か。

さっきお昼ご飯にカレーを食べたばっかりだ。白いご飯に真っ赤な福神漬けが映えていた。茶色い奴よりあの赤い奴の方が好きなんだよなあの体に悪そうな色した奴、と、そんな三歩の好みはともかく、つまり外はまだ真昼間、利用者も多いだろうが、それ故にスタッフも多い。少なくとも誰か一人は人数が足りないことに気がついてくれるはず。くれる、はず、だよな……。自分の存在感がどうなのかと、先輩達の視野に疑問を持ちつつ、それでなくとも利用者応対に人員が割かれてしまう気がして、三歩の不安はグッと体内に押し進んだ。

仮に、仮にではあるけれど、先輩達の助けを期待出来ないとして、どうするべきだろう。脱出、脱出。うーん、と唸りながら三歩はタンタンと右足を踏み鳴らし、闇を一匹ずつ圧殺していく。

実は、というのではないけれど、三歩にはここを出る方法が一つ既に頭の中にあった。この場合、ポケットの中にあったというべきか。先ほど、社長インタビューごっこをやった時にお尻の位置を変えた理由。三歩の尻ポケットには、現在、鍵の束が入っている。さっき、腕を動かした拍子お尻が一瞬浮いてしまい、その時鍵が痛い角度でごりっとなったのだ。

自分ながら肉付きのいいお尻が赤くなっているだろうことはさておき、鍵の束があって、ここを出る方法というのだから、もちろん鍵達の中に、書庫の扉の開閉に使うものも紛れ込んでいる。それを、使えば、外に、出られる。当たり前のことだ。

しかしながら、ご存じの通り、三歩は現在闇に周りを囲まれている。座っている場所から扉まで、なんとなくの位置関係は分かる。直線距離なら行けないことはないだろう。ただ、床に段ボールは置かれていなかったか、途中に本を運ぶ台車は置かれていなかったか、そこらへんの細部が思い出せない。

摺り足でいけば、そいつらがいたとしてもこけたりせずに行けるかもしれないが、それにしても問題はある。三歩がイメージ出来ているのは、椅子と扉のなんとなくの位置関係にすぎない。暗闇の中、微妙に歩き出す方向を間違えたりして、運悪く本棚の間に挟まったりして、迷子になったりはしないだろうか。今よりもっと、見つけてもらいにくい場所に行ってしまったらどうしよう。いざという時、椅子がいないのも心細い。

椅子との距離について三歩は考える。勇気を振り絞って行動に移したら、もう元の関係に戻れないなんてこともありうる。

「……ぬ」

一瞬、妙な思い出の扉が開きそうになるのを、三歩は全力で阻止した。いやいや大丈夫大丈夫、あるある、誰にだってそういうことあるある。首を横に振るのではなく、頷いて受け入れたふりをすることで、三歩はどうにか平静を保つ。

三歩は切ない思い出と椅子に別れを切り出すことを決心した。さよなら、ぐすん。

いきなりの移動は危険なので、ひとまずその場に立ち上がってみることにする。足にグッと力を入れて前かがみになり、起立。暗闇の中、景色が変わることもなく、自分が立ち上がったのかどうかを自らの体の感覚に頼ることでしか認識出来ない。その状態が思ったよりもずっと不安で不安定で、三歩は座り直した。ただいま、椅子。

いつもふらふらとしている三歩でも流石にこれはまずいと気づく。仕方ない、行儀は悪いけど、椅子を引きずっていこう。いつも一緒だよ、椅子。

ギギギッギギッと引きずり、自分のたてた音の大きさにびくついた。少し持ち上げて中腰で歩けばいいことに気がつき、実行してすぐ書架に頭をぶつけた。いてっ。

痛いけれども、書架に辿り着いたのはよかった。これを右手に辿っていけば、扉の方向を間違わずに歩ける。

すいっ、どん、すいっ、どん。椅子を持ち上げてお尻にくっつけ、少し歩いては着地して書架を触る。まるでゲームで、暗闇を照らす為のアイテムを使わず歩いているみたいだと三歩は思う。あれはなんだっけ、ポケモンかな。

しばらくそれを続けていると、ふと、何かが膝らへんに当たるのを感じた。一瞬ひやっとして痛みに耐える覚悟をするがそんなに固いものでもなかったようで痛みはなかった。三歩はそこで着地をして、膝で触ってしまったものに手を伸ばしてみる。

上はかさかさごわごわで少し柔らかい。下はざらざらしていて固い。しばらく触っていると脚があって背もたれがあって、何か分かった。また椅子だっ。

しかし今度の椅子はただの椅子ではない、脚にキャスターのついた椅子だった。これがあれば、持ち上げる労力も床を傷つける心配もいらなくなるではないかっ。三歩はすぐに決断して新しい椅子に自らのお尻を預けることにした。ごめんなさい前の椅子、私、新しく好きな椅子が出来ちゃったの。

新たなアイテムを手にし、ご機嫌な三歩は書架を右手に、スイーッと床を蹴って移動する。ここで調子に乗るのが三歩のいつものパターンで、そして失敗するのも三歩のいつものパターン。床を蹴ろうとした二歩目、闇に惑わされた三歩は少し足の目的地をずらしてしまい、誤って書架を蹴ってしまう。もちろん椅子は書架から発射されたように滑らかに書庫の中を移動し、その先にあった鉄製のラックに三歩のすねを激突させた。声にもならない声をあげて椅子から崩れ落ち、三歩は蹲る。哀れ、三歩、調子に乗るから。

頭の中でひとしきり恨み言を並べ立て、それと同時にああああああと野太い悲鳴を心で叫ぶ。光があるって便利だなああそりゃ神様も光あれって言うわああ。

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麦本三歩の好きなもの 第一集

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