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日本のトイレはなぜ「世界一」になったのか?…『テルマエ・ロマエ』作者が綴る〈新ニッポン論〉 #2 望遠ニッポン見聞録

巨乳とアイドルをこよなく愛し、世界一お尻を清潔に保ち、とにかく争いが嫌いで我慢強い、幸せな民が暮らす小さな島国、ニッポン。『望遠ニッポン見聞録』は、長年、海外で暮らしている漫画家、ヤマザキマリさんが、近くて遠い故郷をあふれんばかりの愛と驚くべき冷静さでツッコミまくる、目からウロコの「新ニッポン論」です。本書の中から、一部を抜粋してご紹介しましょう。

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ぽっとんの闇が生んだ、世界最高峰トイレ文化

夜中にふと尿意を催したもののトイレに一人で行くのが怖くて、無理矢理誰かを起こして道連れにしたりした人達は少なくとも私の世代にはかなりいると思うのだが、昨今の日本においてお便所へ一人で行くのが怖いという子供は存在するのだろうか。

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私の祖父母が暮らしていた古い日本家屋のお手洗いは長い渡り廊下の突き当たりにあり、板張りのドアを開けるとそこには薄暗い裸電球がぶら下がっていた。そしてその電球の明かりに照らし出されるのはまず男性用の便器であり、ここにはいつも黄色や緑やピンク色をしたパラジクロロベンゼンの玉が転がっていた。そしてその臭いがまた何とも言えぬ寂しさと侘しさを醸し出しているのだ。

「便所」と書かれたゴムのひんやり冷たいスリッパを履いて、もう一つの扉を開けるといよいよそこに恐怖の和式便器があるわけだが、その便器にかぶせられた白いプラスチックの覆いを持ち上げる段階で緊張感は極みに達し始める。その覆いを開けた途端にその便器の穴の底から湧き上がってくる恐ろしげな地底の轟き。そして臭い。

人間の生活空間の中であれだけの強い自己主張を感じさせる場所は他にない。押し入れも物置きも家屋の中ではどちらかというと「影」にあたる場所ではあるが、便所に比べてその存在は至って謙虚なものだと思う。

欧米では大抵、便器はバスルームの中に付いている。お風呂という独立した特殊空間を持つのが当たり前の日本人にとって、浴槽の脇に置かれた便器は衛生的にも受け入れがたい抵抗感があるものだが、欧米人にとってはそれが当たり前のものなのだ。汚れた体を洗う場所の脇に排泄物を処理する便器があるのは、むしろ条理にかなったことなのかもしれない。

ただし、古代ローマ時代の便器に対するコンセプトは今の我々日本人と似ていたように思う。寛ぎを目的とした浴槽の脇に便器を置くなど、我々と同じく彼らの中には決して有り得なかった発想のはずだ(そのくせ炊事場に便器が付いていたりする家もあるので、それはある意味浴槽の脇の便器よりも強烈なものがあるが……)。

とにかく、日本人にとって排泄は隔離したところで為されなければならぬものであり、そこには当然世の中から見捨てられたような排他的で悲しい空気が醸されることになる。それが私の記憶の中での日本古式のお便所なのだが、今は滅多に見かけなくなってしまった。

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©ヤマザキマリ/幻冬舎

数年前、漫画の取材目的で新宿にある某水回り関係の会社のショールームへ出かけ、そこで入った恐らくその当時一番新しいスタイルのトイレに私は驚愕した。美しく磨かれた床と壁、美しい照明、センサーで自動的に開く便器のふた、そしてそこから奏でられる甘美な音楽。

用が済んだ後の洗浄もその時の必要性に応じて様々なパターンが選べるようになっているし、仕上げには温風で乾かしてまでくれる。用便の時だけではあるが、そこでは自分はまるでどこぞの国の王か皇帝にでもなったかのような、至上のサーヴィスを受けられるのだ。

ここでなら布団を敷いて寝てもいいとすら思った私だが、それにしてもこの日本のトイレの進化の仕方は一体何を反映するものなのか。

恐らく今の日本でも地方へ行けば未だに旧式和式便所は存在するし、先に記した我々の一人お便所の怖かった記憶もそれほど遠い時代のものではない。だというのに今や一般家庭においても公共の場においても、かつての恐ろしいお便所の自己主張はきれいさっぱり消えつつある。

近年におけるお便所空間のこのエネルギッシュで劇的な進化は、まるで日本国民に植え込まれた和式便所トラウマを徹底的に取り去ろうとしているかのような勢いだ。いや、見方を変えれば人間の暮らしにとって最も大切な場所なのにそれが同時に一番恐ろしい場所だったからこそ、これだけ力と熱意のこもった画期的進化が可能になったのかもしれない。

ヨーロッパなどではどんなにゴージャスな新築家屋を訪ねても、便器は相変わらず浴槽の脇にあるし、それも新宿のショールームのような王様待遇とは比べ物にならない、愛想のないただの便器だ。お便所トラウマのない彼らには進化の必然性など恐らくほとんどないのだろう。

プラスチックのケースを上げると便器の底から放出される恐怖の轟き。そして我々人間を奈落の底へ引きずり込もうとせんばかりの暗くて臭い穴。あれがあったからこそ、日本はこれだけのトイレ進化国になったのだと思う。

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『望遠ニッポン見聞録』ヤマザキマリ

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