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なんでこんなに無力なんだ…現役外科医が描く、感動の医療ドラマ! #4 泣くな研修医

大学を卒業したばかりの研修医、雨野隆治。新人医師の毎日は、何もできず何もわからず、上司や先輩に怒られてばかり。初めての救急当直、初めての手術、初めてのお看取り。自分の無力さに打ちのめされながら、隆治はガムシャラに命と向き合い成長していく……。

白濱亜嵐さん主演でドラマ化もされた、中山祐次郎さんの『泣くな研修医』。現役外科医ゆえの圧倒的リアリティが評判を呼び、すでにシリーズ4作品が出版されています。ハマったら一気読み間違いなしの本作、その物語の幕開けをお楽しみください。

*  *  *

集中治療室に近づくと、ドアがひとりでに開いた。感染予防のためになるべく自動ドアがよい。ドアは二重になっており、次のドアも近づくとひとりでに開いた。

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煌々と白熱灯に照らされた部屋。深夜のコンビニのようだ、と隆治は思った。鹿児島では田舎道は真っ暗で、突然出現するコンビニがまばゆかったものだ。

部屋の中にはいくつもベッドが並んでいた。先ほど手術をしたあの少年は一番出口に近いところにいた。ベッドサイドの名札には「山下拓磨」と記されていた。

――こんな名前だったのか。

隆治はそっと近づくと、彼の顔を見た。口からは挿管されたチューブが出ており、そのまま大きな人工呼吸器の機械に繋がっていた。鼻からも経鼻胃管と呼ばれるチューブが出ていて、ベッドサイドに吊るされた小さなバッグに繋がっていた。

隆治は一通りモニターや点滴などを見て問題ないことを確認すると、再び小さな顔に近づいた。定期的に人工呼吸器から送り込まれる酸素濃度50%の気体により、胸や顎は規則正しく上下を繰り返していた。まぶたは軽く開いており、黒く長い睫毛は少し湿っていた。口は開けられ、顔にはテープで二本の管が留められていた。頬はふっくらとしていた。薄い水色の手術衣に包まれ、体全体が少し右を向いていた。床ずれ防止のために定期的に右向きや左向きにしているのだった。

しばらく見ていると、急に少し口を動かした。もぐもぐと、管を押し出そうとしている。と同時にまぶたを二回、閉じてはかすかに開けた。あまりに小さい動きだったから、ずっと見ていなければわからなかったかもしれない。しかし、隆治にはこれが拓磨の生きようとする意志のように思えた。

医学的には、浅めの鎮静状態の時にこういう動きがあるのは自然である。隆治はそれを理解していた。その上で、隆治は彼の生きたいという意志を強く感じた。自分がそう感じたいだけなのかもしれない。しかしそれでもよかった。

この小さな人間を、隆治は何としても生かしたかった。

ナースに「何かありますか」と小声で尋ねると「大丈夫です」と言われたので、隆治は集中治療室を後にした。

まだ俺は当直中なのだ、一件手術を終えたからといってそれは他の患者には関係のないことだ。ひとまず救急外来に戻らねば。

隆治はもと来た廊下をまた歩いて行った。

その夜は、それ以上救急外来に患者は来なかった。

隆治はそのまま当直室で眠った。手術でかなり疲れていたのだろう、深い深い眠りだった。早朝、目を覚ますと、疲れがほとんど取れていることに気づいた。独房のような窓のない部屋のベッドに横たわったまま、隆治は考えた。

――睡眠とは、脳が要請する脳のための時間だ。脳は情報処理を電気信号で行う臓器だ。コンピューターを数日に一度は再起動させないと性能が低下するように、脳も一度は停止寸前まで下げなければ、情報処理能力が低下するに違いない。俺は短時間であるが深く眠った。脳がきっちりと処理能力を戻した、そのおかげで今朝の俺の全身は軽いのだろう。

隆治はぱっと身を起こすと白衣をひっかけ、トイレで顔だけ洗ってからまっすぐ集中治療室に向かった。前夜に救命した少年の生存をすぐにでも、直接自分の目で確かめたかったからだ。

少年はいた。ほんの数時間前に見ているのでいるに決まっているのだが、やはりいたことに安堵した。すやすや眠っているようにさえ見える。尿の色も濃すぎず悪くないし、血圧も安定している。

――これなら今朝、抜管できるかな。

「抜管」とは、口から気管に挿管されているチューブを抜く行為を指す。それをするには血圧や呼吸の状態が安定しているなど、いくつかの条件を満たさねばならない。交通事故による外傷の緊急手術後という特殊な状況で、隆治には抜管をしていいかどうかはまったくわからない。

ひとまず隆治は病棟に行き、研修医の仕事である入院患者の採血をした。この日は二人だけだったので楽だった。そして外科の会議に向かった。

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真っ暗な会議室は、寒く感じるほどエアコンが利いていた。

「では、昨夜の症例です」

司会の岩井が言った。隆治が発表を始める。プロジェクターが投影した画像を、出席している外科医たちがいっせいに見る。

「はい。症例は五歳男児、交通事故による高エネルギー外傷の患者で……」

まとめたサマリーに沿って発表していく。運ばれてきた拓磨、手術での痛々しい大きな創、そして口から入れられたチューブ……隆治は喋りながら自分の感情が揺れ動くのがわかった。しかし発表では感情など入れてはいけない。治療対象者として客観的に捉える必要があるからだ。だからなるべく棒読みで発表した。佐藤の喋りをイメージしながらだった。

「いやあ、大変だったね」

発表が終わると、隣にいた須郷部長が隆治のお尻をポンと叩いて言った。上半身だけのケーシーと呼ばれるタイプの白衣を着た、須郷のお腹はパンパンに膨れていて、これでは中華料理店のおやじさんみたいだ、と隆治は思った。白髪の下はいつもにこにこ顔で隆治にも優しく接してくるが、なんといっても外科の部長だ。本当はめちゃくちゃ怖い人なんじゃないだろうか……。

「なかなか珍しいケースだ、しかし大丈夫そうだね。ところで両親はどうなったの?」

須郷が穏やかな調子で質問してくる。

――しまった、把握していなかった……。

隆治が焦る隣で、佐藤が言った。

「父親は無傷、母親は鎖骨と下肢の骨を折っていたそうで、本日整形外科で緊急手術だそうです」

「あ、そう。ドライバーが一番軽傷だからねえ、交通事故で正面衝突は。ま、早めに抜管できるといいね」

「はい、今日抜管できるかと思っております」

佐藤がそう言うと、部長はその大きなお腹を自分でぽんぽんと叩いて、

「そうか、まあ焦らずね」

とにっこり笑った。

「では会議を終わります」

ぞろぞろと外科医たちが部屋から出て行く。岩井が隆治と佐藤に声をかけた。

「で、どうよ」

隆治が答えようとするより前に、佐藤が答えていた。

「はい、バイタルも安定しており今日抜管できるかと思います」

「そうか、まあ部長も言ってたけど慎重にな。膵臓のこともあるし」

「はい」

そのやりとりだけをすると岩井は出て行った。佐藤はプロジェクターを片付ける隆治に「終わったら集中治療室来て」とだけ言って立ち去った。

隆治が集中治療室に行くと、すでに岩井と佐藤が拓磨のベッドの前で話していた。

「ダメだな」

「はい、ダメですね」

いったい何がダメなのか隆治にはわからなかったが、聞くわけにもいかない。仕方なく神妙な面持ちをして立っていた。

「抜管中止ね」

佐藤が隆治に言った。

「呼吸状態が悪いね、こりゃ厳しいぞ。もしかすると負け戦かなあ」

そう独り言のように言うと、岩井は集中治療室を後にした。

――負け戦……。なんて、なんてことを言うんだ。

「腸管が張って横隔膜を押している。そのせいで胸腔が圧迫されて呼吸を邪魔しているんだ。このままもう数日は抜管できないかもしれない」

佐藤はそう隆治に説明すると、歩いて行った。

――そんな……。

隆治はガツンと殴られたような気がして、しばらく立ち尽くしていた。

隆治が病棟で細々とした処方や点滴のオーダーをしていると、PHSが鳴った。佐藤からだった。少し身を硬くして、通話ボタンを押した。

「はい、雨野です」

「あのさ、これからお父さんにムンテラするから集中治療室来て」

「はい、わかりました」

そう隆治が答えるや否や電話が切れた。

ムンテラ。

この単語は医学生になってから初めて聞いた言葉だ。医者が患者やその家族に病状を説明することを言う。

学生時代、物知りな奴が「ドイツ語でムント・テラピーの略だよ。ムントは口の、という意味で、テラピーはセラピーと同じ。つまり口による治療という意味らしいけど、ドイツでは通じないらしい」と言っていたのを思い出した。医者によってはICと言う者もいた。これはInformedConsent、つまり「説明と同意」の略だ。

――医者によってずいぶん言葉の使い方が違うもんだな。早く慣れなければ。

佐藤はせっかちだ。あの電話が来たということは、もう説明を始める直前なのかもしれない。隆治は小走りで集中治療室に向かった。

集中治療室に着くと、説明用の個室にはすでに岩井と佐藤がいた。

「……って感じでいいから、話しといて」

「わかりました」

岩井が席を立ち、部屋を出て行った。

「じゃあ私から話すから。ご家族呼んできて」

と佐藤が隆治に命じた。

隆治は集中治療室の広々としたスペースを横切って、少年のベッドへ行った。ベッドサイドには心配そうな顔の父親がパイプ椅子に座っていた。

「すみません、拓磨くんのお父さんですか」

隆治がそう声をかけると、父親は無言で隆治を見た。

「すみません、私担当の雨野と申します」

そう隆治が言うと、父親は怪訝そうな顔をした。隆治は(なんでこんな若造が息子の担当医なんだ)と言われている気がして、慌てて、

「今から向こうの部屋で上の先生がお話ししますので」

と付け加えた。なんだか言い訳のような気がした。

「はい」

父親はパイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。小柄で、顎のあたりにうっすらと無精髭が生えていた。

◇  ◇  ◇

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