誘拐か、家出か、事故かーー。 行方不明少女を追う刑事の執念を描く警察ミステリー #3 雨に消えた向日葵
埼玉県で小学五年の石岡葵が失踪した。最後に目撃されたのは豪雨の中をひとりで歩く姿。誘拐か、家出か、事故か? 電車内で発見された葵の私物、少女に目を付けていたという中学生グループ……。情報が錯綜し、家族が激しく焦燥に駆られるなか、県警捜査一課の奈良健市は執念の捜査で真相に迫っていく。
警察ミステリーの新旗手、吉川英梨さんの最高傑作として名高い『雨に消えた向日葵』。ムロツヨシさん主演でドラマ化もされた本作より、冒頭の一部をご紹介します。
* * *
リビングから、母親の声が聞こえた。裏返っている。
「ええと、下はキュロットスカートだったのは覚えています。色はカーキで。上は何を着ていたか……。髪は長くて、よくポニーテールにしていますが、おろしているときもあって」
「ランドセルはどうですか。色は」
女性の声だ。
「む、紫です」
「え、紫?」
母は完全にパニックになっていた。沙希はリビングに飛び込み、相手の顔を見ないうちから答える。
「葵のランドセルの色はパステルパープルです。カバーはかけていません。防犯ブザーをどちらかのハンドルのフックにかけていました。警察のマスコットキャラの……」
「ポッポちゃんね?」
女性が確認した。彼女は黒のスーツ姿で臙脂色の腕章をつけている。『捜査』と刺繡されていた。刑事まで家にいる。
沙希は葵の今日の服装を伝えた。上はZARAのベージュ色のTシャツで、靴下はくるぶし丈の白いものだった。GAPのロゴが入っていたかもしれない。靴はナイキのターコイズブルーのスニーカーを履いていた。
今朝、家を出た葵の後ろ姿が蘇る。立っていられないほど、膝がしらが震えてきた。母親の顔がぼやけて、認識できなかった。ふわふわと宙に浮かんでいるようで、地に足がついていない。これがパニクるということなのか。誰かに肩を叩かれた。
「沙希、ありがとう、大丈夫だ。少し座っていなさい」
父親だった。家に入ってきたことに気が付かなかった。父は無言で母と目を合わせて、静かにひとつ頷いた。母が泣き出すも、すぐにこらえる表情をした。
父が女性刑事の名刺を受け取る。
「もう刑事さんが動き出すということは、なにか事件性があるんですか」
「いえ、そんな大げさに考えていただかなくて大丈夫ですよ。私たち人身安全対策課は主にストーカーやDV、子供の行方不明事案の初動捜査を受け持っています。万が一のことを考慮して動いていますが、たいがいが迷子や家出で終わりますから、どうぞ必要以上にご心配なさらずに」
静かな声で言ってから、女性刑事が無線でやり取りをした。すぐに向き直る。
「葵ちゃんが最後に目撃された通学路の方へ行っていただけますか。見つかったものがあります。確認をしていただきたいのですが」
父親と沙希を順に見る。母親には家に残るように言った。
迎えのパトカーを待つように言われたが、父親は自らレクサスに乗り込んだ。沙希も助手席に座った。父は葵の通学路を知らないから、沙希が案内した。父がこれまで聞いた話を明かす。
「消防や消防団は高麗川や用水路で葵を捜している。警察は第七小学校の東門から鶴舞ニュータウンに入る通学路周辺を捜索しているらしい。田んぼの真ん中なんだろ」
「そう。田んぼをつっきる一本道」
「葵がよく寄り道していた路地とか、寄り道しそうな場所とかあれば、警察に話してほしい」
「路地なんかないよ、田んぼの一本道だよ。東京みたいに道草する店も迷子になるような道路もない」
日が落ちてからはひとりで歩かないように、と転校した初日に教師から言われるような道だ。子供の足だと二十分を要する一本道だが、車なら五分もかからない。
一軒の農家の前に、誘導棒を振る警察官がいた。田んぼのあぜ道には懐中電灯を持った警察官が列をなしていた。田んぼの区画が暗闇に浮かび上がっている。一本道の路肩にはパトカーや警察車両が並んでいた。自宅にいた女性刑事は深刻そうには見えなかったし、死体があがったわけでもない。それでも、こんなに物々しくパトカーが集まってくるのか。
誘導棒を持った警察官が通過を促す。父親は窓を開け、「石岡葵の父です」と告げた。警察官はワゴン車の後ろに停めるように言った。
助手席から降りた途端、警察官に声をかけられた。
「大家駐在所の者です。石岡葵ちゃんのお姉さんですね」
鶴舞ニュータウンから最も近い駐在所だ。
「いくつか、田んぼや排水溝から見つかったものがあるんです」
「葵の持ち物なら、わかります」
大家駐在所の警察官はワゴン車のバックドアへ沙希を案内した。車の荷台に青いビニールシートが敷かれ、泥まみれのものが並べられていた。片方だけの靴、ペットボトル、ノート、虫取り網、キーホルダー、傘……。
「この傘!」
思わず手に取ろうとして、手首を摑まれた。青いつなぎを着た人がいつの間にか隣にいた。
「ごめんね、手を触れないように。傘に見覚えが?」
「葵の傘です。半年くらい前に川越に遊びに行ったときにアトレで買ったんです。妹は先端をいつも地面につきながら歩くので、すり減った感じも同じです」
父親が青いつなぎの人に迫る。
「葵の傘、どこで見つかったんですか」
「すいません、それはちょっと……」
「私は葵の父親です。知る権利はあるでしょう!」
「ご了承ください。ご家族の方であっても、まだ話すことはできないんです」
青いつなぎの人は行ってしまった。入れ違いで「葵さんのお父さんですか」と駆け寄ってくる若い男性がいた。ジャージ姿で、頭を下げる。
「私、葵さんの担任をしています第七小学校の浮島です。あの……」
浮島の目は真っ赤だった。神妙に言う。
「葵さんの姿を学校で最後に見たのは、たぶん、私なんです。五時ごろにひどいゲリラ豪雨があって、そのさなかに葵さんは東門を出ました」
増水した高麗川を見たいと話しているのを聞いたので、絶対に川に近づかないように強く言い聞かせたという。父親は頷き、質問する。
「誰か友達と一緒だったんですか」
「いえ、ひとりです。友達とは校門で別れています」
浮島が目の前の農家を指差した。
「ここに差し掛かったところまでは見送ったんですが……」
「葵は確かに好奇心旺盛なところはありますが、危険なことを敢えてするような子ではないです。傘が見つかったのもこの田んぼの一本道のはずです。川には近づいていないと思います」
父親は断言したが、沙希は首を傾げる。
「お父さん、でも警察は傘がどこで見つかったのか言わなかったよ」
「沙希に落とし物を確認させる前に、田んぼや排水溝から見つかったと言ったろ。少なくとも高麗川流域で見つかったものじゃない」
浮島が、今度は高麗川の方向を指差す。
「あの風の強さだと、傘がここまで飛ばされたことも考えられます。なにせ高麗川の土手道からこの田んぼの一本道まで、百メートルも離れていません。遮るものもないし」
事故なのだろうか。なにかの事件に巻き込まれたのか。そんなこと考えたくない。いまに「ただいま~」と言いながら呑気な顔で帰ってくるはずだ。葵が事件に巻き込まれるなんて――。
事件と意識したら、思い出したことがあった。
葵がいなくなったと聞いて、なぜすぐに思い出さなかったのか。沙希は自分の頭を叩き割りたくなる。
「お父さん、きっとあの男だよ!」
思わず父親の腕にしがみついた。
*
音が気になる。
奈良健市はビニール袋の底から着替えを出すのをあきらめた。捜査に疲れた男たちが寝ている。ビニール袋の音はやかましいものだ。奈良はステテコに肌着姿のままスリッパをつっかけ、埼玉県警小川警察署の道場を出た。一階の喫煙所に向かう。誰もいないと思っていたが、女性警察官と出くわした。慌てて引き返す。
二十三時を回ろうとしていた。道場には十枚ほどの布団が敷かれている。「令状出る案件ですかそれ……」と寝言を言っているのは、奈良の部下のひとり、森川淳一巡査部長。浦和高校から埼玉大学を出た埼玉県人の鑑だ。アニメオタクで三十五歳独身。二次元世界に心酔しているからか、三次元で起きる殺人事件に恐怖がない。肝が据わっている。
奈良はそうっとスラックスを引っ張り出して、片足を通す。誰かの鼾の音が聞こえた。バーコード頭が布団の先から覗いている。小山啓泰巡査部長だ。高卒で埼玉県警に入ってから刑事畑一筋のベテランだ。
奈良は埼玉県警本部の刑事部捜査一課二係で四班を率いる警部補だ。部下はこの二人しかいないのだが。
再び一階の喫煙所に下りた。小川警察署は埼玉県北部の田舎町を管轄している。喫煙所の外灯に大量の虫が集まり、体当たりしていた。実家に電話する。着替えの差し入れの礼を言っていると、小川警察署の副署長が入ってきた。にやついてこちらを見ている。電話を切った途端に、冷やかされた。
「いいですねぇ。嫁さんに寝る前のラブコールですか」
「母親ですよ。そもそも私、独身なんで」
副署長が驚く。
「それじゃ、今日着替え持ってきてた女性は? 毎日毎日、スラックスのアイロンがキマってるの、奈良さんだけでしょう」
「それは妹がやってくれています」
奈良も妹も独身で実家暮らしだ。奈良は事件捜査が忙しく、一年の九割はどこかの所轄署の道場の布団で寝ている。
埼玉県警はとにかく多忙だ。県人口は全国五位の七百十五万人に上るのに、警察官は一万人しかいない。東京都の人口は埼玉県の二倍弱の千三百万人だが、警察官は埼玉県警の五倍、約五万人いる。首都機能を考慮しても、埼玉県警のマンパワー不足は明らかだ。警官ひとりあたりのカバー率は全国で一番高い。中でも捜査一課は盆正月も事件に奔走する。私生活など、ないに等しい。
副署長が尋ねる。
「数日中にも捜査本部は解散かなと思いますが、奈良さんは、次はどこの署へ?」
「いまのところ待機、事件番ですよ。いや珍しい。五年ぶりじゃないかな」
奈良のデスクはさいたま市にある埼玉県警本部五階の捜査一課のフロアにあるが、埃をかぶった状態だ。まずは掃除だと考えていたら、スマホに着信があった。本部の比留間賢作管理官だ。奈良は悪態をつきたくなった。奈良です、とぶっきらぼうに電話に出る。
「起きてたな。お前はまだ寝る前の一服あたりだろうと思ったよ」
「次はどこです」
「ほほう、やる気満々じゃないか」
「早く用件を聞いて寝たいんです。寝ないで来い、の案件ですか」
比留間の声音はのんびりしている。
◇ ◇ ◇