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第二の人生がいま始まる…現役医師が世に問う感動長編 #5 いのちの停車場

東京の救命救急センターで働いていた、62歳の医師・咲和子は、故郷の金沢に戻り訪問診療医になる。老老介護、四肢麻痺のIT社長、6歳の小児癌の少女。現場でのさまざまな涙や喜びを通して、咲和子は在宅医療を学んでいく。一方、家庭では、自宅で死を待つだけとなった父親から「積極的安楽死」を強く望まれる……。

現役医師でもある南杏子さんが世に問う感動長編、『いのちの停車場』。吉永小百合さん主演で映画化もされた本作の、冒頭をご紹介します。

*  *  *

お茶を運んできた亮子が、低い声で説明する。

「仙川先生が入院されて診療を一か月近く休んでいる間に、ほとんどの患者さんは他院に移ってしまいました……」

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亮子がタブレット端末を開いた。

「二百人いた患者さんが、現在、二十五人になっています。その全員が、訪問診療の再開を待ち望んでくれているのですが……」

亮子が端末で示した「リスト」に、患者の名前が記されている。

「それぞれの患者さんには、月二回の定期訪問をしています。ですから今の状態であれば、月に延べ五十軒の訪問になります。臨時の往診を加えても月に百軒はいきません。とにかく、これを一日でも早く再開したいと思っています」

どういう状況か、おぼろげながら分かってきた。

「今いる看護師は運転免許を持っていません。たとえタクシーで仙川先生を患者の家の前まで届けたとしても、そこから先、患者のいる部屋にたどり着くのは困難です。入り口に段差があったり、二階だったりするので」

仙川の目が悲しげに伏せられた。仙川が入院して休診中に患者が激減し、スタッフも何人かが診療所を去ったという。残っているのは事務員と看護師が一人ずつ。すぐにでも訪問診療を再開したいが、肝心の仙川の機動力がネックになっているというわけだ。

もう一度リストを見る。中村美代子、尾形康江、林誠之助、布施……。それぞれの患者の名前と年齢、住所、簡単な病状が書かれている。患者たちが医療を待っているのだという実感がわいてきた。これは緊急事態だ。一人一人の患者にとっても、まほろば診療所にとっても。

「とりあえず、訪問診療を担当すればいい?」

月に延べ百軒ということは、二十日の労働で計算すれば、一日にわずか五軒だ。しかも目の前に生命の危険が迫っている救急患者と違い、家で生活ができる患者ばかりだ。在宅医療は未経験といえども、それほど難しい手技があるとは思えなかった。

「イエス、イエス、イエス・キリスト! いや、女神様! 日本一の大都会を守る城北医科大学病院・救命救急センターの仕事にくらべたら、物足りないだろうけど、何とか頼むよ」

仙川の声が、急に高くなる。

「そんなことないけど」

咲和子は一応否定するが、やっていける自信はあった。

救命救急センターでは、何度も修羅場をくぐり、ときには愁嘆場にも直面してきた。ただ年齢的には、そろそろ限界を感じていたのも事実だ。ここで人生を乗り換えて、在宅医療を一から学ばせてもらうのもいいかもしれない。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

咲和子は頭を下げた。

「ありがとうございます!」

亮子が弾んだ声を上げる。

「助かるよ、咲和ちゃん」

仙川が両手を差し出して握手を求めてきた。

「感謝感激、さっそく明日から回ってもらえるよう手配しよう。亮子ちゃん、ガッチリとした訪問スケジュールを作ってやってよ」

にこにこしながら仙川が亮子に指示した。

「どうか、お手やわらかに」

咲和子はもう一度、仙川と亮子に向かって頭を下げる。

「……だな。ほんなら咲和ちゃん、しなしなぁ~と始めようけ」

故郷の懐かしい言い回しに、咲和子は口元が緩むのを感じた。


まほろば診療所から家に戻ったとき、時刻は午後四時を回っていた。居間でテレビを観る父の背中に声をかける。

「お父さん、ご飯はどうしてたの?」

「ヘルさんがなんか作ってあるやろ」

毎日、入れ替わりで来る通いのヘルパーを、父はヘルさんと呼んでいた。

冷蔵庫を開けてみる。大小のタッパーが入っていた。大きい方には野菜と鶏肉の煮物が、もうひとつにはスズキの酢の物が入っている。他に、パックに入ったポテトサラダやきんぴらごぼう、それに食パンなどがあった。炊飯器には、ご飯が炊けている。

「うわあ、助かる」

咲和子はそう言いながら、さらに庫内をあらためた。野菜もニンジンやタマネギなど何種類かそろっている。

「ヨーグルトと果物を買いたいから、ちょっと出かけるね」

普段はそれほど意識していなかったが、父とは違う食習慣があることを再認識する。

「ほうか、気いつけてな」

父は財布を取り出そうとした。

「いいよ、お父さん。それくらいのお金は持ってるから」

咲和子は父を押しとどめる。ちょっと残念そうな顔をした父を見て、素直にお金をもらっておけばよかったかと少し後悔する。

近所にあるスーパー丸福は、個人の店で規模は小さいが、いろいろな食材がそろっているだけでなく、手作りの総菜も扱っていた。実家の冷蔵庫にあったのと同じ品もあり、なるほどと思う。

イチゴが安かったので、二パックを買い物カゴに入れる。バナナと豆乳ヨーグルト、チーズ、赤ワインを買ってスーパーを出た。しとしとと雨が降っている。少し雨宿りしていれば止みそうだが、一刻も早く帰りたい気持ちもあった。金沢の雨は霧のようで、大して濡れることはない。咲和子は駆け出した。

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父の好きな日本酒を熱燗で出し、咲和子はワインをグラスに注ぐ。

「スーパー丸福って、まだあったんだね」

「ほうや。今は息子が仕入れをしとるらしい」

「お隣は、新しくてきれいな家になったね」

「おお、犬を飼い始めたみたいや。テツっていう名前らしい」

身近なことをポツリポツリと話す。父の機嫌はよかった。

「松の手入れ、まだお父さんがやってるの? いくら命綱をつけても、危ないよ。誰かに頼めばいいのに」

「あんなん、簡単、簡単。わけないわ」

しばらくすると、父はうつらうつらし始めた。咲和子はそっとカーディガンをかける。父は三十分ほどで目を覚ますと、「久しぶりの日本酒が効いた。ごちそうさん」とつぶやき、ゆっくりと寝室に向かった。

咲和子は食器を洗いながら、久しぶりに実家の匂いを感じていた。水道の水も、聞き慣れた音を立てる。台所の窓から街灯が見え、その光すらも懐かしかった。

片づけが終わったとき、母の線香がまだだったのを思い出した。

廊下の左手にある仏間のふすまを開ける。昔ながらの薪ストーブが中央に陣取る部屋だ。今の季節に火は入っていないが、晩秋ともなれば現役に復帰する。

「お母さん、お待たせ」

仏壇の中で少し斜めになっていた母の写真を正面に向ける。供えられた羊羹は、三年前の正月に咲和子が買ってきた品だった。

薄茶色の線香を炎にかざし、香炉に立てる。オレンジ色の小さな光を確かめてから、静かに両手を合わせた。目を閉じると、ビャクダンの香りとともに母の気配がした。


翌朝の午前八時、咲和子は再び自転車に飛び乗り、まほろば診療所に向かう。風を切って通勤するのは咲和子にとって新鮮だった。

「お、早いね、咲和ちゃん。きょうからペアを組んでもらう看護師を紹介するよ。おーい、麻世ちゃん」

診療所に着くと、すでに仙川が待ち構えていた。咳払いとともに、若い女性が現れる。

「星野麻世です。学校卒業後、大学病院に二年間勤務してから来ました。ここで看護師をして六年になります」

計算すると二十九歳になる。ショートカットが似合い、はつらつとした雰囲気だ。

「白石です。よろしくね」

麻世がきゅっと唇を上げると、えくぼが現れた。それを見ただけで、咲和子はなんだか嬉しくなる。

持参した白衣に着替え、訪問診療用の道具が入ったバッグを仙川から借り受ける。亮子が訪問患者のリストを差し出した。

「本当に、たった五人でいいんですか?」

リストを受け取った咲和子は、物足りなさを覚えた。外来の診療では一時間に十人こなしたこともある。わずか五人なら、移動時間を入れても午前中に終わるかもしれない。

午前九時になった。

「出発します」

麻世の合図で診療所の外に出る。車庫に停められた軽自動車の前で、咲和子は麻世からキーを渡された。

「白石先生、運転お願いします」

「え、私が運転?」

麻世は免許を持っておらず、いつもは仙川が運転していたという。しかも今どきカーナビもない。

車のハンドルを握るのは、自転車以上に久しぶりだった。

金沢は戦火をまぬかれ、大きな災害にもあわなかった城下町だ。

街並みの随所に江戸時代の面影が色濃く残っている。用水路に沿って整備された道路網は、放射状というよりはクモの巣の印象だ。

それはつまり、細く曲がりくねった道や一方通行の道が数多くあるということで、運転しながら何度もヒヤヒヤする。

最初の患者の家は、浅野川の北側に位置する街の外れ、乙丸町にある。麻世の指示が遅くて合わせられず、咲和子が運転する車は同じ道を何度か行ったり来たりして、ようやくめざす駐車場にたどり着いた。

「白石先生、ちょっと歩きますよ」

麻世は重い診察道具バッグをひょいと担ぎ、スタスタと歩き始めた。

亮子の渡してくれたリストを取り出し、改めて患者の名前を確認する。並木シズ、八十六歳の女性だ。

シズの住まいのあたりは、咲和子がこれまでに来たことのない場所だった。家同士がくっつくように立て込み、日の当たらない路地は湿ってカビ臭い。薄暗い路地で目を凝らし、「並木」と書かれた表札を何とか確認した。

それは木造の宿小屋で、一部、壊れかけていた。見るからにあまり裕福とは言えない状態だ。破れた障子から部屋の中が見え、台所のすりガラスの部分には、洗剤や調味料、空き瓶などが林立している。

「並木さーん、まほろば診療所から先生が来てくれましたよ」

麻世が慣れた調子で声をかけた。

「はいよー。開いとるよー」

中から男性が返事をした。

玄関を開けると、医療現場というよりは、迷宮に入り込むような違和感を覚えた。古い蔵に入ったときのほこりっぽさと、独特の酸っぱい臭いでむせそうになる。救急外来へ運ばれてくる老人の臭いが、まさにこれだったと思い出す。

麻世と咲和子は土間から板敷きへ上がった。部屋は二つある。一つはちゃぶ台のある居間で、もう一つが寝室だ。布団が敷かれて女性が横たわり、そばにシャツを着た高齢の男性が座っている。夫の徳三郎だ。夫婦は以前、「金沢市民の台所」と呼ばれる近江町市場で鮮魚店を営んでいた。二人の店は、開場約三百年の歴史がある市場でも繁盛店として評判だったという。

「シズさん、はじめまして。医師の白石咲和子といいます」

女性は軽いいびきをかいて眠っていた。痩せた体で、手入れされていない白髪が枕の上に広がっている。シズの手に触れてみた。手首や肘の関節が硬い。少し手首を動かしてみるが、目を覚ます気配はなかった。

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いのちの停車場

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