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#5 尊皇攘夷を夢見て…直木賞作家が描く渋沢栄一の激動の人生

武蔵国の豪農に生まれ、幼少期からたぐいまれな商才を発揮した渋沢栄一。幕末動乱期、尊王攘夷に目覚めた彼は倒幕運動にかかわるも、一橋慶喜に見出され幕臣となり、維新後は大蔵官僚として日本経済の礎となる政策に携わる……。1万円札の「新しい顔」として、改めて脚光を浴びている渋沢栄一の激動の人生を活写した、直木賞作家、津本陽さんの『小説 渋沢栄一』。本作品の冒頭部分を、特別に公開します。

*   *   *

その頃、血洗島村の領主は安部摂津守(「安部」を“あんべ”と発音していたという)という小さな譜代大名で、三河国に本藩があり、血洗島から一里ほど離れた岡部村に陣屋があって、岡部附近の五、六町村八千石を支配していた。

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岡部侯は、領民のなかの富裕な者に、ときどき御用金の調達を命じた。お姫様のお輿入れだとか、若殿さまの江戸ご出府だとか、先祖の御法会だとかという名目で、御用金をさしだすよう達しがくる。

武州の領地で二千両、三州の領地で五百両というように、振り分けて下命がくる。

血洗島では、宗助と市郎右衛門が御用金をさしださせられる。栄一が十七歳の頃までに、市郎右衛門が調達した金が、二千両余りの金額になっていた。

その頃、何かの名目で代官所から血洗島へ御用金千五百両ほどを差しだすよう、命ぜられ、宗助が千両、市郎右衛門が五百両を引きうけることになった。

そのとき、ちょうど市郎右衛門は風邪をひいており、栄一が父の名代として、近くの村で御用金を申しつけられた人二人と三人連れで岡部の陣屋へ出頭した。

代官は三人に会うと、さっそく御用金調達を命じた。栄一と同行した二人はいずれも一家の主人であるので、その場で即答した。

「お申しつけの儀は、たしかにお受けいたしまする」

だが栄一は、御用の趣を聞いてくるよう、いいつけられただけであったので、たしかな返答をするわけにはゆかない。

「御用金調達の儀は、しかと承りました。ついてはその由を父に申し聞かせたうえで、あらためてお請けに参上いたしまする」

代官は栄一を睨みつけ、声をあららげた。

「そのほうの身代ならば、五百両や千両は何でもなかろう。ことに御用を足せば追い追いに身柄(身分)もよくなり、世間に対して面目をほどこすということになる。父に申し聞かせるなどと、面倒なことはいたさずともよい。いったん帰ったうえで、またくるなどと緩慢なことは承知まかりならぬ。この場で承知したと申せ」

同行した二人の商人は顔色を変え、代官のいう通りにしろと、しきりに袖を引く。さからえば、あとからどんな難題をもちかけられるか分らないからである。

代官は栄一をさげすむように見て、からかうように口を曲げてたずねた。

「貴様はいくつになるのだ」

「へい、私は十七歳でござります」

「十七にもなっておるなら、もう女郎でも買う年頃だ。してみれば、これしきの御用に返答のできぬわけはない。ただちに承知しろ」

栄一の叛骨が頭をもたげてきた。

岡部の領主は、定められた年貢を取りたてているうえに、返済もしない金を御用金などといって取りたてる。それも人を軽蔑嘲弄して、貸付金を取りたてるように命じる道理は、どこから生じたものであるか。

代官の言語動作は無知蒙昧の徒としか思えない。このような鈍物が人を軽蔑するのは、大名役人を世襲にするという、徳川の政治が原因で、もはや弊政の極みに至ったものだと、慨嘆した。

考えてみれば、自分もこの先百姓をしていると、あの代官のような虫けら同様の思慮分別もないものに、軽侮をうけねばならない。まったく残念千万なことだ。

栄一は胸中の不平をおさえつつ、代官にはっきりと申しいれた。

「私は父から御用をうかがって参るよう、申しつけられたばかりでござります。はなはだ恐れいりまするが、いまここでただちにお請けはできませぬ。委細を承ったうえで、その趣を父に申し聞かせ、お請けをいたすということなれば、そのときふたたび参じてお請けいたしまする」

代官は激怒して散々罵声を浴びせるが、石のように動じない栄一に罰を与え、牢屋に放りこむまでは、さすがにできなかった。

栄一は二里のいなか道を、二人の連れとともに帰るあいだ、考えこんだ。

いまの世のなかでは、農工商の庶民は武家の支配に屈していなければ、生きていけない。庶民の生命は塵紙一枚の値打ちである。

岡部の領主は、年貢を取りたてたうえに御用金を取りあげ、百姓町人を軽んじ、財貨を奪って自ら悪行を恥じるところがない。

あの代官のような浅薄な人物が、いばって世渡りができるのは、幕府の政事がまちがっているためである。

当時は百姓の小倅に対する代官の応対は、どこでもそのようなもので、栄一の連れの商人たちはさげすまれても、それが世のならいであると、何とも思っていない。

栄一は学問をして、ひと通りの道理をわきまえているだけに、腹が立ってしかたがなかった。あとで代官が栄一のことをおそろしい強情者だといったという噂が耳にはいったが、その頃から腐敗した幕政に反抗する考えが頭をもたげていた。

攘夷運動の嵐の中で

栄一が幼い頃から文武の教えをうけ、兄弟のような交わりをかさねてきたのは、従兄の渋沢新三郎、尾高藍香(惇忠)、その弟の長七郎、平九郎、渋沢喜作らであった。

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長七郎ははじめ新三郎に剣を習っていたが、しだいに長足の進歩を遂げ、諸国を周遊していたので、時勢にくわしかった。

嘉永六年六月三日、アメリカ東印度艦隊司令長官ペリー(一七九四~一八五八)准将が三千五百トンのサスケハナ号以下三隻の軍艦を率い、浦賀に入港した噂は、現代の新聞に似た風聞書によって、数日遅れのニュースとして、血洗島にも伝わってきた。

渋沢家にも、諸国往来の尊王攘夷志士らがたずねてきた。

菊池菊城という学者が尾高家に足をとどめたときは、『論語』の講義を聞く。尾張の中野謙斎がくると『文選』『史記』の講義をうける。

栄一たちは坂下門事件の安藤閣老(老中安藤信正。一八一九~七一)の襲撃にかかわった津和野藩士椋木潜(変名は南八郎。一八二八~一九一二)、薩藩士中井弘(のちの元老院議官・京都府知事。一八三八~九四)ともまじわる。

宇都宮藩士広田精一(一八四〇~六四)、戸田六郎、長州人多賀谷勇(一八二九~六四)ら尊攘志士が来訪すると、酒をくみかわし、時勢を論じ、幕府の腐敗を罵って慷慨する。

幕府を批判し尊王大義を説く塩谷宕陰(一八〇九~六七)の『隔鞾論』、大橋訥庵(一八一六~六二)の『闢邪小言』、阿片戦争の顚末をしるした『清英近世談』などに読みふけり、国事に心をかたむけるうち、農家の青年であった栄一は、いつとはなく天下の志士と称し、身を国家に捧げようと望むようになった。

栄一ら青年が手にする書物は、藤田東湖(一八〇六~五五)の『新策』『常陸帯』、会沢正志斎(名は安、号は正志斎。欣賞斎。一七八二~一八六三)の『新論』で、夷狄を追いしりぞけ皇威を四海にひろめようとする、極端な攘夷論であった。浦賀にあらわれた米艦に対する幕府の交渉が、実に臆病にすぎる。

会沢正志斎は、つぎのように主張した。

「鎖国をつづけ、夷は撃ちはらうべきである。夷の要求に屈して和親通商をゆるすのは、彼らに降伏したのと同様である。国辱はこれにきわまれりといわねばならぬ。

わが方に戦う気力があって、はじめて彼らと真正の和を結ぶことができる。そうでなければ、和親ではなく屈従である。

犬や豚のまえに屈従するようなことは、神州の民の堪えうるところではない」

栄一はのちに述懐している。

「あの頃、水戸学の慷慨によって日本男児の熱血を湧きたたせなかったならば、私ものんびりと血洗島の百姓として生を終えていただろう。

私を今日の地位に至らしめたのは、まったく水戸学に感化されたためである」

栄一の従兄で藍香の弟である尾高長七郎は、上州、野州を遊歴し、江戸に出て文学を下谷練塀小路の海保章之助(号は漁村・伝経廬。一七九八~一八六六)の塾に修め、武芸は下谷和泉橋の伊庭軍兵衛に学んだ。

当時の幕政は難航をつづけていた。閣老阿部正弘(一八一九~五七)が安政四年(一八五七)に病死ののち、そのあとをうけた堀田正睦(一八一〇~六四)老中が和親勅許に失敗。そのあと井伊(直弼。一八一五~六〇)大老が安政五年末より大獄をおこしたが、安政七年(一八六〇)三月、桜田門外に倒れた。

あとをついだ老中安藤信正も、難局を打開する力はなかった。

栄一はのちに、当時の心中を語った。

「このように幕政のふるわないのを、私どもは実に憤り、なげいたのです。しかしその憤慨はべつに誰からいいつけられたのでもない。自称慷慨家だったのです。

いま話せばまったくおかしなことのようであるが、その頃は、われらがかえりみなければ国家はどうなるか。倒れてしまうにちがいないと思ったから、自分の思案は国家に対する大義務だと考えていた。

おれたちがいるので日本の維持もできると考えていた。それで、ただ田舎で評議をかさねていてはいけない。われわれが決起してぜひとも攘夷をなしとげねばならないという意気込みであった。

そこで長七郎に江戸の情勢を探索させ、われわれは田舎にいて、日夜工夫をこらし、なおこのようにはたらき、このように探ってほしいと要求していたのです」

栄一の師藍香は、安政七年(一八六〇)正月に、「交易論」という小論文をあらわし、その年二十一歳の栄一は、それを筆写した。

交易論は、貿易がはじまってのちの貨幣問題をまずとりあげる。

「外国と交易するに及び、その貨幣と、わが国の貨幣の価値を等価のものとして、産物を交易するに際し、洋銀の実質価値が低いことを知らなかった。

洋銀をわが国の金と等価として交易したため、五穀についで大切な絹糸類を法外な廉価で売りはらい、異人は図に乗ってわれわれの金銭比価の迷いにつけこみ、大儲けをする。このままで三年も過ぎれば、洋銀はわが国内に山のようにうずたかく、人民は困窮におちいることは、鏡にかけて見るようにあきらかである」

藍香は、外国が交易を要望するのは、日本が外国との通商に不慣れのため、損害をこうむるのにつけこみ、ついにはその土地を奪って大利を得るのが目的であるという。

つまり、交易を名目として世界の諸国を併呑するのが真の目的であるとする。

藍香は外国と交易するには、平等の条件でおこなうのが第一で、それによって利益を得られない外夷が怒って戦争をおこせば、天下をこぞって対戦すべきであるといった。