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#4 知性と理性の子…直木賞作家が描く渋沢栄一の激動の人生

武蔵国の豪農に生まれ、幼少期からたぐいまれな商才を発揮した渋沢栄一。幕末動乱期、尊王攘夷に目覚めた彼は倒幕運動にかかわるも、一橋慶喜に見出され幕臣となり、維新後は大蔵官僚として日本経済の礎となる政策に携わる……。1万円札の「新しい顔」として、改めて脚光を浴びている渋沢栄一の激動の人生を活写した、直木賞作家、津本陽さんの『小説 渋沢栄一』。本作品の冒頭部分を、特別に公開します。

*   *   *

気骨稜稜

栄一がはじめて父に連れられ江戸へ出たのは、嘉永五年(一八五二)十三歳の三月であった。それまで茅葺き屋根の家が田畑のなかに点在する景色だけを見なれた栄一には、江戸の町がまぶしいほどの豪華な大都会に思えた。

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町々の木戸がととのえられ、火の見櫓が林立し、参勤交代の大名行列の通る有様に目を奪われる。

翌嘉永六年の春、栄一は叔父の保右衛門に連れられ、ふたたび江戸見物にでかけた。保右衛門は、母えいの妹お房の夫で、渋沢の分家である。

二人は利根川の河畔から深谷へ荷馬に乗ってむかい、二十里ほどの中山道の道程をなにごともなく過ぎて江戸に着いた。翌日からほうぼう見物して歩く。

ある日、一ツ橋から江戸城内へ迷いこみ、桔梗門のなかへ入ってしまった。

「これは、いったいどこだろう」

門を見あげていると、門番小屋のようなところから、人相のわるい中間が二、三人出てきて、保右衛門と栄一を捕え、物置のなかへ押しこみ、戸をしめてしまった。

「こりゃ百姓ども、泣こうと喚こうと、どうにもならんのだ。ここはお城内だからな。そのなかで乾干になるがいい」

保右衛門と栄一は途方に暮れた。小心な保右衛門は顔色が蒼ざめ、膝を震わせている。栄一は考えこむうちに、ふと思いついた。

いつか父の市郎右衛門が、いっていた。

「小役人は、袖の下欲しさにつまらねえ嫌がらせをするもんだ。そんなときには小銭をつかませるのが一番だ。地獄の沙汰も金次第と、昔からいうからな」

栄一は、保右衛門にいった。

「うちの親父がいっていたが、賂をつかませりゃ、下役人はどうとでもなるということですよ。一分ほどつかませておやり」

保右衛門はかたくなに拒む。

「いや、うっかりそんなことをしちまったら、かえって罰が重くなるかも知れないよ」

いいあっていると、さっきの中間が様子を見にきた。

「叔父さん、いまだ。金をやりねえ」

保右衛門は口をきく余裕もないまま、一分金を巾着からとりだし、中間にさしだす。

「なんだ、これを俺っちにくれるというのかい。そいつはいい了簡だぜ」

中間はよろこんで、二人を物置から出し、桔梗門外へ解放してくれた。

「やっぱり親父のいってたことはほんとうだったなあ。門番たちは腸の腐った奴らだなあ」

栄一は保右衛門がよろこぶのを見ながら、吐きだすようにいった。

「叔父さん、幕府も大名も、皆百姓町人のわずかな稼ぎをしぼりとることしか、知らねえんだなあ。おれたちは、こんな腐りきった世のなかで生きていかなければ、ならないんだ」

栄一が十五歳のとき、姉が神経を病むようになった。前年に縁談があり、ほとんどととのったときに、ある親戚の人が結婚に反対した。

その理由は、婚家となる家が『御先(尾裂)狐』の家筋であるというのである。御先狐が棲みついているといい伝える家は、地元では忌み嫌われている。このため、縁談は成立しなかった。

二十歳の姉は破談になったあと病にかかり、栄一はそれを悲しみ、看護につとめ、常に傍らをはなれなかった。

父市郎右衛門は娘に転地療養をさせるため、上野の室田という大滝のある村へ連れていった。

渋沢宗助の母親が、たいへん信心深かったので、いいだした。

「こんどの病気は、渋沢家に祟りがあるためだろう。祟りをはらうには、遠加美講の修験者を頼んで祈禱するのが第一だよ」

栄一の母がすすめに従ったので、三人の修験者がきて祈禱をはじめることになった。

祈禱には、中坐という神と人を仲介する役の者が必要であるというので、近い頃、家に雇い入れた飯炊き女をその役に立てることになった。

座敷のうちに注連縄を張り、御幣をたて、飾りつけを終えると、中坐の女は目隠しをされ御幣を持ち、端座した。

修験者たちはさまざまの呪文をとなえ、供についてきた講中の信者たちも、声をそろえ、「トオカミエミタメ」と唱える。

中坐の女は、はじめは眠っているかのように静かであったが、しばらくするうちに手に捧げた御幣を振り立てはじめた。

修験者が中坐の女の目隠しをとり、そのまえに平身低頭してたずねた。

「いずれの神様のご降臨でござりますか。お告げを蒙りとうござります」

中坐の女は、大声で答えた。

「この家には、金神と井戸の神とが祟っておるぞ。またこの家には、無縁仏があって祟りをいたしおる」

その神託というものを聞いた伯母は、得たり顔になっていった。

「神のお告げは、あらたかなものよ。私は昔、年寄りの話に、お伊勢詣りに出向いて帰らなんだ者がいたと聞いたことがある。無縁仏の祟りというのは、これじゃろう」

修験者が中坐に聞く。

「この祟りをはらうには、いかようにせねばなりませぬか」

「祠を建立して、日々奉祀をするがよい」

栄一はそれまで黙っていたが、このとき中坐にたずねた。

「無縁仏がこの家を出たのは、何年ほどまえのことだったのでしょうか」

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中坐は、しばらくためらったのち答えた。

「五、六十年前じゃ」

「そのときの年号は、いつでござりますか」

「天保三年(一八三二)の頃じゃ」

栄一は修験者に声高に問いつめた。

「天保三年は二十四年前のことです。無縁仏の有無を知るほどの神様が、年号をまちがうでしょうか。そんな訳はないはずの事です。それをまちがった神様なんぞ信じられないですよ」

伯母が横合から、栄一の言葉を遮った。

「そんなことをいいだしちゃ、神罰をこうむることになる」

しかし、神託に誤りがあるのはふしぎであると栄一はいいはり、自然と同座の人々もいぶかしんだので、修験者は間が悪くなってやむをえず、言い抜けをした。

「これは野狐がきて、いたずらをしたんだよ」

栄一はすかさずいう。

「野狐がいったのなら、なおさら信用できないね。祠をたてることは無用でしょう」

修験者は返事に窮したまま、あわてて帰ってゆき、彼らの小細工は栄一に見破られ、祈禱は信じがたいものであることが分った。

栄一はのちにいっている。

「私は百姓の家に生れて、幼時からいろいろな礼儀作法に馴らされなかった結果であろうと思うが、物忌みをしたり、ある特種の神仏を信心してこれを拝むというようなことはしない。

そんなことは迷信であると、父から教えられていたためであろう。そうはいっても敬神尊仏の念がまったくないかといえば、そうでもない。

父母の菩提をとむらい、神社仏閣を尊ぶ念はある。要するに私の神仏に関する観念は、すこぶる漠然たる抽象的のもので、ある人々の抱く人格人性をそなえた具体的の神仏ではない。

ただ天というような無名のものがあって、玄妙不可思議なる因果の法則を支配し、これにさからう者は亡び、これにしたがう者は栄えると思っているぐらいにすぎない」

森羅万象の生成衰滅をつかさどる天の法則が、栄一にとって信ずべきものであったというわけで、きわめて理性のすぐれた性格が鋭鋒をあらわしている言葉である。

「怪異不思議のことを信ずると否とは、かならずしもその人の学問、知識の程度によるものではないらしい。

存外なる者で幽霊を信じたりする者がある。そうかと思えば、また一方には、無学の者で一切妖怪じみたことを排斥し、これを信じない者がある」

栄一は松平楽翁(松平定信。一七五八~一八二九)のような学識すぐれ、精神の秀でた人でも、幕府老中に任ぜられると、自分の一命はもとより、妻子眷族の生命まで賭けて、ひそかに深川聖天宮へ起請(願をかける)していると後にいっている。

「楽翁は大名家に生れたので、幼い頃から奥女中などに迷信じみた思想を吹きこまれてきた結果、われわれから見ればばかげていると思える起請などを、誠意のほとばしるあまりなさったのであろう。

維新の元老などには、このような迷信に類する怪異を信じる人はなかった。井上(馨。一八三五~一九一五)侯、伊藤(博文。一八四一~一九〇九)侯、大隈(重信。一八三八~一九二二)侯などまったく迷信がかったことのなかった人である」

栄一の撃剣の師匠渋沢新三郎(のちに栄助を名のる)は、家が富裕であるうえに、剣をとっては村内の若者を子供扱いにする腕前である。そのため、彼が年中行事につき横車を押しても、誰も見て見ぬふりをして争わなかった。

ある年、鎮守の諏訪神社の修理に際し、御神体を移すことになったが、それまでは吉岡磯次郎という者の家に安置する慣例になっていた。それを新三郎は勝手に持ちだし、わが家に移し保管した。

鎮守の宮の修繕、祭礼、境内での村芝居などは、十五歳以上の男子でつくる「若い者」という結社(今でいう青年団)でおこなうことになっており、この年の若い者を率いる若者頭は、栄一と従兄の喜作がつとめていた。

新三郎が横車を押したことにつき、村の若い者は不服であるが、かげで罵るばかりで、正面から応対できる者がいない。

栄一はこの事情を聞くと、ただちに喜作とともに新三郎に会い、御神体を吉岡家へ移すよう頼んだ。だが新三郎は聞き流すばかりである。

栄一と喜作は、屈せずおおいに新三郎の無法を責め、ついに御神体を吉岡家へ移させた。

この一件ののち、村内の若い者は皆栄一と喜作に服従し、すすんで指導に従うようになった。

栄一が十六、七歳になってくると、父の実家である分家(「東の家」“ひがしんち”と呼ぶ)の渋沢宗助(当主は代々宗助を名のる)が村で第一の資産家で、そのつぎは市郎右衛門(「中の家」当主。“なかんち”とも呼んでいたという)だと世間でいわれるようになった。

藍商人のほかに、質をとり金を貸すようになり、収入がふえてきた。