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大好きな家庭教師の美和ちゃん…ささやかだけど眩い青春の日々 #2 うさぎパン

高校生になって、同級生の富田君と大好きなパン屋めぐりを始めた優子。継母と暮らす優子と、両親が離婚した富田君。二人はお互いへの淡い思い、家族への気持ちを深めていく。そんなある日、優子の前に思いがけない女性が現れて……。ささやかだけど眩い青春の日々を描いた、瀧羽麻子さんの『うさぎパン』。「ダ・ヴィンチ文学賞」大賞にも輝いた本作の、ためし読みをご覧ください。

*  *  *

「かたづいた?」

不意にドアが開いたとき、もちろん部屋はかたづいてなどいなかった。

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わたしは漫画を手に持ったまま、ぽかんとしてミドリさんを見た。掃除機の音が近づいてくるまで、と思っていたのに、いつのまにか熱中していたらしい。

「優子ちゃんってほんとにおそうじ嫌いだねえ」

怒られるかと思って身構えたら、どちらかというとあきれた口調だったのでほっとする。

「時間がないから一緒にやろうか?」

わたしはあわてて断って、そのへんに積み重なっている本やノートをクローゼットに放りこみ始めた。

「それじゃあかたづけたことにならないよ」

ミドリさんは言ったが、

「だって、もう先生来ちゃうでしょ? 何時の約束なの?」

十一時、とミドリさんが答えたのと、玄関のチャイムが鳴ったのが同時だった。

「ほら言ったでしょ」

ミドリさんがあわててドアを開けに行く。

十時五十八分。美和ちゃん、記念すべき初登場。

ついでにもうひとつ記念すべきことがある。美和ちゃんが早めに現れたのはこれが最初で最後だった。

美和ちゃんのことを、わたしは最初、先生と呼んでいた。美和ちゃんはわたしのことをゆうこ(なぜか、優しいに子供の子の「優子」ではなくて、ひらがなの「ゆうこ」に聞こえる。そこにどういう違いがあるのか、説明はできないけれど)ちゃんと呼ぶ。初めて会ったときから。

でも先生と呼んでいた頃も、はっきり言って、美和ちゃんはあんまり先生っぽい感じじゃなかった。こんなことを言うのはステレオタイプ(固定観念のことをカタカナで言うとこうなる、と美和ちゃんが教えてくれた。響きがいかにも頭が固そうで、ぴったりだと思う)なのかもしれないけれど、なんていうか、美和ちゃんには威厳というものが欠けている。

「こんにちは」

「はじめまして」

あいさつしあうミドリさんと美和ちゃんの声を聞きながら、わたしは二分間でなんとか机の上のものをクローゼットの中に移動させた。勢いよく部屋を出て、ばたばたと階段を駆け下りると、美和ちゃんは脱いだ靴をそろえて顔を上げたところだった。ばっちり目が合った。

「こんにちは」

美和ちゃんはわたしに向かって、おじぎをした。本式のおじぎだ。

「こんにちは」

こんにちは合戦。わたしもつられて、深々と頭を下げる。

美和ちゃんの足の爪は赤かった。

「どうぞ、どうぞ」

暑かったでしょう? とか、道には迷いませんでした? とか言いながら、ミドリさんはリビングに美和ちゃんを案内する。わたしもそのあとに続いた。

後ろから見ると、美和ちゃんはわたしよりもかなり小柄だった。髪の毛は栗色で、ふんわりカールしている。地毛だろうか、パーマだろうか。自分の髪の毛がかたくななまでに真っ黒かつまっすぐなので、わたしはこういうやわらかい髪質にかなりあこがれる。

リビングは冷房をきかせてあった。ソファに向かい合わせに座ると、美和ちゃんは少し緊張しているように見えた。わたしも内心は緊張していたけれど、なにせ自分の家だしミドリさんもいるし、やっぱりだいぶ有利だ。わりと余裕を持って美和ちゃんを観察できた。

美和ちゃんが座ると、ふたりがけのソファがいつもよりも断然大きく見える。身長というよりは、体のつくり全体がほっそりとしていて華奢なのだ。肩幅だってあきれるほど狭い。顔も小さくて、でも目と口は大きい。好みにもよるかもしれないけれど、けっこう美人に分類されると思う。童顔だから、美人というよりはかわいいという感じかな。高校生と言ってもとおりそうだ。化粧っけもほとんどない。フリルのついたベビーピンクのノースリーブに紺色の半端丈のパンツを合わせ、手首には細い銀の鎖が二本まきついている。

「まあまあふたりとも怖い顔しちゃって」

お茶を運んできたミドリさんが、ほがらかに言う。

美和ちゃんははっとしたように顔を上げ、わたしの目を三秒間くらいじっと見て、それからにっこり微笑んだ。わたしの目の中になにか探していたものが見つかった、という感じの微笑みかただった。微笑むと、少し大人っぽくなる。わたしも同じように微笑み返そうとしたけれど(礼儀として)、どきどきしてしまってあまりうまくいかなかった。

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ミッシェルのシュークリーム(ミッシェルは家のすぐ近くにあるケーキ屋で、ここのシュークリームはわたしとミドリさんのお気に入りだ。生クリームとカスタードクリームが半々のやつがおいしい)を食べながら、わたしたちはぎこちなくとりとめのない会話をした。

こういうとき、ミドリさんはとてもしっかりするので、わたしはひそかに感心してしまう。こういうとき、というのは、学校の個人面談のときとか、ご近所から回覧板が回ってきたときとか。大人のひととしゃべるときのミドリさんは、いつも毅然としていて大人らしい。いつもの気が弱くて、すぐにおろおろしてしまうミドリさんとは別人みたい。

今回もミドリさんが主導権を握り、美和ちゃんとわたしの個人データをそれぞれにインプットしていった。美和ちゃんもわたしも、黙々とそれを消化する。シュークリームと一緒に。

美和ちゃんは、大学院の二年生だと言った。

「来年からは博士課程に進むんです」

もちろんわたしはハクシカテイというのがなんなのかよくわからなかったけれど、まあすごいわねえ、とミドリさんが言うので一緒にうなずいてみた。

「何を勉強なさっているんですか」

ミドリさん・大人バージョンは、会話のきっかけを逃さない。

「物理学です」

物理学。

あんまりそれっぽくないな、と思った(これもステレオタイプ?)。わたしの知っている「物理」といえば、薄暗い地下室で白衣を着ていろいろな実験をして、たまになにか爆発させてしまうような、そういう危ないイメージがある。目の前の女のひとにはうまく重ならない。

一瞬のまがあったので、隣のミドリさんもそう思ったということがわかった。

でも、ミドリさんはすかさず、それは難しそうね、女の子で理系ってめずらしいんじゃない、とかなんとか言って会話をまとめようとした。ところが、

「まあ、あまり勉強はしていないんですけど」

わたし、あんまり勉強が好きじゃなくて。美和ちゃんがおだやかに言うので、今度こそさすがのミドリさんも返答に困った。

家庭教師が、生徒とその保護者に向かって、そんなことを言っていいのだろうか? 教育上よくないんじゃないのかな?

「でも大丈夫です、高校の頃はきちんと勉強していたので」

そういう問題ではない、とわたしもミドリさんも思ったが、美和ちゃんには伝わらなかったようだ。相変わらずにこにこしながら、シュークリームをおいしそうに食べている。

「このシュークリームおいしいですね」

ミドリさんはシュークリームをいくつ買ってきたのだろう。もうひとつずつ食べられるだろうか。そんなことを思いながらミドリさんを横目でうかがうと、少し元気がなくなっているように見えた。

わたしのほうは、なんだかうきうきしてきたのだった。


思ったとおり、美和ちゃんとわたしは気が合った。

思うに、家庭教師を選ぶときに、学歴とか実績(今まで何人の生徒を志望校に合格させたか、とか)なんてことにはたいして意味がない。

大事なのは、相性。

これは塾や学校の先生にもあてはまることなのだろうけれど、家庭教師の場合は一対一なので、よりその度合が高まる気がする。

そして美和ちゃんの家庭教師としての腕、つまり勉強の教えかた、のほうも意外と悪くなかった。それどころか、かなりよかった。丁寧だし、わかりやすい。学校の授業の百倍くらいわかりやすい。しかも、どんな科目でも教えてくれる。

週二、三回教えてもらっていてすぐにわかったのは、そのとらえどころのない外見とは裏腹に、美和ちゃんはかなり論理的なものの考えかたをするひとだということだった。ミドリさんにそう言うと、

「やっぱり物理学だからかしら」

と言う。わたしも同じように思っていたので、笑ってしまう。こんな瞬間に、わたしたちって親子だなあとしみじみ思う。

しかも美和ちゃんが通っているのは、全国でベスト5に入る偏差値を誇る、超難関大学なのだ。世間知らずのミドリさんやわたしでさえ名前を知っている。

「先生、実は頭良かったんだ……」

ミドリさんはあわてて、失礼なこと言わないの、とわたしをたしなめたけれど、自分もそう考えていたことは明らかだった。

だからもちろんIQは高いのだろうけれど、勉強が嫌いだというだけあって、勉強の楽しさとかすばらしさを説いてくるようなこともない。

「どうしてこんなわけのわからない数式を解かなきゃいけないの?」

「現代日本に生まれたわたしが、役にも立たない古文の助動詞活用を覚える必要ってあるの?」

「ていうか、元素記号って意味あんの!?」

わたしが文句を言うたびに、美和ちゃんはきちんと答えてくれる。

「頭は使わないとなまっちゃうのよ」

とか、

「忍耐力を養うためだよ」

とか、

「世の中に必要なものしかなかったら、とんでもなく殺風景なことになるわよ」

とか。

そして決まって、だってゆうこちゃんは高校生でしょう、と言うのだった。

「まだ若いんだから、意義のあることだけに集中するには早すぎるよ」

◇  ◇  ◇

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