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〈あの絵〉のまえで #1

ハッピー・バースデー

いちにちのうちで、なんと言っても、朝がいちばん好きだ。

午前六時五分まえ、どんなにいい夢をみていても、ぱっと目が覚める。スマホのアラームはきっかり六時にかけているのに、どうしてだろう、決まって五分まえに目が覚める。

もうはるか昔のことになるけれど、十代の頃なんて、目覚まし時計をかけてもちっとも役に立たなかった。それがいまじゃ目覚まし時計要らず。正確すぎる体内目覚まし時計が、ばっちり起こしてくれるのだ。

アラームをリセットして、すぐに広島カープファンのアプリ「赤ヘル」にアクセス。昨日は対ヤクルト、6-3でがっつりいただき。今日はどうかな。先発は九里。よっしゃ、またもやいただきじゃ、と小さくガッツポーズをキメる。

ベッドから出たら、カーテンを元気よくさっと引いて、サッシの窓をからら、と開ける。アブラゼミの声が裏の神社でわんわんと響いている。今日も相当暑そうだ。

東向きの窓からは朝日が部屋の中に差し込んで、やたらまぶしい。古ぼけたマンションの小さな部屋だけど、日当たりだけは良好なのだ。

廊下へ出て、開けっ放しになっている隣室を覗く。ベッドに大の字、日に灼けた顔、大きな口を開けて豪快に眠っているのは、私の娘、夏里。もうすぐ十六歳、まっしぐらにカープが好きで、まっすぐにソフトボール一筋。私と同じ夏生まれで、私と同じく、生まれたときから父親がいない。短い結婚生活に早々とケリをつけたのだが、別れたあとにお腹に彼女がいることがわかったのだ。だけど、私はうれしかった。母に報告すると、手放しで喜んでくれた。大丈夫、あたしがお父さんになって一緒に育てるけぇ、と母は言った。ほんとうにたくましくて前向きな人なのだ、私の母は。

夏里の部屋の向こう、リビングのドアが開け放たれている。お決まりの広テレ朝番組「ZIP!」、カープの試合解説の声が響いてくる。

「おはよ」と入っていくと、座卓の前にちんまりと座っている白髪のショートカットのおばさんが、こちらをちらとも見ずに「おはようさん」と答える。

赤い画面に釘付け、朝っぱらから異様な熱気を放っているこのおばさん、私の母、奈津江、六十三歳。広島市内のお好み焼きの老舗「広さん」勤務、お好み焼き一筋たぶん四十年以上。なにせ私がものごころついたときにはすでに「広さんの奈津さん」になっていた。

赤ん坊の私をどこにどう預けて働いていたのかわからないけど、小学校からの帰り道に私が直行したのは、母が勤める店だった。からら、とサッシの戸を開けると、ソースと油のにおい。ものすごい勢いでキャベツを刻んでいる大将、広田博司、通称「広さん」が、おう、なっちゃん、おかえりー、と顔を上げずに真っ先に声をかけてくれた。母はタワシで鉄板をこすったり、広さんと一緒に具材を刻んだりして、カウンターの内側で開店の準備に忙しくしていた。だけど、私が入っていくと、すっ飛んできて、おかえり夏花、今日は学校どんなじゃった? と、わくわくと訊くのが定番だった。

その母は、広さん亡きあと、店の看板として、広さんの息子の若大将、と言ってもいまや立派なおじさんの晃さんを支え、無遅刻無欠勤を貫いて、今日に至る。

「早起きじゃな。ゆうべ遅かったのに」

声をかけると、母は、うれしさを隠し切れない様子で、

「カープ勝ったんじゃけえ、寝とられんが」

ほくほくと答える。そう、我ら三人家族は揃って筋金入りの「カープ女子三世代」なのである。

キッチンへ行くと、もう麦茶が沸かしてある。母は「麦茶は必ずやかんで煮出して冷やす」主義だ。コンビニで売っているペットボトル入りの麦茶のほうが便利だしけっこうおいしいのに、そういうのは麦茶と呼ばないらしい。スーパーでカットされて売られているスイカなんかも、スイカじゃなくて、カットスイカ。おにぎりも、フィルムにくるまれて売られているのは、ご飯を握ったやつ。それっておんなじじゃね? と突っ込めるのは、夏里だけである。

テレビでひと通り昨夜の試合を振り返ってから、母はよっこらしょ、と腰を上げ、キッチンに立つ。冷蔵庫から味噌、野菜、卵、漬け物を取り出し、朝食の支度が始まる。鍋に湯を沸かし、リズミカルに野菜を刻み、味噌を溶き、卵を焼いて、味付海苔に納豆、刻みオクラにおかかを混ぜて。

私はその間、身支度をする。さっとシャワーを浴びて、服を着て、狭い脱衣所の洗面台の前に立ち、日焼け止めファンデーションをひと塗り、アイメイクして、眉毛を描いて。

「っはよ」と夏里が脱衣所に入ってくる。意外にも寝坊をしない娘は、お腹が空いて目が覚めるんだそうだ。

「おはよ。今日も勝つ」

「もっちろん。勝つ」

すれ違いざまに、ぱちん、とハイタッチ。

「ご飯じゃよー」

母の声がする。「はいよー」と答えて、リビングへ急ぐ。大急ぎで顔を洗った夏里も、盗塁王・田中広輔よろしく、食卓のいぐさ座布団目がけて走り込む。

「いただきます」私と夏里は、揃って手を合わせる。

「はい、いただきましょ」母も頭を下げる。

じゃがいもとわかめのお味噌汁、きゅうりとなすの浅漬け、ふっくら卵焼き。カープ勝ち星のニュースを眺めながら、三人で、母手作りの朝食の食卓を囲む。いちにちのうちで、いちばん、好きな時間。

「いってきまーす」

「はいよ、いっといでー」

夏里が出かけるのは八時。私は八時半。母は十時半。帰ってくるのは私がいちばん乗りで夕方六時半、夏里が塾終わりで夜九時、母が午前零時を回る頃。

表通りは燦々と夏の太陽の光が射している。アスファルトの上にはすでにもわっと陽炎が立って、暑い、あつい夏の日が、また始まる。

でも、私は夏が好きだ。なぜって、三人とも夏生まれだし、カープの試合があるし。

それに……。

三人揃って元気に今年もまた夏を迎えられた。いちねんのあいだの大事な一区切り。母が何より大切にしている平和な夏を、どうして嫌いになれるだろうか。

つらく、長く、暑い夏だった。

私はもうすぐ二十二歳、大学四年生。東京でのひとり暮らしも四年目、就職活動が長引いてなかなか帰省できない日々が続いていた。

毎日、まいにち、一着しかないリクルートスーツと、かろうじて二枚ある白いシャツを交互に洗濯してアイロンをかけて着ていた。セミロングの髪をきちんととかし、メイクは濃過ぎず薄過ぎず、ヌードベージュのストッキングをはいて、中ヒールのパンプスをはいて。

現代用語集、時事ニュース、礼儀作法、言葉遣い。会社訪問、先輩とのランチ。就職活動のために必要なありとあらゆることを、ひと通りやった。完璧というくらいに。それでも、一社からも内定が出なかった。

「夏花、ちょっと高望みしすぎなんじゃないの? 狙い撃ちしてるところ、大企業ばっかりじゃない。小さいところも一応受けてみたほうがいいよ」

焦りまくる私にそう忠告してきたのは、大学の同期の友人、亜季である。

亜季は東京生まれの東京育ち、中目黒に自宅があって、有名なファッション雑誌の編集長をしている父親と、有名なスタイリストの母親のもとで、「おしゃれじゃなければ生きてる意味がない」と教え込まれて育ったんだそうだ。彼女はものすごい美人でもスタイルがいいわけでもなかったが、海外ブランドやデザイナーズ・ブランドの最先端のファッションで身を固め、まぶしいくらいおしゃれですてきだった。かつ、おしゃべりがうまく、人の気を引くのも得意で、やっぱりおしゃれな同い年の彼氏がいて、「就職決まったら早めに結婚しようとか言われたんだよね。でも、そんなのどうなるかわかんないでしょ」とさらりと言っていた。彼女に憧れない女子はきっといなかったはずだ。

私は文学部で、亜季は社会学部。大学三年生のとき、博物館実習の授業で一緒になり、知り合った。

在学中にとにかく何か資格を取得したいと思っていた私は、人気のある教員資格ではなく、学芸員の資格を取得することにした。アルバイトのシフトの関係で、教育実習に時間を割けないということがわかっていたからだ。学芸員というのはたぶんあの展示室の片隅の椅子に座っている人のことなんだろうと、最初は思っていた。それまでに美術館に行ったことなど数えるほどしかなかったので、さほど興味はなかったが、とにかく一年間資格取得のために必要な講義をいくつか受けて、夏休み中に五、六日間、美術館か博物館での実習を受ければいい。アルバイトにもそんなに影響なく過ごせそうだから、取ろうと決めた。

そして、三年生の夏の終わり、都内の美術館で、私はふたつの果実を得た。

ひとつは、亜季との出会い。もうひとつは、美術館への興味。

亜季はとてもおしゃれで、気さくで、一緒にいるだけでこっちまで明るい気分にさせてくれる、そういう天性をもった女の子だった。私たちはすぐに仲良くなった。

そして、博物館実習で通った美術館では、本物の学芸員の指導を受け、実際の仕事に触れることができた。美術館・博物館の四つの柱〈調査、収集、教育、展示〉について学び、学芸員には自分の研究対象以外にも美術に関するさまざまな知識が必要なこと、また、ときに難しい交渉をこなさなければならないこと、美術館同士のネットワークを大切にして情報交換すること、などなど、を知った。展示室や収蔵庫の見学、展示の際の動線の確認、作品の取扱い方、資料カードの作成の方法、教育プログラムの普及、広報活動、イベントの企画、などなど、など。

その美術館が所蔵していたモダン・アートのコレクションは、正直、最初はなんだかわからなかった。何が描いてあるのか、何が創られているのか。だけど、担当学芸員の阿部頼子さんの説明を聞いて、胸の奥に小さな火が灯るのを感じた。

──美術館の収蔵作品は文化財です。文化財は私たちみんなのものです。だから、アート作品を守って、次世代に伝えていくのが、私たち学芸員の大切な役割なんです。

私は一生懸命ノートを取って、毎日復習して、毎日必ず実習の最後に阿部さんを質問攻めにした。さぞ暑苦しい学生だったことだろう。それなのに、阿部さんは、ちっともいやがらず、とてもていねいに答えてくれた。亜季はその間、ちょっと離れたところで、私と阿部さんの質疑応答が終わるのを辛抱強く待ってくれていた。

六日目、最後の実習を終えて、私の阿部さんへの質問はたったひとつだった。

──どうしたら学芸員になれるのですか?

阿部さんの答えは、とてもシンプルだった。

──学芸員になるのはなかなか「狭き門」だけど、夢はあきらめたらそこでおしまい。だから、もしも、学芸員になることがいまのあなたの夢なら、とにかくあきらめないこと。それしかないと思います。

阿部さんの言葉は、まっすぐに私の胸に響いた。けれど、就職活動が始まってすぐ、それは空しいこだまになって消え果てた。

亜季は早々と都内の大手出版社に就職を決めた。お父さんのコネかお母さんの口利きがあったんじゃない、と友人たちはやっかんでいたが、私はそうは思わなかった。亜季はとても魅力的だし、人見知りもしないし、きっと仕事だってそつなくこなすはずだ。人事の担当者は毎年たくさんの学生を面接しているから、優秀なだけでなく、そういうオーラを放つ学生はすぐにわかるのだろう。

◇  ◇  ◇

〈あの絵〉のまえで 原田マハ

あの絵

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