見出し画像

彼の修復は魔法みたいだ…美術修復士が謎を解くアート・ミステリ! #2 コンサバター

世界最古で最大の大英博物館。その膨大なコレクションを管理する修復士、ケント・スギモトのもとには、日々謎めいた美術品が持ち込まれる。すり替えられたパルテノン神殿の石板。なぜか動かない和時計。札束が詰めこまれたミイラの木棺……。一色さゆりさん『コンサバター 大英博物館の天才修復士』は、天才的な審美眼と修復技術を持つ主人公が、実在の美術品にまつわる謎を解くアート・ミステリ。物語の始まりを少しだけご紹介しましょう。

*  *  *

やがて二人は、ガラス張りになった廊下に辿り着いた。その奥にある真新しい扉を開けると、大きく窓のとられた日当たりのいい、無機質で静かな空間が広がっていた。清潔で整然としたそれぞれのスペースで、修復士たちが3D眼鏡にも似たヘッドルーペをつけたり、イヤホンをしたりして、対象に集中している。

画像2

「ここが、紙専門のラボラトリーです」

晴香は声のボリュームを落とし、記者になかに入るように促す。

「大英博物館では基本的に、すべての作業が細分化、専門化されています。修復部門で言えば紙の修復をするのは紙の専門家で、他にも、木やミイラといったオーガニックなもの、石、陶磁器、ガラス、金属……いろいろな専門家がいます。それとは独立して、科学調査部というセクションもあって。他にも、レプリカだけをつくるレプリカ製作者や額装の専門家もいます。そのうち、ここでは紙や有機物を専門に扱うコンサバターが仕事をしているんです」

「なんていうか、全然古くないですね」

記者は息をひそめて、意外そうに辺りを見回す。

晴香は自らの作業机を見た。昨日まで修復を行なっていた羊皮紙の中世写本美術は、コレクション部門のスタッフに引き渡したばかりだ。魅力的な作品のない作業机は、水を張っただけで魚が泳いでいない水槽のように味気がない。

「そうだ、お見せしたいものがあります」

晴香は閃き、となりの作業スペースを見学させてもらう。

「彼女はパピルスの専門家で、今《死者の書》と呼ばれる、大英博物館でも人気のコレクションを修復しています」

作業をしていた金髪の修復士が、顔を上げてにこやかに挨拶する。

「古代エジプトでつくられた《死者の書》は、葬礼の呪文と挿絵が描かれた副葬品です。死者が迷うことなく安全に審判を受け、楽園に向かうための手引書として埋葬されました。大英博物館では、二百点以上の《死者の書》を所蔵しています。そのうち最長のものは三十七メートルにも及びますが、ほとんどの《死者の書》は五十センチに満たない断片です。それで彼女は今、その断片をつなぎ合わせる作業をしていて――」

晴香は修復士に許可をとり、近くに寄って一部分を指し、「ここを見てください」と記者に言った。

「白い帯が見えますよね? これ、和紙なんです。切れた部分をつなぎとめる補強材として使われています」

「へー、修復の世界って案外、日本のものが活躍しているんですね」

記者は目を輝かせながらメモをとる。

修復の現場では、和紙や麩糊といった日本の素材に関する知識が、たびたび役に立ってきた。じつは晴香の実家は、かつて和紙の製造所だった。事情があって廃業したが、幼い頃から両親の仕事を遊び感覚で手伝ってきた晴香は、環境と材料さえ揃えば、自ら和紙をつくることもできる。

和紙は日本美術に限らず、さまざまな文化遺産の修復に役立っている。その理由に、まず薄いことが挙げられる。しかも典具帖紙など、どんなに薄いものでも、伸縮性があって破けにくく長持ちする。また中性からごく弱いアルカリ性なので、繊細なオブジェクトを侵すこともない。

「そういう修復って、ひとつにつき、どのくらいの時間がかかるんですか」

「そうですね……」

ラボの見学者から一番多い質問だが、晴香は考え込む。修復は、しようと思えば際限なく手間暇がかけられるので、基本的に終わりはない。完璧にもとの状態に戻すことも、経年劣化を止めることも不可能だ。だから修復士の仕事は、はじめに期限を定めてから、そのなかでできることを考える。

「作品によりますが、私が昨日まで進めていた羊皮紙本の修復だと、一週間か、長いときは一ヶ月くらいでしょうか。ただし、それで完了するというわけではないんです。修復されたあと、収蔵庫や展示室に移されてからは、保存の専門家の出番です。彼らは各素材に適した温湿度や照度の測定管理をはじめ、空気中の窒素酸化物の確認調整などを行なう、いわば環境を相手にしたコンサバターですね」

へぇ、と記者はふたたびメモをとる。

「修復の世界って、知られていないことが多いんですね」

「なので、記事で紹介していただけると、私たちも嬉しいです」と言って、晴香は頭を下げた。

画像2

ラボを案内し終えたあと、二人は地上階に戻った。これから別の取材があるという記者を見送るために、晴香はグレートコートまで出て行く。すると受付スタッフの女の子と談笑している、一人の男性のうしろ姿が目に入る。背はさほど高くなく、服装も地味なのに、晴香はすぐに彼の存在に気がついた。

「スギモトさん?」

晴香が声をかけると、彼はふり返った。

日本的な面影を残しつつ、鼻梁の通った顔立ちで、茶色がかった瞳は好奇心旺盛そうな印象を与える。

「ようこそ、この高雅なる宝物庫へ」

スギモトは女性記者に爽やかな笑顔を向けたあと、完璧な日本語で言った。

「お会いできてよかったです。さっき糸川さんから、ご多忙だとお伺いしたので」

「今ブックメーカーに行ってきたんですよ」

「ブックメーカーってたしか――」

「いわゆるノミ屋ですね。選挙を前に、今どの党の誰が議席に残るのかっていう賭けが盛り上がっていて」

「勤務中に賭博を?」

記者が眉をひそめると、スギモトは心外そうに答える。

「さては、保険の起源をご存知ありませんね? 保険は大海原へと旅立つ船が帰還するか、沈没するかを賭けた、英国人による発案という説があります。したがって、賭けは伝統ある立派な文化で、英国紳士の嗜みってやつです」

たしかにイギリスでは、日本におけるコンビニと同じくらいの数のブックメーカーが街中に溢れ、ギャンブル依存症は社会問題のひとつだ。スポーツ全般のみならず王室に誕生する新生児の名前、クリスマスに雪が降るかといったことまで賭けの材料にされる。

記者は咳払いをして、話をつぎに進める。

「あの、いくつか質問を準備してきたんです」

「どうぞなんでも訊いてください、美人からの質問は大歓迎ですよ」

え、と一拍置いてから記者はつづける。

「『天才修復士』という評判を、ご自身ではどうお考えですか」

「ああ、その通りですよ」

当たり前のようにスギモトは肯いた。

しかしスギモトの実力なら、そんな不遜さも許されるのかもしれない。

粒ぞろいの大英博物館のコンサベーション部門では、専門以外の作品を任されることはまずないが、一人だけあらゆる作品を扱っている例外的存在がいる。それが部門のトップに立つ男、ケント・スギモトだ。

三十七歳という若さにもかかわらず、有機物、無機物、科学調査、すべての知識に精通する自他ともに認める「天才」なのだ。

彼は単に作品を修復する技術に長けているだけでなく、修復に必要な道具や装置を自らの手で開発できるという芸当の持ち主でもある。科学技術を美術分野に応用し、つぎつぎと文化財保存のための新しい機械を開発していった彼は、十年ほど前から、修復の世界を一変させたと言われるほどだ。

いつもラボ内での作業に勤しむ下っ端の晴香とは、仕事上の接点はほぼないが、ランチやパーティではたびたび彼のことが話題にのぼった。根も葉もなさそうな噂や、プライベートに関しては悪評に近いものもあった。

しかし晴香が学生のときに見た、彼が手掛けたレオナルド・ダ・ヴィンチの素描は、まったくの別物に生まれ変わらせるような直しすぎとも、どこを直したのか分からないと言われるような慎重すぎとも違った。

――スギモトの修復は魔法みたいだよ。

いつだったか、コンサベーション部門の先輩がそう絶賛していた。修復とは地道な作業のくり返しなので「魔法」という言葉はふさわしくないはずなのに、そこまでプロに言わしめるなんて只者ではない。勤務態度がどうであれ。

女性記者はふたたび咳払いをして、スギモトに訊ねる。

「立ち入った質問になりますが、大英博物館のパルテノン・マーブルやロゼッタストーンを筆頭に、権威あるミュージアムでは、現在コレクションの返還問題において倫理観が問われていますね。そのことについてどうお考えですか」

「日本の記者でも、まともな質問ができるんですね。私の答えは単純明快ですよ。たしかに他国から集めたものだとしても、数百年にわたって大金を投じて保存してきたのは、他ならぬ大英帝国の功績だ。大英帝国のおかげで存在するんだから、その所有物で間違いないでしょう」

スギモトは表情を変えず、きっぱりと答えた。

記者は眉をひそめ、反論する。

「しかしグローバル化が進んで、国家間の格差が顕著になってきた今、さまざまな意見があります。発展途上諸国の返還要求を拒みつづけていたら、利己主義や愛国主義との批判を浴びて当然ではないでしょうか」

スギモトはほほ笑みを浮かべた。

「あなたのご意見は分かりました。しかし考え方によっては、文化遺産は人類共通の普遍的価値を持つものであり、原産国に独占されるべきではないとも言える。それに、国民が国を愛してなにが悪いんです? あなただって、きっとラボで和紙が活用されているのを見て誇らしく感じたんでしょう」

鋭い指摘に、記者は口ごもる。

「もう質問は終わりかな」

「スギモトさんが鑑定したゴッホの絵画をめぐって、アラブの石油王から脅迫を受けているというのは事実ですか」

「ははは、面白い情報だな」

「ということは、デマ?」

「一部はデマだが、一部は事実。私が鑑定したのはムンクの絵画で、脅迫してきた相手は億万長者の華僑だった。依頼人は真作だと結論づけるようにさんざん脅してきましたが、科学調査に基づいて贋作だという結果が出てしまった以上、虚偽の発表はしなかったんですよね」

「それで、どうなったんです?」

「ここじゃ話しきれないので、今夜ゆっくり食事でもどうですか」

スギモトはあっというまに記者を自分のペースに巻き込み、名刺を胸ポケットから優雅に差し出した。記者は頬を赤らめながら「そういうことなら」と受け取る。やれやれ、たいしたもんだ。晴香は「では、私はこれで」とその場を立ち去った。

◇  ◇  ◇

連載はこちら↓
コンサバター 大英博物館の天才修復士 一色さゆり

コンバサダー

紙書籍はこちらから

電子書籍はこちらから


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!